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チャタム

 レイラの提案でチャタムに行くことになりました。チャタムといえば普通はケント州のメドウェイ川の一帯を指しますが、魔女にとってはチャタム工廠を指します。チャタムはかつて王立造船所とも呼ばれ、現在でも多くの軍艦がこの工廠で建造されています。書簡を届けたエンデュミオンはきっとここでメンテナンスを受けていたのでしょう。当然のように海軍の施設があり、魔女のための休憩場所もあります。

 いくつもの支流を持つ複雑な形をしたメドウェイ川の上流に辿り着くと、沢山の乾ドックと巨大な工場が立ち並ぶチャタム工廠が姿を現しました。

 その工場の一つ、中に船を隠せそうなほど巨大なレンガ作りの建物に向かい、屋上に降り立ちました。屋上には小屋のような建物が二つあるだけで、あとは真っ平らです。着陸時につんのめったものの咄嗟に足を前に出し、転ぶのは避けられました。草地ならいざ知らず、この上で転倒でもしたら擦り傷では済みそうもありません。

 屋上にある建物の一つはレンガでできており、階下とを結ぶ階段があるだけの部屋だそうです。その横に並ぶもう一つの建物は、いかにも後付といった木造の掘っ立て小屋でした。小屋のにはテーブルと添えられた椅子が二脚あるだけで窓もなく、滅多に使われないのかうっすらと埃が堆積しています。

「ここで待ってて、飲み物を取ってくるわ」

 本来なら年下のわたしが行くべきなのでしょう。しかし初めてくる場所で勝手が分かりません。知らない場所をうろうろして迷子になっても困ります。レイラの厚意に甘えることにしましょう。それにレイラは労を厭いません。着替えはもちろんのこと、聞けばベッドメイクも自分でしているそうです。あくまで自然に、そつなく、他人に気を使わせることなく動きます。人の気持ちを汲むのは得意ではないようですが、ささやかな気配りは上手でした。たぶん小さいころから家のお手伝いをしていのでしょう。

 わたしも自分なりにできる事はと思い、戸を開けて空気を入れ替え、テーブルと椅子の埃を払い、箒を壁に立てかけてレイラを待ちます。

 椅子に腰掛けるとお尻がじわりと痛みました。箒には自転車のサドルがあるとはいえ、ずっと体重を預けていたのです。お尻の形が変わっている気がします。誰もいないことを確認し、お尻を触ってみました。大丈夫です。感覚では石のように硬く感じられましたが、いつもと変わらぬ弾力のあるお尻でした。

「ここはマスクをとっていいのかな」

 屋外で自分のお尻を触る気恥ずかしさにしばし苛まれ、一人静かに反省していると、誰もいないのにマスクをしているのがばからしくなってきました。

「いや、でも……」

外したマスクを付け直しました。

 休憩とはいえ任務中です。他人の眼がなくても、守ってこその規則でしょう。それにレイラから次は見過ごさないと言われたので。

 そのレイラはどこまで行ったのでしょう。出てからすでに15分は経っています。

「おまたせ。来るの久しぶりだから道に迷ちゃったわ」

 噂をすれば影がさすとはよく言ったものです。レイラがカップとブリキのポットを手に戻ってきました。いやに声がよく聞こえるなと思ったらレイラはマスクを外していました。

「なんでマスクしてるの? それじゃあお茶が飲めないでしょう?」

 レイラは小首を傾げます。わたしは俯いてマスクを取りました。

 カップに紅茶が注がれ、湯気が煙のように沸き立ちます。レイラはその一つをわたしの前に置くと取っ手をくるりとこちらに向けました。何気ない行為ですが、なかなかできることではありません。

「レイラさんのこうした気配りは感心します」

「ああ、癖よ。意識してやってるわけじゃないわ」

「癖?」

 自分でお茶など淹れたこのないわたしには考えられません。

「ええ、昔のね』

 レイラはその先を続けませんでした。自身も腰を下ろすとカップに口を付けます。

「あ、お茶請けも欲しかったわね」

 訓練を開始してすでに数時間が経過していました。朝に食べたものはもうお腹に残っていません。地に足をついて緊張が解れるとお腹の虫が一斉に鳴き始めます。

 茶腹も一時。紅茶で飢えを凌ぎます。

「まず……」

 口に含んだ途端に舌に鋭い刺激を感じました。次いで胸とお腹の中間がぐっと持ち上がる嫌悪感。湯気に鼻を突っ込んだとき、妙な香りのブレンドだなと思ったのですが、これはあきらかに紅茶ではない味がします。

「あはは、驚いた? 美味しくないわよね、ここの紅茶」

「これ、混ぜ物しか入ってないんじゃ……」

 紅茶や珈琲といわず、加工品は混ぜ物が当たり前。重要なのは目方であって、質はそれなりの体面を保っていれば容認されています。だから本物とは混ぜ物の比率が低いものを意味する言葉なのです。魔女になってからは紅茶もベーコンも、食卓には紛い物ではないものが並んでいましたから、久しぶりの「本物」を口にして舌と胃がびっくりしたのです。

