セーラー服と巡洋艦
『これは本当に書簡なのかしら。見た目よりずいぶんと重いわ』
テムズ川の流れに沿って右へ左へと蛇行しながら河口を目指します。あんな危険を犯した後なのに、鞄から取り出した書簡入りの筒を入念に調べていました。わたしはまだ驚きが収まらず心臓は激しく動悸しています。
『さっきの離陸、あんな飛び出し方をして怒られないんですか? それに着陸の時だって……』
『怒られないわよ。まだ先になるけど、あの離陸も覚えてもらうもの。たしかに高度な技術だけど任務には必要だから』
コーリングは返さず、いずれ覚えるのかと暗い気持ちになりながらも、レイラの魅せた飛行を脳内で再生します。あの跳躍から箒に跨がり、すかさず急上昇。とても人間業、いえ魔女業は思えません。たとえできるようになっても、そこに辿り着くまで、どれだけ辛く苦しい訓練が待っているのやら。目眩がします。
すでに習得して、難なくやってのけるレイラが羨ましい限りです。彼女はわたしよりずっと早く魔女になったので経験の差はもちろんあります。でも、レイラには魔女になる前から天性の才を持っていた気がしてなりません。判断が早く明瞭で、闊達でしなやかなに行動します。まるで空を飛ぶために生まれてきたかのよう。
わたしがまだ(いまもそうですが)上手に飛べなかった頃、レイラは練習を終えると「上手に飛びたいなら飛ぶことを意識しつつ忘れなさい」と口癖のようにアドバイスしていました。謎掛けのようなアドバイスに、眉根を寄せては「はあ」など分かったのか分からなかったのか曖昧な返事でその言葉を丸呑みしていました。まだレイラの言わんとしていることは理解できません。
それに箒は絶えず意識を回しておかないと、途端にただの棒きれならぬ鉄の塊と化してしまいます。一瞬たりともお尻の下にある箒の存在を忘れてはなりません。忘れると即墜落です。周囲を常に注意して飛行することと、箒の制御を同時に行うことを会得するのにずいぶんと時間がかかりました。こうして何気なく飛んでいても、ふといままでどうやっていたのか分からずに不安になることがあるくらいです。
わたしでもレイラのように空を飛べる日が来るのでしょうか……想像できませんね。
『ところで』
レイラは書簡の調査に飽きたのか、魔女としてあるべき姿勢で箒に跨がっていました。
『はい?』
『今日は髪を結んでないのね』
『ちゃんと結んでますよ?』
わたしは腰まで伸ばしている髪を束ねて先端をリボンを結んでいました。長い髪は好きですが、乱れるのが嫌で幼い頃からずっとそうしているのです。服を着るのを忘れてもこの髪型を整えることだけは忘れません。魔女の服に着替えた時も確認しているので間違いないのです。
『でも髪が乱れてるわ。待って、後ろに回るから』
レイラはわたしの背後、6時方向に移動します。
『やっぱりリボンはないわよ』
そう断言されるとさすがに自信がなくなります。髪を手繰り寄せようにも空中で腕を背中に廻すなんて芸当はできません。また平衡を失って墜落です。
頭を冷静にして思い返しても朝の着替えの際に、侍女のドリスが髪に櫛を入れて、リボンを結んでくれたのを鏡越しに確認しています。出かける前に在ったものがなくなっている。考えられる可能性は……。
『墜落の時に取れたんじゃないのかしら』
レイラの指摘はわたしの推測と一致しました。たしかにその可能性は大です。というかそれしかありません。レイラが嘘をつく理由はありません。肩をがっくりと落とします。
『パティにねだったら一つくらい貰えるかもよ。わたしから言ってみようか?』
「い、いえ……心配なく……」
あのリボンは簡単に代替えできる代物ではありません。わたしが魔女になる前から持っていた唯一の品なのですから。とは言いつつも、かつて人間だった過去と今とを繋ぐ糸ならぬリボンの喪失は辛いけれど、不思議と心に深い傷として残りませんでした。思考による喪失の感情と心の喪失感が剥離しているのです。とても大切にしていたものなのに……。わたしはこんなにも薄情な人間だったのでしょうか。それとも魔女になったから?
