一家、本性を晒す
「う、ううん……」
春美が微睡みから目覚めた時、既に外は明るくなり始めていた。窓からは朝日が射し込み、外からは鳥のさえずる声が聞こえてきていた。太陽の下で風がそよぎ、木々が揺らぎ、雲が流れる。まったく健やかな朝の景色がそこに映っていた。
「もう朝なんだ……」
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。そんなことを考えながら檻の中で体を起こし、軽く背伸びをした春美は、次に「あれはどうなったんだろう」と思って視線を檻の外に向けて視線を降ろした。
三人はまだ戦っていた。
「まだやってるよこの人達」
「まったく往生際の悪い……」
「まだまだ。あなたに遅れを取るつもりは無くってよ」
春美が唖然として呟き、アイビーが肩で息をしながらリザリスを睨みつけ、対するリザリスは余裕そうな態度を取りつつアイビーを見つめ返す。この時アイビーはそれまで着ていた漆黒のドレスではなく、「いつも通り」のメイド服姿に戻っており、そして一本だけになった黒い剣を両手で持っていた。角は無事だったが服と肌は傷と煤にまみれてボロボロで、翼もまた力なくうなだれていた。
一方のリザリスはそれまで着込んでいた木の鎧が半壊し、その下にある肌や寝間着が露わになっていた。しかし露出した部分に傷はついておらず、リザリス自身もまた疲労した様子を見せてはいなかった。
ハドラムは遠い所で目を回していた。
「あなたもさっさと降参したらどうかしら? 膝が笑っているわよ?」
「ご冗談を。これでもコロヌス様の侍従。無様な姿を晒す訳にはまいりません」
「なるほど、僕の鑑ね。わかったわ。そこまで言うなら、私も遠慮はしないわ」
剣を構え直すアイビーを見ながら、リザリスが楽しそうに微笑む。そして無事だった鎧の左腕部分に働きかけ、そこから太い枝を一本伸ばす。
先端の鋭く尖ったその枝は手を越えてまっすぐ伸び続け、そうして先端が地面につくほどに長く伸びた枝を軽く振り回す。そうやって枝の剣の感触を確かめた後、リザリスがその笑みを不敵なものへ変えながらアイビーに言った。
「せめてひと思いに倒してあげる」
「そなたら、何をしておるのだ?」
遠くからその声が聞こえてきたのは、まさにその時だった。リザリスとアイビー、そして春美が声のする方へ目を向けると、そこにはいつもの和服をかっちりと身に纏ったシュリの姿があった。
「これはまた随分と派手なことをしておるのう。アイビー、これはどうしたことなのじゃ?」
シュリは呆れた表情を浮かべながらメイドに問いかけた。問われたメイドは構えを解き、手にした剣を黒い霧へと変えて雲散霧消させながらそれに答えた。
「リザリス様がコロヌス様と高雄様の夜の営みを見学なさりたいと仰ったので、それを止めるために戦っていたのでございます」
「そこのハルミはどうしたのじゃ? リザリスと同じ目的でここにいるのかえ?」
「おそらくはリザリス様に無理矢理連れてこられたのでしょう」
「なるほどのう。リザリスのやりそうなことじゃ」
アイビーの返答を聞いたシュリは納得したように頷き、それから春美の方を見て「先の話は本当かえ?」と問いかけた。春美は即座に首を縦に振り、それを見たシュリは再びため息をついた。
「無関係な人間を巻き込むのは感心せんのう」
「だって一人で覗くのは寂しかったんだもん」
リザリスは全く悪びれる様子が無かった。シュリとアイビーは揃って顔をしかめ、春美はただ苦笑するしかなかった。
それからシュリはすぐに「まあ、良い」と気を取り直し、顔を元通りに戻してから今度はアイビーに問いかけた。
「つまりはアイビーよ。リザリスは最初から、この部屋を目的としていた訳であるな?」
「はい。その通りです」
「全く、イヤんなっちゃうわ。アイビーとハドラムが邪魔しなかったら、今頃あの二人がくんずほぐれつする様を思いっきり堪能出来ていたっていうのに。無粋にも程があるわよ」
