メイドたち
ホワイトタワーに入る前に、まず箒の収納です。さすがに箒を塔に持ち込むわけにはいかないので。
塔の南壁の沿って巨大な木製の階段が据え付けられており、ホワイトタワーには二階にある入り口以外からは入ることができません。その階段の下に細長い金属の箱が設置されており、この箱の蓋をあけて箒を収納しました。箱はロンドン塔地下にある工房と繋がっています。
昔の魔女は庭箒で空を飛んだかもしれませんが、現代の魔女は科学技術の力を借ります。名前こそ箒ですが、正式にはオーボエと呼び、長さは2メートルあまり、柄は金属製、端にはブラシの代わりに筒状の物体がついています。この筒は何の変哲もないがらんどうですが、中に魔女の血と呼ばれる鉱石が設置されています。魔女の血を筒に入れると魔女の意識に反応して開放部から噴流を発する性質があり、この噴流の反作用で箒は前進します。もちろんこれだけは単なるロケットです。人が座って飛ぶには「浮く」必要があります。魔女は魔女の血を利用することで棒状の下面に見えない「場」を作り出すことができます。この「場」に一定の速度が加わると揚力が発生し、あたかも鳥のごとく空を飛べるというわけです。魔女と呼ばれつつも、こと飛行に関しては科学に依るところが大きいのです。
箱の横にあるレバーを引くと、内側にある昇降機がちゃがちゃと騒がしい音をたてながら遠ざかっていき、しばらくすると今度はからからと軽い音たてて近づきいてきました。昇降機の停止を確認。これでホワイトタワーに入れます。
箒を手放して心持ち重たく感じる身体を引きずりながら階段を上り、扉に据え付けられているノッカーを三度打ち付けます。疲労からなのかノッカーが重く感じられました。
すぐに入り口の厚い扉が引かれました。暗がりにいた瞳には眩しすぎる光を、帽子のつばで遮ります。
「おかえりなさいませ、ソフィーさま」
目深にした帽子を元に戻すと、ジェシーが笑顔で出迎えていてくれました。黒いドレスに白いエプロンのお仕着せという女中定番の服が後光を浴びて妙に美しく見えます。
「……ただいま」
帰投して回復傾向にあったわたしの気分は下降に転じます。
ホワイトタワーに住んで二ヶ月ほど経ちましたが、女中たちとの距離はなかなか縮まりません。特に年の離れた大人は苦手でした。それは同じ女性であってもです。ジェシーは女中の間でも背が頭ひとつ高く、端正な顔立ちと切れ長の鋭い目つきも相まって近くにいるだけで極度に緊張します。人見知りのわたしには苦手なタイプ。
背後で扉が閉められ、閂の落ちる重い金属音がしました。あのがちゃりという音は牢獄を連想するのであまり好きではありません。
要塞でもあったホワイトタワーは石造りで、内側の壁沿いは階をぐるりと一周する廊下になっています。天井が高くすれ違うにはやや窮屈な薄暗い廊下を、ジェシーの後を追うように進みます。スカートの穴はばれないようにマントで隠しました。
塔に戻ったらまず魔女の装備――魔女帽子、ビークマスク、マント、手袋、ブーツ――を外さねばなりません。装備を外す手伝いはジェシーの役目ではないので、彼女が同行する理由ははありません。単に手にしているトレイを戻すついでなのでしょう。客間女中のジェシーが空のトレイを持っているということは接客があったということです。夜に来客とは珍しいこともあるものです。
「先ほどまでマリーがルースさまのお手伝いをしておりましたから、まだ衣装部屋に居るかもしれませんわ」
「……そう」
ジェシーの髪を飾るキャップのリボンが小気味よく揺れています。その動きを何気なしに眺めていると、心にぽっかりと穴が開いたような気分になりました。
ホワイトタワー二階の西側半分はもともとは宴会場として使われていたひと続きの大きな部屋でした。改装された現在は小部屋に区切られ、事務所や客間などに使われています。
魔女の装備を保管している通称衣装部屋は二階の北東の角にある小部屋で、ホワイトタワーの入り口からはちょうど対角に位置します。だから入り口から衣装部屋には西側の廊下を渡りきり、北側の廊下を端まで歩かねばなりません。