さらにテムズ川を伝いながら下流へと進みました。いつしか川幅は視界に収まらりきらないほど広がり、海の様相を呈します。茶色だった川の水は青色が混じり始めまていました。
遮るものが何一つない空間がわっと押し寄せてきます。
「海だ!」
見渡す限りに埋め尽くされた青い色彩。翡翠を溶かしたような海は遠ざかるほど濃く深い色を増し、やがて紺碧となって空との境界を成します。海面は常に揺れ動き、白い波頭は生まれて消え、ひとときも同じ姿と留めません。
瞳に映る海は想像とは比較にならないほど神々しく、体の奥底に在る原初の感情を震わせます。昔の人が、この光景に神の姿を見たのは不思議ではありません。
空と海の境界に引き込まれそうな錯覚に陥ります。
『ソフィー。ソフィー、起きてる?』
『え? どうしました? もう船を発見したんですか?』
『どうしたじゃないわよ。ずっと動かないからまた考え事かと思ったのよ。それにまだラッツ湾の手前よ』
『空から望む海がこんなに大きくて美しいなんて思ってもみなかったから。つい見とれていました』
『あら、そうなの。海なら病院の近くにあった高台からの眺めも素晴らしかったわ』
『そうですね。たしかに奇麗だったかも。でもわたしはあの海の印象は薄いんです。高台には毎日通っていたのに』
『わたしはあそこで初めて海を見たから嬉しくて仕方なかったわ』
レイラほど前向きで活発な女の子なら、そこが社会から隔絶された場所であってもさもありなんです。わたしにとって病院の生活は暗く重く陰鬱な日々でした。どうして自分がここにいるのか、いつまでこんな生活を送らねばならないのかと、自分を責め続ける毎日を繰り返していました。病室の白い壁も清潔なベッドのシーツも優しいお医者さんも全てが嫌いで、いっそ崖から飛び降りてしまおうと高台に向かったことは一度や二度ではありません。
もちろんこうして生きているのは、思い止まったのではなく、単に崖から下を覗いた途端に足が竦み、その場にへたり込んでしまったからです。安易に生きる事から逃げる人間の意思がそれほど堅固であるはずがありません。でもその時はそれは良かったのです。だっていまは海を美しく思えるのですから。
『ほら、左側にある街のあたりがサウスエンド、右手にある川がメドウェイよ。この辺りはよく来ることになるわ。地形を頭に入れておいて』
レイラは話を打ち切り、これは訓練の一貫なんだとばかりに説明をしてくれました。もはや海と呼んでもいいほど広がった河口の北側、エセックス州にあるサウスエンド・オン・シーはリゾート地として名を馳せ、1マイルもある長大な埠頭で有名な街です。南側のメドウェイは多くの支流を持つケント州の川で、テムズ川の河口という立地の良さなのか、チャタム工廠と呼ばれる造船所があり英国海軍の大半の船はここで作られています。一方はリゾート地、一方は戦艦の造船所。奇妙な対比です。
『ま、来るのは夜だけどね。さぁて、船はどこかしら』
海面を捜索するレイラの帽子が右へ左へと大きく揺れます。
『たくさん船がありますね』
夜の海に思いを馳せつつ、わたしもレイラに倣いました。
『ロンドンの玄関だからね。エミリアはすぐにわかると言ったけど、これだけ船が多いとね』
河口付近には所狭しと大小様々な蒸気船や帆船が行き交い、航跡と航跡が混ざり合い複雑な図を描いていました。海原を走る船の珍しさも手伝い、わたしは気もそぞろで、船を探すどころではありません。
『あれかな。ソフィー、2時の方角を見て』
レイラは身を乗り出し、腕をいっぱいに伸ばして指し示してくれました。厚手の革手袋を着けていると、女の子の小さな手では指を立てているのかどうか判別しにくいからです。その示す方向に視線を向けると、周囲の船とは明らかに雰囲気の異なる、ものものしい感じの船が海を割りながら進んでいました。
船は北東の方角へ緩慢に船体を傾け、灰色の側舷をこちらに晒しています。船の前部と後部にそれぞれ高々とマストがそびえ、水平に渡されたヤードのおかげでまるで巨大な十字架のようです。そのマストとマストの間には細長い二本の煙突が前後に並び、もくもくと吹き出る煙が南の空へ流れています。
一見するとごく普通のスマートな蒸気船にも見えますが、船体のあちこちからハリネズミのように突き出している大砲が優雅な雰囲気を壊していました。
