白い塔の魔女
『レイラ、ソフィー、状況を』
再び入ったエミリアからのコーリングが、レイラに対し一方的に感じていた重たい空気を払ってくれました。
『こちら、レイラ。現在帰投中。あと15分で帰投します』
『了解したわ。それで悪いのだけど、もう一つお願いできないかしら。緊急の依頼なの』
『今度は?』
『南の空で飛行物を目撃したとの連絡が入ったの。ルースを待機させてあるわ。ソフィーを戻すついでにこちらで合流してくれないかしら。詳細はルースに伝えてあるわ』
『わかったわ、ママ』
レイラはためらいなく応じました。たしかレイラは夜勤明けで、休憩は取っているものの、昨晩からずっと飛び続けています。いくら飛行が好きだからといって、こうまでして空を飛びたいものでしょうか。わたしも飛ぶのが楽しくなってきたとはいえ、そこまで頑張れません。それとも他にレイラを動かす何かがあるのでしょうか。
『と、いうことよ。一日に二回も仕事が舞い込んでくるなんて今日は変な日だわ』
『週に一度あるかないかでしたよね』
『それだけ魔女が役に立っているということかしら』
上空にいる間、予想以上に風に流され、わたしたちはテムズ川の河口あたりにまで引き戻されていました。もう夜なので、今や真っ黒な線となったテムズ川の流れには従わず、西へ直進しました。帽子やマントをバサバサと振るわす風の強さが降下速度の速さを物語っています。離されないようレイラの背中を追いますが、不思議と恐ろしさを感じません。
テムズ川が最も大きく蛇行し、その形状からアイル・オブ・ドッグズと呼ばれる中洲の上空に達しました。アイル・オブ・ドッグズ周辺は特に港が集中しており、ロンドンの東端にあたるイーストエンドの聖キャサリンドックから下流のロイヤルアルバートドックに至るまで、川沿いには港のみならず倉庫や造船所などの施設で埋め尽くされています。また港で働く労働者の宿泊所や、その労働者のためのパブや商店なども数多くあり、さながら独立した港湾都市です。中洲は今もなお多くの明かりが灯り、光に映しだされた人の影が蠢いていました。
わたしたちはアイル・オブ・ドッグズを通り過ぎてから、テムズ川に入りました。
ここまで来たら目的地は目と鼻の先です。
テムズ川はいつになく濃い霧に覆われていました。川沿いにある家々の屋根から突き出ている煙突の形がはっきりと見分けられるほど低く飛ぶと、マスクで濾過してもうっすらと煙の匂いがします。
白い霧に包まれながら進むと、正面に二本の巨大な塔が姿を現しました。ロンドンの新名所タワーブリッジです。
タワーブリッジは数年前に完成したばかりの新しい橋で、シティの東側、テムズ川北岸にあるステップニーと南岸のバーモンジーを結ぶ交通の要所です。橋の西側にあるプール・オブ・ロンドンのアッパー・プールに接岸する船舶の進入を妨げないよう、水力で開閉する両開きの跳ね橋が特徴で、それを支える橋脚の高さは65メートルもあり、まるでシティを侵入者から守るロドス島の巨像のようです。
『レイラ、ソフィー、おかえりなさい』
思いがけずルースのお出迎えを受けました。ルースもエミリアと同じく遠くまでコーリングを飛ばせます。なのでシティ付近でルースのコーリングを受けるのは不思議ではありませんが、出迎えてくれたならどこかでわたし達を見ているはず。
『あそこよ』
レイラが前方を指しました。注意深くタワーブリッジを探ると、橋脚の上部にある歩行用の通路――今は閉鎖されていますが――ウォークウェイズの屋根に人影があります。こんな夜にあんな場所にいるのは魔女以外にありえません。ルースはレイラがそうするように箒を手にして立っていました。
『いつもあそこで合流するんですか?』
『見晴らしはいいし、人も来ないから便利なのよ』
レイラは上昇して、ルースの横に降り立ちます。
『じゃあね、ソフィー。レイラを借りるわ』
『行ってくるわ。着陸には気をつけるのよ』
『わかりました。ルースさん、レイラさん、お先に失礼します』
レイラとルースはウォークウェイズからするりと飛び立ち、瞬く間に南の空に消えました。
わたしは二人が去ったタワーブリッジの橋脚の間を抜け、右へ緩やかにバンクしてテムズ川の北岸へと進路を取ります。時をかわさず巨大な城壁と、その城壁に囲まれた四角い塔と対峙しました。
これこそ女王陛下の宮殿にして要塞、世にも名高いロンドン塔です。
「やっと着いた……」
疲労と緊張とお尻の痛みが一瞬で消し飛びます。長時間の訓練に耐えられたのも、ここに戻れば身体を休めることが保証されているからです。
ロンドン塔はロンドンで最も古い建造物です。この都市の礎と言っても過言ではありません。ロンドン塔は市中にも関わらず広大な敷地を持ち、いくつもの塔で補強された二重の城壁で囲まれています。この敷地の中心にはロンドン塔の天守閣であり、イギリス王室の最古の城であり、そして現在はわたしたち魔女の住処となっているホワイトタワーが鎮座しています。
ホワイトタワーは塔と呼ばれてはいますが地上は三階しかありません。しかも高さに対して横幅が広く、ずんぐりとしています。塔や城と呼ぶよりどことなくケーキに似ており、屋上から突き出た四つの小塔がロウソクを思わせ、ケーキらしらを強調しています。
高度を取り城壁を超えました。塔を上空から眺めると、ここはやはり塔ではなく城、本来の目的である要塞と呼ぶべき物々しさを城壁や数々の塔から感じます。