ようやく辿り着いた衣装部屋の戸を叩くと、中からは反応はありません。ジェシーが戸を開けると、部屋は真っ暗でした。
「おりませんでしたね。ここでお待ちください、すぐ人をよこしますわ」
ジェシーはそそくさと衣装部屋のすぐ側にある螺旋階段――この螺旋階段だけがホワイトタワーを地下から最上階の三階まで続く――を降りていきました。
「疲れた……」
ジェシーの姿が階下に消えてるのを待ってマスクを外しました。
ロンドン塔の敷地内はマスクを付ける必要はありません。けれどわたしは衣装部屋に着くまでマスクを付けたままにしています。マスクがあればジェシーに限らず、馴染みのない二階で働く女中と遭遇しても少しだけ安心できるのです。こちらが素顔を隠すことで、精神的に相手より優位に立った気になれます。そうすると苦手な人とでも、普通に接することができるような。そんな気分になるのです。
「神話にもマスクを付けると人が変わったりする話があるけど、魔術的な意味があるのかな」
ひっくり返して表にします。
「気持ち悪い……」
マスクは表情を剥ぎ取られた死人の顔に似て、初めて手にしたときは、あまりの気持ち悪さに危うく投げ捨てるところでした。表を下にして視界に入らないようにしました。
「お腹すいた。早く来ないかな」
女中に頼らずとも服くらい自分で脱げます。なので部屋に入りとっとと装備を外せば、すぐにでも三階の居間でくつろげるのですが、この部屋にひとりで入るのが苦手です。苦手というより怖いのです。
別に幽霊が出るというわけではありません。
ちなみにホワイトタワーに幽霊が出るというのは嘘です。いえ、もしかしたら昔は出ていたかもしれません。というのも私がホワイトタワーに来て間もない頃、ふとその噂に触れたところ「魔女が住み着いてから幽靈は出て行ったのよ。きっと居心地が悪くなったのね」と聞かされました。たしかに魔女と幽霊が同居する話を聞いたことがありません。
衣装部屋は任務に赴く時や帰投した時に、魔女の装備を身につける部屋であると同時に装備類の保管庫として利用されています。使われもしないのに手入れだけはしっかりとされている銃や大小様々な剣、用途不明の機械や道具が隅に積まれています。
わたしがこの部屋を好まないのは、壁に並べてかけられたマスクがとにかく不気味で、ガラス製の眼球が常にこちらを監視しているように感じられるからです。
「お待たせしました」
雑役婦のマリーが階段を駆け上がってきました。他の仕事をしていたのか袖をまくったままです。
「すぐ明かりをつけますね」
息を切らしたままのマリーは衣装部屋に入り、ぶつかったり落としたりと騒がしくした後、ようやく中に明かりが灯りました。それを確認してわたしも室内に入ります。ランプひとつでは部屋全体に明かりは届かず、奥のほうは深い闇に沈んでいました。
くりくりとしたよく動く瞳に愛嬌のある光を浮かべるマリーは、動きに優雅さの欠片もありませんがとても機敏です。マスクを壁にかけ、てきぱきと帽子とマント、手袋を取り外して脇のテーブルに置きます。
マントを取るとスカートの穴が露わになります。マリーは「まあ」と驚き、あまりに大きく目を剥くので危うく吹き出す所でした。
使用人の多くは、わたし達が外でどのような活動をしているのか、新聞に載る程度の内容しか知らないようでした。わたし達も詳しく教えることはしませんし、彼女らも関心を示すことはしません。魔女という異形でありながら、彼女たちの態度はいたって自然で、人間の主人に使えるそれと変わらないのです。わたしにはそれが異常に思えてなりません。むしろ意識して避けている、いえ意識しないように意識しているという気がして、気持ち悪いのです。彼女たちもまたマスクをしていると。それがまた彼女らと距離を縮められない理由です。