『あれは……戦艦ですね』
『戦艦ではなく巡洋艦。より正確には防護巡洋艦ね』
『戦艦にも種類があるんだ……』
レイラは笑っているのか肩が小刻みに震えています。
『戦艦は軍艦の中の一つね。軍艦は戦艦や巡洋艦のように海軍に属する船の総称。海軍の仕事を受けることが多いから、きちんと名前を使い分けないと笑われるわよ。巡洋艦は各国がこぞって建造しているから、海軍も力を入れているらしいわ』
『まさかエンディミオンを軍艦の名前に使うなんて』
『やだ、もしかして分かっていなかったの?』
『だって軍艦の名前に、神話に出てくる人の名前を付けるなんて思いませんよ』
そもそも軍隊や戦艦というものに現実味がありません。わたしの日常からはとても遠い場所にある存在でしたから。
『エンディミオンが神話に登場するのを知ってるほうが珍しいと思うけど』
そんなものでしょうか。わたしのなかでエンディミオンはけっこうな有名人なのですが。
エンディミオンは女神に愛され、その美しさを保つため永遠の眠りについた青年の名です。彼がどれほど美しいのかよく想像にふけって胸を熱くしていました。数多いギリシア神話の登場人物の中も特に思い入れの深い名前を授けられた船がどれほど美しいのだろうと期待していたのですが、それがまさか軍艦とはがっかりです。
『あれがエドガー級なのかしら。写真と実物はずいぶんと違うのね』
レイラもエンディミオンと対面するのは初めてのようで食い入るように見ています。船の違いはよく分かりませんが、後学のためにとわたしも船をつぶさに観察します。
『とにかく接近しましょう。でも船にはケーブルが張られているから近づきすぎると引っかかるわよ』
ケーブルとやらに注意をしつつ水平を維持したまま降下を開始。海風に煽られて帽子のつばとマントが舞いあがります。船の左舷から緩やかな弧を描いて前方に回り込みました。他の船を警戒しつつ、エンディミオンとの距離を保つのはなかなか困難です。いつも目印にするのは建物など固定されたものでしたから、動く目標に対し自分の動きを合わせる感覚がなかなか掴めません。ふらふらと蛇行しながらのみっともない飛び方でレイラに続きます。
前部にあるマストの根元は一段高くなった部屋のようなになっていました。船を操作する場所でしょうか。ガラス窓の内側では身分の高そうな人たちが、それぞれに異なる驚天動地の顔を作り、頭だけでわたし達を追っています。
『驚いてますね』
『すごい形相だわ。魔女は知られているようで意外とそうでもないのよね。毎日あれだけ新聞に取り上げられても、人間が空を飛ぶなんて実際に自分の眼で確かめるまでは信じられないのよ。そして魔女を見たら決まって同じ顔をするわ。もう驚かれるのにも飽きちゃったわ』
他人事のように話している間にも船上は混乱の度は強め、すでに甲板は人で溢れかえっていました。わたし達が動くのに合わせて我も我もと後を追ってきます。これでは魔女ではなくまるでハーメルンの笛吹き男です。
『セーラー服を着てる人がこんなに大勢も……壮観ですね』
『やっぱりソフィーは気になるんだ。セーラー服は誉れ高き英国海軍の象徴だからね。わたしはもう見飽きたわ』
わたしは水兵が好きです。正確には水兵ではなくセーラー服が好きなのですが、本物のセーラー服を着ることができるのは水兵だけなので憧れの対象にはなっています。けど本物の水兵には近寄れません。みな大人の男性で、しかもがさつで乱暴そうです。わたしの抱く水兵とは、すらりと物腰は優雅で、女性には優しく、静かな笑みをたたえる人たちです。さすがに水兵がみなそうだと信じるほどわたしは子供はありません。だから期待を決して損なわない、写真や絵はがきの中に生きる水兵こそがわたしにとって本当の水兵さんなのです。結婚するなら絶対に水兵さんです。できれば絵の中の。
『書簡を届けてくるわ。ソフィーはこのまま空中で待機していて』
『どうやって渡すんですか? 投げ込むんです?』
『まさか。海軍様から預かった大切な書簡よ。そんな乱暴な扱いはできなわ。ほら、あそこ。後が広くなっているでしょ。あそこに降りるの』
船と反航していたわたしたちはあっという間に後部まで達しました。鋭く右に旋回し、尾部に回り込むと同航しながら距離を縮めます。