歴代イギリス王の居城であったにも関わらず、ロンドン城と名付けられなかったのは、おそらくロンドン塔の中心であり最も古い建造物が宮殿ではなく塔だったからではとわたしは推測しています。
そんなロンドン塔が魔女の棲家に決まってから、まず市民への開放は中止されました。続いて塔が昔に失った城塞としての機能の回復に手がつけられました。手始めに城壁の外側にあった濠を掘り返し、水で満たされました。外側の低く厚い壁と内側の背の高い城壁には近衛兵が置かれ、警備が強化されました。敷地内の施設や設備、人員もわたし達のために多くが入れ替えられ、ロンドン塔は魔女を運用するために存在する場所に生まれかわったのです。
初めて見る夜のロンドン塔を堪能しながら、ホワイトタワーを時計回りに周回して着陸の機会を覗います。
着陸地点はホワイトタワーの南側に広がる芝生と決められていました。芝生は東西に70メートルほどあり、着陸には十分な距離ですが、北から南へと緩やかに傾斜しており、油断すると簡単に足を滑らせます。また広場の西にはガードハウスが面しており、建物の壁に向かって着陸するのは心理的に大きな負担です。止まりきれないと壁に激突するので……。しかも今は夜。加えて初の夜間着陸です。昼間の着陸ですらままならぬのですから、感覚が異なる夜の着陸の容易ではないでしょう。擦り傷程度で済ませたいです。
次こそはと決意をしてすでに六回目の周回。意気込みに反してなかなか着陸に踏み出せません。
着陸は高度と速度の絶妙な組み合わせです。
接地の速度が早過ぎると足を地面についた途端に躓いて顔から地面に倒れこみます。高度を見誤り速度を落とし過ぎると失速して背中から地面に叩き付けられます。経験豊かなわたしから言わせてもらえば、顔を怪我する心配のない後者がお勧めです。
「次こそ……」
腹を括りました。
腋をぎゅっと絞め、膝を硬く固定し、手に力を込めて暗く沈む芝生に意識を集中します。速度と高度を慎重に落として曲げていた膝を前へ突き出します。
「あと10センチ」
と思った矢先、両脚に強い衝撃。着陸に失敗したことを瞬時に悟りました。
自分が何をしたかも何が起こったのかもわからず、為されるがままだったのは過去のこと。今のわたしは数々の失敗を経験として積み重ね、事態の把握はそれなりに自信を持っています。失敗の原因は目測が甘く着陸の高度が予想より低かったのは間違いありません。接地して即転倒しなかったので、速度は適切だったと判断できます。この状態ではもう着陸のやり直しは無理です。被害を最小限に抑えるために自主的な転倒が適切な対処です。具体的には側面へ倒れて受け身を取ります。完璧です。これで行きましょう。しかし、長時間に及ぶ飛行で、疲労が溜まっていたのか、それとも単にわたしの運動能力の問題なのか、身体は想像通りに動いてはくれませんでした。
足が支軸となって前につんのめりました。ほぼ同時に二つ目の衝撃が腕を通して身体の正面から背中に突き抜けます。箒の先端が地面に突き刺さっているのを眺めつつ、前方へ頭から投げ出されました。
「頭から一回転するのは初めてだっけ」
などと新たな失敗を事例に加えながら、果たして背中から地面に落下。衝撃と共に「ぐぇっ」という奇怪な声が身体の中に響き渡ります。ほぼ同時に杭のようなものを穿つ音がした後は静寂になり、ただわたしの低いうめき声が微かに響くだけでした。
「いたた」
派手な転倒にも関わらず芝生が衝撃を和らげてくれたのか、痛みは酷くありません。手や足の感覚も正常。意識も明瞭です。着陸には失敗ですが別にいつも成功している訳ではありません。むしろ初めての夜間の着陸に挑み、怪我もなかったのです。僥倖です。レイラの言うとおり確実に成長してるのかも。
「墜落も回避したし、まだ見習いなのに任務もやり遂げたし、もしかして魔女の才能があるのかも」
自然と笑みを浮かべます。エミリアもわたしの才能が分かっていたから、レイラの任務に同行させたに違いありません。さすがはエミリア。慧眼です。
「あとは着陸が完璧になれば……あ、離陸もか」
気分よく鼻歌まじりに勢い良く上体を起こします。するとコンッと軽い金属音が響くと同時に額に軽い衝撃を受けました。帽子のつばが何かとぶつかったようです。
帽子を後ろにずらして顔をあげると、鼻先の距離に視界を遮るものがありました。近すぎて焦点が合いません。上体を反らしてみるとそれは塗装がされてないのか鈍い銀色をした金属の棒でした。太さは両手でやっと収まるくらいです。
「こんな場所に街灯? でも街灯にしては細すぎなような」
ホワイトタワーの南側の広場は着陸に使うので、街灯や木々はすべて撤去されたはず。予想より広場の端に着陸したのでしょうか。いえ、そもそも街灯の下に居るのならこんなに暗いはずがありません。
なんにせよ手すりとしては丁度よい場所にあってくれたものです。やおら立ち上がろうと柱に手をかけると振り子のごとくグラグラと揺れました。立て付けがよくありません。これでは強い風が吹くとすぐ倒れてしまいます。エミリアに教えて、修繕して貰わなければ。
それにしても握るのに適した太さといい馴染みある手触りといい、とても親近感の湧く柱です。
「なんだか箒みたい……」
ふと自分で吐いた言葉に違和感を覚えました。何気なくやり過ごそうとした現実を振り返ります。
これは本当に柱?