その中でマリーはわたしを魔女として意識することを隠そうともしません。いつも好奇心で満ちあふれた、珍しい話を期待している瞳でわたしに接してきます。だけどもそこはマリーも使用人の端くれ、主人であるわたし達に話をねだることはしませんが。だからせめてこうして着替えを手伝い、魔女の残香を楽しもうとしているようでした。
「おかけになってください」
部屋に備え付けの丸椅子に腰掛けると、マリーは腰を落としてブーツの編み上げを解いてくれました。足からブーツが離れると、開放感で思わず息がでます。
どうして魔女の装備はこうも体を拘束するものが多いのでしょうか。
揃えて差し出された室内靴に履き替え、片付けをマリーに任せてから衣装部屋を後にしました。一つ上の最上階に移動します。任務用のドレスとはいえ、さすがに服として身につけているので着替えは自分の部屋で行います。早く私服に着替えたいところですが、装備を外したらまずエミリアに帰投の報告をせねばなりません。エミリアはみんなの集まる居間にいます。今日だけは先に着替えを済ませたい。スカートに開いた穴を衆目に晒すのはさすがに恥ずかしいので。
「おかえりなさい、ソフィー」
「ソフィー、帰投しました」
スカートの前を絞って居間に入りました。
「寒かったでしょう。さあ、ママにキスして」
エミリアは階段に近い暖炉の真向かいにある大きなソファで――そこはエミリアの定位置でしたが――くつろいでいました。腰を落としてエミリアの柔らかな頬にキスをします。ほのかな甘い香りが鼻孔をくすぐりました。ずっと昔に同じ香りに包まれたことがあるような、懐かしく、心が安らぐ香りでした。
エミリアは不思議な人でした。大人の世界に踏み込んだばかりのお姉さんでありながら、すでにここを家庭としての安らぎの場にしてしまった母親として十分な素質を持っていました。
腰まで伸びる長い髪はまるで金糸から織りあげたと紛うばかりに輝き、乳のように滑らかで純白の肌があいまってまるで全身から光を発しているようです。円熟した女性と無垢な少女の二つの顔を併せ持つ容貌の中で、早春の海を固めて削りだしたような碧眼が特に印象的です。
ロンドン中の淑女が羨むほどのウェストの上に、古代の女神でも敵わぬほどの豊かな胸を載せ、それらを白いモスリンのドレスで包んでいました。
瞳を閉じてもその姿を一欠片の狂いもなく鮮やかに浮かび上がらせることができる。きっと物語に登場するお姫様が実在するなら、それはエミリアに違いありません。
「遅くなりました」
「今日は初めて続きだったし、大変だったわね。予定外の任務にもつき合わせてしまって。ともかく無事でなによりだわ」
居間は幅9メートル、奥行きはその倍ほどある長方形。奥の一角は食堂を兼ねており、全員が席につく大きなテーブルが置かれています。
相部屋ですが各自に部屋があるにも関わらず、自分の部屋を使うのは寝るときと着替えのときくらいです。ホワイトタワーに居るときは、大抵ここに全員が集まっていました。
王様の城だったわりには要塞でもあったためかホワイトタワーには快適に暮すための近代的な居住設備に乏しく、部屋の西側に等間隔で並ぶ三つの暖炉もわたし達が住むことになってから備えられたものです。それぞれの暖炉前は空けられており、その空間をソファーや椅子、テーブルが取り囲んでいます。
王の寝所として使われていたこの大部屋も、今では魔女がソファーや椅子をそれぞれにお気に入りの場所に決めて、紅茶を飲みながらお喋りに勤しむ居心地の良い場所になっていました。
「あら、ソフィー、帰っていたの」
どこに隠れていたのか部屋の奥から少女がひょいと現れました。少女はパトリシア。頭の高い位置で髪を結って左右から垂らす珍しい髪型をしています。長い二つのおさげが少女の動きに合わせて揺れます。
パトリシアはひとつ上のお姉さんですが、まだスモックとフリルとレースに彩られた袖付きエプロンを着ており、それがとても似合い過ぎて、幼女のように見えます。
パトリシアはエミリアと対極にある女性でした。人の手で作られたような意図的な幼く愛らしい顔立ち。冷たそうな釣り気味な眼。その中に納まる神秘的なピンク色の瞳。現実にはない特徴的な髪型。まるで精巧に作られた人形です。