レイラが着陸場所に選んだ後部甲板はすでに人だかりで埋め尽くされていました。甲板には低い柵しかありません。海に落ちないか心配です。
『足の踏み場もありませんね』
『任せておいて』
レイラは策があるのか自信ありげに降下を始めました。船の後部甲板をめがけて、水平飛行を維持し、まるで穴にすとんと落ちるような降下です。たなびく帽子の端からはレイラの鮮やかな赤毛がときおり姿を見せます。まるでいたずらっ子が舌を出しているかのよう。
最初は何が起きるのかと興味深げにしていた水兵たちは、レイラが自分たちに向かってまっすぐ落ちてくるのと悟るや、我先にと引き潮のごとく後退ります。人で埋め尽くされていた後部甲板の一角に円形の空間ができあがります。
レイラはぽっかりと空いたその場所に飛び込むと、空中で横座りになり、あたかもそこが大地の上とでもいうように、つま先から甲板へ足をつけます。
平地でも速度を殺しきった状態からの着陸は難しく、飛び降りるように着陸するのが普通です。魔女は気球や飛行船のように宙を浮いているわけではなく、一定以上の速度を出し続けて揚力を発生させることで飛ぶことができます。ですから僅かな時間でも停止状態を作るのは難しく、大体は失速に陥り地面に叩き付けられます。それでわたしは何度怪我をしたことか。それをいとも簡単に、しかも動く場所に着陸するとは、絶望的な技量の差に苦笑いするしかありません。
などと落胆している間にも、甲板ではさっそくレイラと水兵たちの睨み合いが始まっていました。無理もないのです。レイラは誰とでも口を利けるわけではありません。船員たちは当然その規則を知りません。そして目の前にいるのは魔女。この場合は予告もなく船に乗り込んだ不審者と表現するべきでしょうか。険悪な雰囲気を醸成する要素は揃っていました。
レイラは儀仗のように箒を掲げ、凛として姿勢としています。かたや水兵たちは瞳に狂気と好奇の色を宿し、その場から進むことも退くこともせず、もぞもぞと押し合いへし合いながらレイラを取り囲んでいました。
お互いになんら意思を交わせぬまま、時間ばかりが無駄に過ぎます。圧縮された緊張は殺気の色を帯びはじめました。
このままでは水兵たちが緊張に耐え切れず、レイラに良くない事が起きるかもしれません。いくら魔女でも大勢の男性から襲われたら無事ではすみません。それ以上に、上空から傍観してるだけのわたしの精神が緊張に耐えられそうもないです。
『みんな尋常じゃない雰囲気ですよ。早く書簡を渡して帰りましょう』
『そうしたいけど、この人達に書簡を渡すわけにはいかないわ。せめて士官様でないと。呼んできて欲しいけど、お願いするわけにもいかないし。困ったわ』
『ハンドサインは通じませんか?』
『その手があったか』
レイラが腕を上げると、水兵たちの動きが一瞬止まります。ハンドサインが始まると彼らの間にどよめきが起こり、空気はさらに険悪な色になります。
『だめね。通じないわ。「あれはきっと魔術だ。注意しろ」なんて言ってるわ』
『そんな……』
『心配しないで、大丈夫よ。みんな驚いてるだけよ。それに珍しいんでしょ。いきなり襲ってくることなんてないわ。しかし、この任務は本当に段取りが悪いわね……』
ふと、水兵の側に動きがありました。怒鳴りながら人垣をかき分けて前へ前へと進む人がいます。ようやく人混みから抜け出たその人は、壁を作る水兵たちより、あきらかに身分が高い身なりをしていました。そう、ティルベリー港で書簡を預かった人と同じ、士官の服装です。
レイラは体の位置を変え、居住まいを正して敬礼をしました。レイラの行動が予想外だったのか、その男性は虚を衝かれたように突として足を止め、かしこまって敬礼を返します。
二人のやりとりを見た水兵たちの間に二度目のどよめきが走ります。自分たちの知らない所で魔女と了解が取れていることがよほど意外だったのでしょう。
レイラが鞄から取り出した筒を差し出すと、相手はそれを恭しく受け取ります。
ともすれば仮装をしているとしか思えない正体不明の人物に、律儀に対応する姿はなかなか愉快です。そのおかげで緊張で押しつぶされそうだったわたしの心もいくぶんか軽くなりました。
『やれやれ、やっと終わったわ』
『大変なおつかいになりましたね』
『まったくよ。さ、帰りましょうか』