「でも、わたしが飲んでいたのはこれくらいだったなあ」

 レイラは苦虫を噛み潰したように眉根を寄せて、口をカップに運びます。そんな暮らしもあるのかと、注がれた二杯目の紅茶を味わうことなく飲干しました。


「さ、休憩は終わり。あまり休むと帰るのが億劫になるわ」

 レイラはおもむろに立ち上がり、懐中時計をスカートの隠しに納めます。

 小屋から出るといつしか太陽は大きく傾き、オレンジに色に輝いていました。マスクの眼鏡に内蔵されている黒いガラスを被せて、西の空を眺めます。この黒いガラスで透すと光の力が弱めることができるので、天気の良い日には重宝します。

 陽はあと一時間もすると地平と融け合うでしょう。風もすっかり熱を失なって冷たくなってきました。東の空から蒼い空が迫り、空の大部分も薄い青色から濃い藍色に変わっています。

 夜の闇が忍び寄っているのです。

「先にあがるわよ」

 駆け出したレイラは一飛びして箒に飛び乗ると、そのまま離陸しました。

 次はわたしの番です。箒に跨がりお尻の位置にサドルをあわせました。痛みはすっかり消えたと思ったのに、箒に体重をかけるとお尻に鈍い痛みが走ります。体も少し怠さを感じます。休息したことが仇になったようです。一眠りすればこの倦怠感もなくなるのでしょうが、あんな粗末な小屋で、しかも床に寝転がるなんてごめんです。寝るならやはりふかふかのベッドに限ります。

 脚の間にある箒がぶれないよう注意して助走を始めました。

 離陸は箒に跨がったまま走り、推進器を作動させた瞬間に軽くジャンプして浮き上がるのが常套です。この推進力の調整とジャンプのタイミングが難しく、わたしは一度で成功したためしがありません。失敗するとそのまま走り続けて同じことを繰り返します。なのでわたしは広い場所でないと離陸ができないのです。三度目で離陸できました。今回はまずまずの出来映え。

 初めは誰もこの離陸から覚え始めるそうです。エミリアがこの不格好な離陸をしていたのを想像したくありませんが、本人が言うのですから嘘ではないのでしょう。レイラが行った離陸方法もずいぶんを練習をしました。が、離陸に成功したことは一度もなく、ついには壁に激突して三日ほどベッドで安静にすることになって諦めたのです。エミリアは「飛べたらいいのだから形を気にすることないわ」と慰めてくれましたが、できないのはやっぱり悔しいです。

 空は地上に比べまだ明るく、視界は開けていました。しかし空気はすっかり夜の冷たさです。

『もう夜ですね』

 エミリアからの依頼は終えたというのに、漫然と空を漂うレイラに、帰投を遠回しに促します。

『ねぇ、ソフィー。まだ飛ぶ元気はある?』

『え? ええ、はい』

 びっくりして思わず承諾してしまいました。そして後悔。レイラのことだから帰投の意味でないことは確かです。今から断れば考え直してくれるかも。僅かな抵抗を試みます。

『だけど、もう暗いですよ? 今更どこに行くつもりです?』

 レイラは待ってましたとばかりに人差し指を立てて上を示します。

 上? 上とは……あぁ、そういえば飛行訓練の途中でした。再挑戦しようとした矢先にエミリアから依頼を頼まれたのです。すっかり終わったつもりでした。

『頑張ればすぐ終わるわよ』

 箒の先端を上げて、レイラは急勾配でぐんぐんと上昇を初めます。

 最初から帰りたいと言える状態ではなかったのです。

 黄昏の時を過ぎた深い藍色の空には星が瞬き始めていました。


 空を昇るにつれ闇は深さを増し、陽光を失っただけではない寒さを服を通してでも感じられます。特に濡れた靴のおかげで足の冷え込みが酷い。

『やっぱり陽が落ちると昼の服装では辛いわね。昼と同じ高さまで登るからもっと寒いはずよ』

『もう凍えそうなほど寒いです。高い場所が寒いのが分かってるならどうして厚着をしてこなかったんです?』

『今日の訓練内容は秘密だったし、わたしだけ厚着は不公平でしょ』

 レイラ気遣いは明らかにズレています。しないでいい苦労をさせられた虚しさでやる気がさらに失われます。

 それにしても高いところが寒くなるなんてよいことを知りました。気温は天候や場所で変わるものばかりと思っていましたから。魔女になる前のわたしの世界に「高さ」と呼べるほどの高さというものは、身近ではなかったのです。

 魔女になってから新しい発見の日々です。その多くは普通の人には不要なものばかりですが、わたしにとっては学校の勉強より遥かに魅力的です。

 ただし、学のある女性は婚期が遅れると言いますから何事も程度が肝要です。

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