パトリシアはその印象の期待通りに、女の子なら誰でも一度は経験するある感情を想起させるのでした。それは生まれて初めての心からの友だちとなるお人形さんに対する感情そのものです。愛おしい、守りたい、秘密を分かち合いたい気持ち。自分の捧げた感情が鏡のように反射するだけなのに、あたかも自分のためだけにと思わせるあの不思議な感覚です。
「あなた泥だらけじゃない。それに服も破れて。みっともないわ」
この可愛らしい顔には相応しくない物言い。この口の悪さと不遜さがなければパトリシアはエミリアにも劣らぬ小さな淑女なのに。
「また着陸に失敗しちゃって……」
出会った頃は打ち拉がれて、言葉を返すことすらできませんでしたが、最近ではパトリシアがわたしにそう言わせたい事を言うことにしています。パトリシアは年上だし魔女としても先輩だし、なによりこの方が楽ですから。
「ママへの報告は終わったんでしょう? そんな格好で居られると部屋まで汚れるわ。早く着替えてきなさいよ」
「う、うん。ごめんね」
パトリシアに言われずとも、わたしだってこの格好で長くはいたくありません。そそくさと二人から離れると、廊下からどたどたとけたたましく走る音がし、扉が弾けるように開け放たれます。続けて二人の小さな女の子が我先にと居間に雪崩れ込んできました。最年少の魔女、エセルとカースティです。
二人は入り口の前にいたわたしを取り囲み、楽しげにきゃっきゃと声をあげて、ぴょんぴょん跳ねます。盛大なお出迎えです。
「た、ただいま。二人ともご機嫌ね」
エセルとカースティの異常な気分の高揚はお昼寝の後だからでしょう。
「「ソフィー! おかえりー」」
エセルとカースティはしつらえたような瓜二つの顔と背格好をしている上に、髪型と服装をお揃いにしています。同時に口を開くとどちらがどちらなのか見分けることはエミリアにしかできません。だからパトリシアは自身の貴重なリボンコレクションから選んだ朱色に白いストライプのリボンをエセルに、薄い青地に白いストライプの入ったリボンをカースティにプレゼントと称して付けさせているのでした。
パトリシアにとって矜大が通じない二人は天敵なのです。
「ひゃぁぁぁぁあ!」
ふいに冷たいものがふともも触れ、初めての感触にうわずった悲鳴をあげてしまいました。
「穴だー」
「手が入るー」
エセルとカースティが前後からスカートの穴に腕を肘まで突っ込み、闇雲にぺたぺたとまさぐっていました。二人にふとももを弄ばれ、脚の力が急に抜けます。椅子に手をついてあやうく倒れるのを防ぎました。
「おちびさんたち、こっちへいらっしゃい」
珍しいおもちゃを見つけて夢中になって喜んでいた二人はスカートの穴から腕を抜くと、エミリアに駆け寄ります。
小さい女の子とはいえ子供二人の体当たりを、よくもあんな華奢な体で受け止められるものです。
「「ママ、下に隊長がいたよ」」
産まれたての子鹿のように頼りない足取りでこの場を去りながら、エセルとカースティの報告を耳にしてホッと胸を撫で下ろしました。ジェシーが接客していたのは隊長ことマスターだったのです。もう少し早く帰投していたら二階で遭遇していたかもしれません。マスターは長居をしないし、二階の事務室から出ないので、三階に居れば安心です。
エミリアはエセルとカースティを褒めながら二人の銀色の髪を優しく撫でていました。褒められた喜びを言葉でうまく表現できない二人は、エミリアの胸に顔を埋めていました。
箒で空を飛ぶわたしたちとは違い、ロンドン塔から出る機会のない二人は、いつも刺激に飢えています。だから変わったものはないかと日中は塔内をくまなく探索して、どんな些細な変化でも逐一エミリアに報告するのです。
もっとも、無垢な魂の結晶である彼女らに良し悪しの判断などできるはずもありません。二人の報告でお咎めを受けた使用人は一人や二人ではありません。
「そうだわ、ソフィー」
