少女レイラ
『ここで昼と同じ高さです?』
上昇を止め、空中で停止するレイラにようやく追いつきました。
『大体ね。測っているわけじゃないからまったく同じではないわ。どう? 夜と昼とでは随分と違うでしょう。まだ怖い?』
『怖くはないです。でも夜は知らない世界に迷い込んだみたいで、気味が悪いです』
『辺りがはっきりと見えないから現実感が薄まるわね。夜は月や星の光だけが頼りよ。でも気をつけて。これらは虚ろいやすい光なの。わたし達を惑わすわ。あの美しさの陰にはいつも欺こうとする顔を隠している。心を許すと高度や位置を失ったり、気づかないうちに背面になっていることだってあるのよ』
『夜の飛行……大変そうですよね』
魔女が初めて就く任務は普通は夜間哨戒だそうです。何も見えない夜の空を飛ぶのが、最初の仕事なんてとても信じ難いですが、これが最も簡単というから、魔女も楽ではありません。
『まぁ、他人事みたいに。ソフィーだって行くのよ』
『そ、そんなにすぐではないですよね……』
釘をさしておかないと、今から行こうと言い出し兼ねません。
『明日や明後日の話ではないけど、ソフィーなら心配ないわ。現にこうして飛んでいるんだから』
『まるで暗くなるのを待って訓練を再開したみたいに聞こえますよ』
『ソフィーもなかなか鋭いわね。正直に言うとそれもあったわ』
『どういうことですか?』
『ほら、みてごらん』
レイラがわたし越しに西の空を指差しました。
促されるままに振り向きます。地平の遥か彼方で茜色の輝線が薄暮の空と地上を分かち、いましも世界から光が失われようとしていました。世界がこんな姿を取るなんて、どんな画家だって描いたことはないでしょう。
瞬く星々を抱く夜の闇が音もなく降りてきて、西の空の残光を包み込んでいきます。
『筆舌に尽くし難い。まさにこの一瞬だと思わない?』
『ですね……』
『ねえ、ソフィー』
『はい?』
『わたしね、魔女になって初めて空を知ったんだ。空があることはもちろん知ってた。けどわたしには存在してなかったの。そりゃ、幼い頃には空を見て、驚いたことも喜んだこともあると思う。でもその印象はもう残っていない。物心ついてからはわざわざ仰ぎ見るなんてしなかった。そんな暇もなかったし、たぶん意識の外にあったんだと思う。ずっとずっと忘れていた。けどね、いまはもう空のことばかり考えてる。頭から離れないの。空を飛び続けたい。風を肌で感じたい。いろんな空に出会いたい。だからね、わたしは魔女になって良かったわ」
レイラの独話を聞いているうちに、気がつくとマスクの眼鏡にはめられたガラスをじっと見つめていました。何か大切なことを考えていたような……。思い出そうと瞼を閉じ、思考を巡らせます。煙のようにもやもやとして、うまく言語化できない考えを持て余し、諦めて眼を開くと、いままさに太陽が地平の後ろに姿を隠すところでした。ろうそくの炎が吹き消されるように、最後に勢いよくパッと輝くと、あたりはすっかり淡い闇に包まれました。心の奥底でちらちらと太陽の残光が凝縮されると同時に言葉がすとんと降りてきました。
それは熟慮も奥深さもない、ありきたりな言葉でした。でも、レイラに同情したのでもなく感化されたのでもありません。レイラなら分かってくれるでしょう。
『もしかしたら魔女は隠された秘密を解き明かす存在なのかもしれませんね』
『詩的ねー。ソフィーらしいわ。わたしも好きよ、そういう表現。無理して連れてきてよかった』
『無理して連れられてきてよかったです』
『ふふ。あなたに早くこの景色を見せたかったの。空を飛ぶのは怖いだけじゃなく楽しいこと嬉しいこともあるのを知って欲しかったから。これを励みにしてくれると嬉しいわ』
古来より人は空に強い憧れを抱いてきたものです。