恐る恐る顔を上に向けます。つばの縁からちらりと見えたのは街灯ではなく、わたしの胴回りほどの太さがある円筒形の筒でした。この特徴的な物体は箒に取り付けられている推進器です。あちこちにある凹みは、飛行に不慣れな魔女が墜落するたびに付けたのでしょう。
これは紛れもなくわたしの箒……。
箒が垂直に立っています。棒状のものが自立するには地面に突き立てるしかありません。では本当に突き刺さっているのは地面なのでしょうか?
「……!」
箒がドレスのスカートから生えていました。位置はちょうど太ももと太ももの僅かな隙間です。慌てて這々の体で後ずさると、服の裂ける嫌な音が響きます。反射的に動きを止めましたが、時すでに遅く、スカートに空いた穴は縦に広がっていました。
「ああ、やちゃった……」
がっくりと肩を落とします。わたしにもう少し冷静さがあれば、ドレスの破損を広げることはなかったはず。しかしこうして動けたということは、両脚は健在ということを意味します。何事もなかったので結果的にはよい取引とはいえませんが。
しかし、よくもきれいに股の間に落ちてきたものです。奇跡があるならまさにこのことです。あと数センチでも外れていたらと想像するだけで気絶しそうです。
ひとしきり気持ちを落ち着かせて、箒を引き抜き、スカートを地面から解放します。ドレスについた草を払いながら、破損の程度を調べました。箒は見事にスカートを前から後ろへ貫通していました。さらに縦へ20センチ以上の裂傷。このドレスはもう捨てるしかありません。
幸いにもマントは捲れていたので無傷でした。ドレスと違いマントは官給品なので、紛失や破損は問答無用で弁償です。幸いにもわたしはまだ見習いなのでこうした負担は免除です。見習いの間になんとしても着陸を完璧にせねばと決意を新たにします。
箒の推進器も無事でした。意識を向けると低く唸りあげ、手に振動が伝わります。
わたしの未熟さの代償はドレスのみ。この程度で済んだのならやはり着陸は成功と考えてよいでしょう。
「お腹すいたな」
一段落するとお腹が鳴りました。魔女になってからわたしの身に起きた最大の変化は、この気持ちの切り替えの早さかもしれません。二ヶ月間の失敗や怪我の連続のおかげで、すぐにうじうじとする性格や考え過ぎる癖は治りませんが、そこからの回復の早さは自覚できるほどです。ただ単に無頓着になった気もしますが。
ともかく今日の飛行は終わったのです。あとは食事をして居間でくつろぎ、そして寝るだけです。今夜のディナーの献立に心躍らせます。
ホワイトタワーに向かうすがら煌々と明かりの灯るタワーグリーンでは、古風な出で立ちの人たちが今夜も事もなしとばかりに巡回をしていました。
彼らはヨーマン・ウォーダーズ。ロンドン塔専属の衛兵です。
全員が認〈したた〉めたようながっしりとした体躯。顔を覆い尽くさんばかりの豊かな髭。特徴的な背の低い丸い鍔の帽子を被り、膝まで届くチューダー朝様式のチュニックの胸元には、暗くても目立つ赤い刺繍で王冠が縫い描かれています。手には戦斧や戦鎚、槍などの長柄の武器を携えています。
魔女が来てからも彼らは変わることなく、塔の警備を任されています。魔女とヨーマン・ウォーダーズはロンドン塔に一緒に住んでいる言わば家族のような関係なのに、彼とあまり接点はありません。
彼らに限らずロンドン塔に出入りしていても、ホワイトタワーに入らない者との接触は好まれず、彼らも意識的にわたし達とは距離を置いているようでした。
魔女たるわたし達と彼らヨーマン・ウォーダーズの間にはロンドン塔の城壁よりなお高い壁があるのです。もしかしたら、ある日突然ロンドン塔に住み着いた魔女を快く思っていないのかもしれません。