居間からまさに出ようとした時に、エミリアは大事な用件を忘れていたとでも言った風に柏手に打ちます。
「着替えたらすぐに戻ってきてくれるかしら」
北側の廊下を西に進み、角にある二階へと続く螺旋階段を折れると、六つの扉が並ぶ西側の廊下に入ります。三階の西側は魔女たちの部屋になっており、わたしの部屋は角から四番目。エセルとカースティと相部屋です。
暗がりのなかを部屋の前まで来ると、一番の奥の戸が開きました。中からぬっと一つの影が揺らめきながら現れました。そのままよろよろとおぼつかない足取りで、シャーロットが欠伸をしながらこちらに向かってきます。
「ソフィーなの? おかえりい」
欠伸を目撃されたのが恥ずかしかったのか、シャーロットは両手で口を抑え、ほんのりと頬を赤らめます。
「ただいま、ロティ。お昼寝をしてたの?」
「おちびさんに本を読んでいたらいつの間にか寝ちゃってた。起きたら二人とも居なかったの。また探検に出かけたのかしら」
シャーロットはうふふと笑います。
「二人とも居間よ。ちょうど会ったわ」
「あら、そうなの。行ってみるわ。ありがとね」
まだ眠気が収まらないのか欠伸を噛み殺してシャーロットは廊下の角に消えました。
シャーロットはレイラと同い年。彼女もまた先輩の魔女です。シャーロットはレイラに先んじて子供服から大人のドレスに切り替えています。シャーロットは年上のルースより体の発育がよく、少女のふくよかな丸みは大人の女性として特徴に変化を遂げていました。背も魔女の中では一番高く、わたしとは頭ひとつ分も違い、近くで話すと見上げなければなりません。
親しくなるまで距離を置いてしまう引っ込み思案のわたしとは違い、シャーロットは生まれつき控えめな性格のようで、みんなが集まる場所でもあまり口を開こうとしません。シャーロットは他人の会話に耳を傾けて、静かに微笑んでいるか寝ているかをするのが好きなようでした。
部屋のランプを灯し、光が次第に強まると、見慣れた部屋が浮かびあがります。ここでなら誰にも気を使う事なく息をつく事ができます。
この部屋も縦長で左手の壁にベッドの頭を向けて二つ並べられています。反対の壁にはタンスや本棚などの家具が置かれていました。あとは入ってすぐに向かい合わせに椅子が添えられた小さなテーブルが一つあるだけでした。
扉の脇にある紐を引きました。遠くで微かな鐘の音が鳴ります。廊下から部屋の扉が開く音がして、足音が近づくとわたしの部屋の前で止まりました。
「失礼いたします」
ドリスが恭しく頭を下げて入ってきました。ドリスもまた使用人ですが、わたし達と同じくホワイトタワーの三階に部屋を持っています。女中たちとは違い、普段から綺麗なドレスを身につけ、身の回りの世話をする侍女です。
ドリスはスカートの大穴を気にする風でもなく、てきぱきとドレスの身頃、トップスカートとパッド型のバッスル付きスカート、三層に重ねたペチコートを取り外しました。ドレスを脱ぎシュミーズとドロワーズだけになると体が羽根のように軽い。昔の人はこんなに沢山着込んでさぞかし辛い思いをしたに違いありません。
「まあドロワーズにまで……!」
さすがに下着にまで穴が開いているのは予想外だったのか、ドリスは珍しく声を上げました。
「また着陸に失敗したの」
「お怪我がなくて良かったですわ。でも、スカートにどうやって穴が」
着陸の様子を説明すると、ドリスは「まあ」と息を漏らしました。マリーと同じ反応ですがドリスが驚いたのは、魔女の驚嘆すべき力から生じた結果ではなく、女性としてそんな危険な行為をという理由からでしょう。
ドリスもまたわたし達を魔女ではなく、人間の主人として接するのです。
シュミーズとドロワーズを脱がされて一糸纏わぬ姿になりました。ドリスが替えの下着を準備する間に、姿見の前に立ちます。薄いピンク色の髪をお尻の下までだらりと伸ばした少女が無愛想な顔でわたしを見つめています。血色の悪い頬。みすぼらしく痩せた手足。貧相な胸にはあばら骨が浮き出ています。のど元からすとんと落ちる胸には女の子らしい成長の萌しは微塵もなく、そのままおへそから下腹部へゆるやかに曲線が描き、脚の付け根に消えていきます。