しかし、文明が勃興する以前からすでに地上と海洋を活動の場にしてきた人類ですら、空に対しては成す術がなく、長きに渡り、静観する立場に甘んじていました。そんな手の届かない場所でしたから、人はそこを神の神殿と地上とを隔てる廻廊と見立てて敬い、不可侵の領域として、関わらぬ理由としてきたのです。
いつの時代にも困難であるほど、克服の欲求に抗えない人たちがいるのです。始まりは鳥の翼を模した装置による試みでした。滑空は自由自在に空を謳歌する鳥には及びませんが、恐らく最初に空へと踏み込んだ人は、人類の前に据えられた最後の不可侵の領域を制した興奮と感動で魂を打ち震わせていたに違いありません。
こうした数世紀も続けられた落下から脱却したのは18世紀です。人類は気球により初めて位置エネルギーを使用せず、空へ向かって推進することに成功しました。しかし気球もただ空に浮遊するのみで、胸を張って飛行と呼ぶに達していません。望まれたのはただ浮かぶだけでなく、自立的に空中を移動する飛翔なのです。
飛翔の胎動は気球による有人飛行に成功してから約一世紀後、飛行船の登場で訪れました。蒸気機関では風に打ち負かされてしまうほどの推進力しか得られませんでしたが、それでも文明はようやく空を自分の意図した方向に進める力を手にしたのです。
しかし一つの解決は、新たな問題を生み出すものです。空は甘美な歓びと驕りだけを人間には与えてくれませんでした。
蝋で作った翼を背負った青年や、雲に浮かぶお城に住んでいた巨人は哀れな最後を遂げています。気球や飛行船で命を落とした人も多いと聞きます。19世紀末、科学技術の飛躍的な発展で、もはや人類に不可能はないと言われるこの時代でも、空がまさに神の領域であると知らしめるがごとく、そこに到達するには多くの努力と犠牲を人間に強いたのです。
聖域に足を踏み込む者たちに課せられた残酷な試練――墜落――はわたしたち魔女にも与えられているのです。
『ぼんやりしてるとまた墜落するわよ』
「えっ、あ、わっ」
飛行中に考えに耽り平衡を失うのはこれで何度目でしょう。壁の内側ならいざ知らず、外の空は転んで終わりというわけにはいきません。本気で改めないとわたしの人生は随分と短くなりそうです。
『ほら、しっかりして』
レイラに肩を支えられ、なんとかひっくり返るのを回避します。
『余計なお世話だったかしら』
『いえ、助かりました……度々すみません』
乱れた息づかいを深い呼吸で上書きします。
『考え事?』
『はい、今日の飛行のことで』
『ふぅん。聞かせてもらってもいい?』
『はい。あ、でも改めて言葉にするとなんだか気恥ずかしいですね……』
息をついて頭の整理をしてから、飛行に慣れて自信も生まれてきたこと。いきなり外で訓練と言われ戸惑い怖くなったこと。本当に魔女としてやっていけるのか不安だったことを伝えます。
『真っ逆さまに落ちたり、海に飛び込みそうになったけど、案外うまくいくんだなって……自分でも驚いてます』
『わたしがソフィーの実力を見立てて、エミリアが承諾したのよ。当然じゃない』
『でも、訓練を始める段にいきなり外に出ると聞かされた時が一番びっくりしたかもです。せめて昨日のうちに教えてくれたら心の準備もできたのに』
『夜のうちに教えてたら、たぶん眠れなかったわよ。感覚で身につけることはね、勢いが大切なこともあるの。始めるまでの時間が長いほど、あれこれ余計なことを考えて足が竦んでしまうものよ』
『上手にできてるのかな。今も助けてもらったばかりだし』
レイラの気遣いに感謝しつつも、その期待に答えられているのか不安です。
『ソフィーは魔女になったばかりなのよ。すべてが上手くできなくても当然よ。わたしから言わせたら自惚れね。それにね、ソフィーの技量が足りていないからわたし、いえ、みんなが居るの。それにね、初めてにしては上手にできているわ』