リザリスの脳内に「反省」という言葉は無かった。どこまでも開き直るリザリスを見てシュリは「まったくこやつめ」と内心毒づきながら、それでもすぐにしたり顔を浮かべてリザリスを見据えた。
「なによその顔」
「そこに高雄とコロヌスはおらぬぞ」
そしてシュリの態度に気づいたリザリスが眉をひそめ、そんなリザリスに向けてシュリが平然と言葉を返す。
「……え?」
「その部屋に二人はおらぬ。そこは空っぽの部屋じゃ」
それは今まで夜通し戦っていたリザリスの心に、もっとも大きなダメージを与える言葉であった。
「予めわらわとアイビー、それとペトラムとハドラムの四人で示し合わせておいたのじゃ。まず二人をこの部屋に入れてから、その中でわらわが転移魔法を使って二人を別の部屋に移す。つまりはそなたが大暴れしていた時、二人はここではなく二つ上の階の部屋で、誰にも邪魔される事無く愛を確かめ合っていたということじゃ」
そしてシュリがしたり顔でネタばらしをする。リザリスは愕然とし、咄嗟にアイビーを見る。
「ここまで完璧に嵌まってくれるとは思いませんでした」
アイビーは笑顔で答えた。リザリスは目と口をあんぐりと開け、そして「何それ」と怒りと無力感を滲ませながら呟いた。
「そなたのしていたことは無駄な努力ということじゃ」
シュリがしみじみと呟く。リザリスは今度はシュリの方を向き、「なんでそんなことしたのよ?」と震える声で詰問した。
「どこかの誰かの覗き行為から二人の身を守るために決まっておるじゃろうが」
シュリはそれに怯えることなく、厳然たる態度で即答した。それから彼女は続けて「前科持ちもいることじゃしのう」と言ってリザリスを見た。
「前にもやったことあるんですか?」
驚いたのは春美だった。彼女は格子を掴んで顔を格子の間から外に出し、リザリスを見下ろしながらそう言った。肝心のリザリスはシュリから視線を逸らして白々しく口笛を吹いていた。
それを見ながら、アイビーが春美の問いかけに対して「物理的盗視もリザリス様の十八番なのです」と静かに答えた。次いでシュリが春美の方を見上げ、呆れた調子で言った。
「身も蓋もない言い方をするなら、リザリスは覗き魔なのじゃ。わらわの着替えシーンやソーラの入浴、アイビーが捕まえた男から精を拝借している所、とにかくなんでもじゃ。こ奴は興味を持った場面を見境無く覗き見る癖があるのじゃ」
「へ、へえ」
それを聞いた春美は呆然としながらリザリスを見た。人は見かけによらないものだ。失望こそしなかったが、それでも驚きはあった。
「こんな綺麗な人でも、覗きってするものなんですね」
「外見で人を判断してはいけない。そういうことでございます」
その春美の呟きにアイビーが答える。一方でリザリスはなおもはぐらかすように口笛を吹いていたが、唐突にそれを止めて「あ、そうだ」と言ってからシュリを見た。
「それ、証拠はあるのかしら?」
突然の物言いに、シュリは「は?」と目を点にした。そのシュリに向けて、リザリスは続けて言葉を放った。
「本当にこの部屋に高雄ちゃんとコロヌスがいないっていう証拠はあるのかしら? さっきの転移どうこうは全部嘘で、本当はちゃんとあの二人はここにいるんじゃないかしら?」
「何を言っとるんじゃおのれは」
「いい加減諦めましょうよ」
リザリスの言い分にシュリは眉をひそめ、春美はため息をついた。リザリスはそんな春美の方を見ながら「トリスタータの者は決して諦めないのよ」と言い切り、アイビーはそれに対して「あなたのそれはただの我が儘です」と疲れたように断言した。
しかしリザリスは折れなかった。
「とにかく、私はそうとわかるまで諦めないわ。この部屋に二人がいるという可能性が欠片でも残っている限り、ここから退くつもりは決して」
「姉上、何をしておられるのです?」