以前はどちらかというと肉付きもよく、食事にも気を使っていたのに、魔女になってからそれは逆転しました。魔女の力の使い方に無駄があるのか、いくら食べても体重は減る一方です。このままだと骨と皮だけになってしまいそうで、着替えるたびに不安になるのでした。
ドリスの肩に手をつき、新しいドロワーズに脚を通し、両腕をあげて頭からすっぽりとシュミーズを被せてもらいます。折り目がしっかりとついたプリーツスカートを履き、襟に糊の効かせたセーラー服に首を通しました。
ドリスが髪を梳いてくれる間に再び鏡で全身を確認します。そこには先ほどとは違い、お気に入りのセーラー服に身を包んで、随分と表情が明るくなった少女がいました。
「あら、リボンはどこかしら」
ドリスがブラシを手にしたままきょろきょろと周囲を探しています。
「なくしちゃったの。飛んでいる時に落としたから諦めたわ」
自然と小さなため息がでました。諦めはとうの昔につけたと思っていたのに、改めて口にするとお気に入りのリボンをなくした喪失感はそう簡単に癒えぬようです。
「後でカタログをご覧になりますか?」
いくつかの大きなお店はカタログを出しており、そこから選んで取り寄せることができます。わたし達が買い物をする際はカタログから選ぶか、女中に用件を伝えて買って来てもらうかのどちらかでした。
「同じものは見つからないだろうし、いいわ。この髪型に慣れるようにするから」
失ったリボンは洋服の切れ端から作られ、母が刺繍を入れてくれたものです。同じものはこの世界に二つと存在しません。それにたとえ気に入ったリボンが見つかっても、空を飛んでいればまた失う可能性はあるだろうし、なによりわたしはお金を持っていないのです。
「ソフィーさまは髪が美しいから、流していても似合いますよ」
ドリスは止めていたブラシを再び動かし始めました。
「それよりこのドレスはもう着れないわね。体に合っていたのだけど」
飛行のときに着用する帽子やマントなどの装備はどれもお仕着せですが、さすがにドレスはある程度の自由が認められていました。何種類かあるドレスの中から自分の好みで選択します。種類はデイタイムドレスやイブニングドレス、中にはウェディングドレスまで様々でした。統一されてないのはすべて貰い物だからです。貰い物ですから身体にぴったりと合うものは多くなく、好みのドレスを身につけたいがために、仕立て直してもらっていました。
なにせ女の子ですから好みには煩いのです。
一つ難を言えば、どの服も古く、しかも5年や10年、古いものだと20年前の服だと言う事です。ドレスは貴族の家からのお下がりらしく、どれも美しく、手触りも上等で、たぶん高価な品なのですが流行とはほど遠いデザインです。しかもクリノリンやバッスル全盛期の服が大半ですから、ペチコートを何枚も重ねてスカートを膨らませないと、裾が余り過ぎて歩くのに支障がでる欠点もありました。
「バッスルのスカートは交換しないといけませんね。トップスカートは補修できると思いますわ。女中に裁縫の上手なものがおりますので渡しておきましょう」
使用人と一口にいっても様々で、ジェシーは――滅多に訪れないことのない訪問者の――接客をする客間女中、マリーは清掃や衣装部屋の担当している女中、ドリスともう一人の侍女はわたしたち魔女の身の回りの世話や着替えを手伝います。女中もわたしたちの部屋を担当する部屋付きと呼ばれる人や、地下の台所にはコックや台所女中に、洗濯をする洗濯女中や洗濯女もいます。ホワイトタワーだけでなくロンドン塔の各施設にも女中がいます。ロンドン塔にどれだけの使用人がいるのかわたしも知りません。
それぞれの使用人には役割に応じて権限と境界があり、その壁は厚く高く、安易に他の使用人の領域に踏み込めばいざこざの元です。もっともわざわざ仕事を増やそうとする人はいないのですが。