『レイラさんは? 初めて飛んだとき不安でした?』
『もちろん、最初は怖かったよ。上手に飛べないし、怪我はするし、それに墜落して死ぬんじゃないかってね。ソフィーと同じ。不安はいまでもあるよ。怖くなくなるなんてないわ。けど、この不安も慣れることはないけど、そのうち平気になるわ。自信と不安はいつも背中合わせ。それにね、特別上手になる必要はないわ。それでなくてもわたし達は特別なんだから。たまたま近くに、自分より遙かに優れた人がいるからといって、自分も同等でなければと考えると、気持ちばかり焦ってかえって上手くいかないものよ。ソフィーはその人とは違うのだから、自分なりの進み方があると思うわ。だからソフィーはソフィーのままでいいのよ。さ、そろそろ戻りましょう。お腹も減ったし』
レイラに倣って背面から逆宙返りして急降下。すでに二回も経験しているから躊躇はありません。自然についていくことができました。そのまま引き起こして暖降下に移った瞬間に目に飛び込んできた光景に、思わず息を呑みました。胸に感動の波が押し寄せ、箒を支える腕と膝が訳もなく震えます。
『ロンドンが夜空みたい』
『夕焼けほどではないけど、こちちも美しいわ』
黒い大地に星々よりも明るい数えきれないほどの光の粒が散らばり、燦然と輝いています。
それらの多くは路地を照らすガス灯であったり、カーテンの隙間から零れる暖かい家庭のランプであったり、ちらちらと揺れ動くのは馬車の灯りであったり、川岸で暖を取る人たちの焚き火だったりするのでしょう。そうした灯りが闇に沈んだロンドンの輪郭を描いていました。
街の所々に薄暗い場所があります。まるで巨大な底なし沼のよう。
「そうか、公園なんだ。あそこがリージェント・パーク。ならあそこはハイド・パークか。空からのロンドンは全然違う。グリーン・パークがあれなら、あの間がメイフェア区……」
メイフェア区にはわたしが魔女になる前に住んでいたブルック街があります。ブルック街の自宅と思しき場所を眺めていると、かつての暮らしの光景が次々と脳裏に浮かびあがります。
記憶は一年ほど遡ったところでぴたりと流れを止めます。ちょうどその日はわたしの誕生日でした。テーブルに並べられたごちそうとサイドテーブルに控えるケーキを見て歓声をあげたのを昨日のことのように覚えています。プレゼントを貰い、みんなから祝福を受けました。幸せのあまり空に舞い上がらんばかりの気持ちでした
それがまさか一年後には本当に空を飛ぶことになろうとは、カサンドラでも予言できますまい。
今の時間だとリビングで母や弟たちと一緒に父親の帰りを待ちわびていた頃です。不思議と感傷はありません。切ない思い出ではなく記憶の一片として思い返せるのは、すでにあの頃の生活がわたしにとって過去として完結させているからでしょう。
『あんな薄汚れた街でも空からの夜景は美しいわ』
『きらきらとして宝石みたいです。なんだか住んでいた頃の記憶が蘇りますね』
『昔のこと? ああ、ソフィーはロンドン育ちだっけ』
『あの光の中に、わたしの家の灯りもあって、以前の生活を昨日のことのように思い出せるのに、なぜか遠い昔の事のような、他人事のような気持ちになるんです。レイラさんは家に帰りたいと思うときはないんですか?』
『夜景はなぜだか感傷的になるわね。気分が落ち込むわけでもないのに神妙になって、忘れていたことを次々に思い出すわね』
レイラはそこで言葉をいったん切って続けました。
『いいえ、もう昔のことだもの、ソフィーと同じよ。思い出せば懐かしむけど、どうしても帰りたいとは思わないわ。今は遠い国に旅行に来ているだけで、帰ろうと思えば帰れる。それが当たり前すぎて逆に愛おしいとは感じないのかも』