シュリの背後からコロヌスの声が聞こえてきたのは、まさにその時だった。全員がそちらに目を向けると、そこにはコロヌスと高雄の姿があった。二人とも頬が僅かに上気し、二人して首からタオルをかけ、髪はしっとりと濡れていた。
「あなたこそ何をしているのよ」
「私は先ほど高雄と大浴場へ行ってきたばかりです。姉上は何を?」
問いかけてくるリザリスにコロヌスが答える。リザリスは唖然として件の部屋のドアへ目を向ける。
ドアは堅く閉ざされ、開けられた形跡はどこにも無かった。
「証拠が向こうから来てくれましたね」
「説明する手間が省けたのう」
なぜ朝っぱらから二人揃って風呂に入っていたのか、そんな事を質問するような無粋な者は一人もいなかった。ただシュリとアイビーは安堵の笑みを浮かべ、敗北を察したリザリスは半壊の鎧を着込んだままその場に崩れ落ちた。コロヌスと高雄は状況が飲み込めず、揃って困惑した表情を浮かべた。
「あの、そろそろ降ろしてくれませんか?」
そして春美はいい加減木の檻から出たかった。
朝食はそれからぴったり一時間後に開始された。全員が席につき、一斉に食事をとって英気を養った。
今日の献立はスクランブルエッグとトースト、コーンスープにサラダと、いたってシンプルなものであった。贅沢とは程遠い、簡素なものだった。
「行き過ぎた贅沢は身を滅ぼすだけだ。だから特に記念日でも無い限りは、これくらいでちょうどいいのだ」
城主のコロヌスは誰に言うでもなくそう言った。彼女の仲間と家族、そしてこちらの生活に慣れ親しんでいた高雄は平然とその主張を受け入れた。同様に春美もまた、それに対して不満を抱いたりはしなかった。タダで衣食住を提供してもらっておきながら、これ以上文句を言うのは罰当たりというものである。
むしろその既視感溢れるメニューを見た春美は「こっちに来てこんな料理が出てくるなんて」と驚いたが、以降はそれ以上不審に思うこともなく素直に完食した。実際素朴であったが、味も量も申し分無かった。食べきった春美は自分にここまでしてくれるコロヌスとその仲間達に深く感謝した。
「トーストのおかわりが欲しい方は遠慮なくお申しつけください。コロヌス様が一瞬でお作りになりますので」
「主に焼かせるとはいい度胸だな」
そして食事の途中でアイビーがそう告げ、コロヌスはふてくされながらも片手を持ち上げてその手の中に火球を生み出した。なんだかんだ言って準備は万端であった。するとそれを見たペトラムが「じゃあ私百枚食べたい!」と言い放ち、目を輝かせながらコロヌスを見つめて言った。
「姉様、百枚焼いて!」
「それはさすがに……」
「百枚でいいのか? いいぞ」
ひきつった笑みを浮かべる春美の横で、コロヌスはこともなげにそう答えた。そしてアイビーも淡々と百枚の食パンを配膳台から取り出した大皿の上に並べ、百人規模のパーティで使われるようなサイズのそれを静かにコロヌスの前に置いた。
「それ」
そのパンの群れの中に、コロヌスが手の中の火球を落とす。パンの一つと接触した火球はその場で弾け、一瞬で皿の表面を覆い尽くした。しかしそうして生まれた炎の膜はすぐに消えて無くなり、後にはこんがりキツネ色に焼かれた食パンの群れが残されていた。
「ほら、これでいいか?」
「わーい! 姉様ありがとう!」
そうして出来上がった大量のトーストを載せた皿を、コロヌスが反対側に座っていたペトラムに差し出す。ペトラムはその皿を自然な動作で受け取り、その内の一枚に手を着け始めた。
「大丈夫なんですか?」
その様子を見ながら、高雄が心配するようにコロヌスに問いかける。問われたコロヌスは「問題ない」と返し、アイビーのいれたコーヒーを受け取りながら続けて言った。
「ペトラムは昔から大食いでな。特に激しい運動をした後では、あれくらいはペロリなんだ」
「そうだったんですか」