魔女になった前と後では、境界を越えたようなある種の断絶があります。時間が経つごとに過去が希薄になり、思い出というものは物語に感情移入しているだけで、現実には存在しないのような……。
『魔女になってから昔と違う世界に来たようで、以前の生活に戻れる保証がないのに、執着が不思議と湧いてこないんです』
『どこかでもう戻れないと諦めているから執着が湧かないのかもよ。わたしの感覚はソフィーと似てるけど、今は帰る時ではないと感じるだけ。この感覚を説明するのは難しいな。でも、パトリシアをご覧なさいよ。口を開けば家に戻りたい、前の暮らしが懐かしいと言っているじゃない』
たしかにパトリシアは過去を懐かしむ気持ちを露わするのを憚りません。しかしレイラは気づいるのでしょうか。パトリシアが魔女になる前の生活を好古しても、家族に対してそうでないことを。
『あ、学校はあの辺りです。空からだと近いなあ』
『あら、ソフィーは家庭教師と思っていたわ』
『小さい頃から大勢の中に居るのが苦手だったので、学校のほうがいいと。結局は治りませんでしたけど。レイラさんは?』
『学校? まさか。行けるわけないわ』
『え、でもレイラさんも義務教育ですよね?』
11歳までの子供は教育を受けねばなりません。法律で義務付けられています。なのでわたしは5歳からメイフェア区にある私立の女学校に通わされ、午前中はずっと授業を受けていました。学校の勉強は退屈で嫌いでした。なぜこんなことを学ばなければならないのか分からぬまま漫然と聞いていました。それに見知らぬ人の多い学校も苦手でしたから、早く午前中が終わるよう、それだけを救いに学校生活を耐えていたのです。同じ学校でも、幼い頃から親と別れて暮らし、年に数回しか家に戻ることのできない寄宿学校に通う子もいたり、逆に家庭教師を雇って家で学ぶ子もいるそうです。どちらも将来の英国を担うに相応しい男性を育てるもので、ありがたいことにわたしには無縁の話です。聞けば女の子向けの寄宿学校もあるらしいですが、女の子が無理して勉強する必要はありません。学問は男性のものです。
『ロンドンではそうかもしれないけど田舎は違うわ。日曜学校に行ったくらいかな。数えるほどだけどね。物心がついた頃は家を出て働いていたわ』
心がちくりと痛みました。学校はともかく、小さい頃から働かなければならかった記憶を思い出させてしまったようです。レイラが自分から言ったとはいえ、結果的に過去のあら探しになるとは我ながら軽率です。そしてレイラの話を聞いて、わたしも昔の事を思い出しました。それは学校の友達の家に遊びに行った日。会話の途中で、ふと窓の外に気を取られ、何かなと覗くと、わたしと同じ歳くらいの女の子が使用人の格好をして、ジャガイモの皮を剥いていました。風の強い寒い冬の日でした。お茶の時間になり、すぐに忘れてしまいましたが、あの少女の姿が記憶のなかでレイラと重なります。
『家族と離れるのは寂しかったけど、家の為になるから辛くはなかったわ。わたしが働きにでれば、弟や妹たちのよい見本になるし、みんなが働けば暮らしが楽になるから。わたしはね、今がずっと続くとは考えてないの。エミリアの言うとおり、いつか魔女のくびきから解かれて、家に帰る時が来るんだって。今はお給料をもらっても仕送りできないけど、魔女でなくなったら貯めているお金を持って、みんなの驚く顔を見るのが楽しみなのよ』
わたしはずいぶんと失礼で、レイラから軽蔑されても仕方ない勘違いをしていました。レイラの境遇を不幸に仕立てて、安易な同情をしていたのです。まったく浅はかです。子供の頃からレイラは、現在のわたしよりずっと賢く、そして家族のことを想いやる心を持っていたのです。
だからと言って子供が働くことはやはり正しくないと思います。少なくとも今はそう思っています。