人は見かけによらないと言うだろう? コロヌスがそう告げ、それを聞いた高雄は素直にそれに頷いた。そしてそのコロヌスの言を証明するかのように、ペトラムは下品にならない程度に速いペースでトーストを口の中に放り込んでいっていた。
「喉に詰まったりしないのかな……?」
「ヘーキ、ヘーキ! 義兄様は安心してていいからね!」
その様子を見て不安げに呟く高雄に対し、ペトラムが食事を中断して笑顔で答える。高雄は少し表情を和らげ、しかしそれでもまだ気になるようにペトラムの方を見つめていたが、その彼に対してペトラムの横に座っていたシシルフェルトが声をかけた。
「安心してください。ペトラムの胃袋は特別頑丈に出来ていますから。これくらいで負けるほど、この子はヤワではありませんわ」
シシルフェルトの声は相変わらずか細く淡々としていたが、同時に娘への強い信頼も込められていた。そしてコロヌスが高雄の肩に手を置き、「ペトラムを信頼してやってくれ」と彼に言った。
「人を見かけで判断するなということだ。な?」
コロヌスのその言葉を聞いた高雄は、ついにその顔から憂いの色を消した。そうして表情を明るくした高雄を見て、シシルフェルトは「シシルの言葉ではなく、コロヌスの言葉で安心を覚えるのですか?」といたずらっぽく彼に問いかけ、高雄はそれを受けて大いに戸惑い、顔を赤くした。
それを見たシシルフェルトは高雄に見えないところでクスリと笑った。それから彼女はすぐに涙目の顔を作り、高雄に向かって口撃を続けた。
「ひどいです。シシルはコロヌスの母なのに。高雄君はそんなシシルを邪険に扱うのですか?」
「え、それは、あう……」
効果覿面だった。あからさまな泣きの演技を前にして、しかしお人好しの高雄は何も言えずに気まずい表情を浮かべて沈黙した。そしてそれを見たリザリスは愉快そうに笑い、次いでシシルフェルトに目を向けながら口を開いた。
「仕方ないですわお母様。高雄君はコロヌス一筋なんですもの。愛の力に勝るものは無いということですよ」
「確かにそうかもしれないけど、それでも妬いてしまうわ。だって高雄君、まるでシシルは眼中に無いかのような態度を取るんだもの」
「おいおい、高雄君をそんなに責めるものではないよ。それに君には私がいるじゃないか」
そこで彼女の横に座るゼルヴェーが助け船を出した。高雄は安堵し、それを聞いたシシルフェルトは幾分か表情を和らげた。しかし彼女はまだ不満げな顔を浮かべ、そしてゼルヴェーにしなだれながら「それでは、ゼルヴェー様はシシルを満足させていただけますか?」と甘えるように言った。
「もちろんだとも。このゼルヴェーに任せるが良い」
ゼルヴェーはそう答え、大きく口を開けて威勢良く笑った。シシルフェルトは「まあ、嬉しい」と声を弾ませ、そのゼルヴェーの首に自分の腕を回した。
呆然とその光景を見る高雄に対して、コロヌスは「すまない」と申し訳なさそうに声をかけた。
「母上はその、ちょっと悪戯をする癖があってな。気に入った相手にちょっかいをかけて、困らせるのが好きなんだ」
「お、お茶目な人なんですね」
「好意的な解釈をするなら、そうなる。さっきも言ったように」
「人は見かけによらない?」
そういうことだ。機先を制されたコロヌスが素直に頷く。高雄はコロヌスの方を向いて笑みを浮かべ、「わかりました」とこちらもまた素直に頷いた。
人は見かけによらない。
コーヒーを飲んでいた春美はその言葉を心の中で反芻していた。確かにリザリスもペトラムも、自分の予想と大きく異なる姿をしていた。一見儚げに見えたシシルフェルトも、実はかなりやんちゃな性格をしていた。
藤澤高雄もそうなのだろうか?
「そういえば」
そういえば、彼とはまだまともに話をしたことが無かった。彼もまた、本性は自分の予想と大きく異なったりするのだろうか。
本当の彼はどういう性格をしているのだろう。
「どんな感じなんだろうな」
コーヒーを飲み干してから春美が呟く。
この時初めて、春美は高雄に対して明確な興味を抱いた。