レイラは士官と水兵たちに背を向け、船の最後尾に向かいました。ロープが張ってある柵の手間でレイラは足を止めました。その先は広大な海。スクリューが泡立つ航跡を絶え間なく生み出しています。水兵たちもレイラの毅然とした感化されたように、もはや騒ぐものもおらず、何が起きるのかじっと待っているようでした。
心臓の鼓動が知らず知らずのうちに早くなります。レイラがまた何かしでかしそうな予感……。
海を渡る風がひときわ強く吹き上げました。思わぬ突風に吹き上げられ、あっさりと背面飛行に陥ります。反射的に頭を上げると、まるで天が落ちてきたかのように海が頭の上に広がっていました。そしてその中に浮かぶ船の上では今まさにレイラが支柱に飛び乗り、海に向かって飛び出すところでした。
「レイラ!」
背面飛行のまま箒を引き起こして逆落としで海面へ向かって真っ直ぐに突っ込みます。マストより高い位置に居たわたしがどれだけ急いでも間に合わないのは明らかです。たとえ間に合ったとして何ができるわけではありません。ただ無我夢中に、レイラの元に辿り着けば、彼女が海に落ちる前に触れることさえできば、奇跡が起きるのではという何の根拠もない衝動に駆られたのです。
焦る気持ちとは裏腹に時間はのろのろと過ぎ、レイラに近づいている気がしません。レイラはもう海に落下しつつあります。もう間に合わないと心が失望の色に染まり始めたとき、レイラがひらりと箒に跨がります。
この光景は以前にも見た事があります。それもわりと最近。
レイラの姿が波を別つ航跡の陰に消えた瞬間に、巨大な爆発音が大気を揺るがし、水面に巨大な水の花弁が開きます。その中から水しぶきと共に黒い塊が弾かれたように飛び出しました。その塊は一瞬でわたしとすれ違います。
目まぐるしく変化する状況に思考は空回りし、自分が降下していることを思い出した時には、海はすでに目と鼻の先でした。
たぶん昨日までのわたしなら抗いもせずに、このまま海に飛び込んでいたでしょう。
しかし今日のわたしは、いえ、正確には墜落を逃れてからのわたしは少しだけ諦めの悪い人間になっていたのです。
まるで事前に準備していたかのように腕にあらん限りの力を込めて箒を引き起こしました。激しい振動が全身を襲います。お尻に箒が押し付けられて、口から内蔵が飛び出そう。奥歯を噛み締めて激しい抵抗に抗います。
しかしその努力も水没するまでの僅かな時間稼ぎにしかなりませんでした。
海面を漂う冷たい空気を感じます。
『そこで全開!』
声の命ぜられるままに推進器の出力を解放しました。わたしは知りませんでした。箒がこれほどまでに大きな力を持っていようとは。背後で列車の汽笛に似た甲高い音がすると同時に箒はぶるりと震え、まるで巨大な手で投げ飛ばされたように前へ飛び出します。仰け反るほどの速さ。瞬く間に天高く舞い上がります。箒にしがみついていると、やがて速度も収まり、姿勢も水平に回復しました。
一日に二度も死を覚悟する目に遭うとは……今日という日はわたしの人生で災厄の日として一生語り継がれていくことになるでしょう。
『さっきのはいい機転だったわね』
いつの間にかレイラは並んで飛んでいました。
『死ぬかと思いました……』
『あはは、それ二度目』
『もう。笑い事じゃないですよ』
『ごめんね。怒らないでよ。悪気はないのよ』
『いいえ、怒ってません』
静かな憤怒がみぞおちを満たしています。怒ってないと言ったもののばればれです。もちろんそれにいちいち反応するレイラではありません。
『でも、あの急上昇は見事よ。きちんと身に付いてるわね』
『どうでしょうか。必死だったので考えてしたわけじゃありません』
『けっこうなことじゃない。体で覚えるのは大切よ』
『さっきと言ってることが違いません? 自分のしたことはきちんと覚えておけと』
『あら、ソフィーに一本取られたわね』
『あれは適当だったんですか……』
『そういうわけじゃないわ。ソフィーは理解しないと動けない人だから言ったのよ』
『?』
たしかに感覚で覚えるより、原理や仕組みを知るのが好きです。でも勝手にわたしという人間を判断されるのはあまり気分が良いものではありません。しかもまだ会って数ヶ月の人にです。
『前に言ったかしら。飛ぶことは意識するだけで、なるべく頭は空にしなさい、と。慣れないうちにはこのほうが飛びやすいのよ。これが段々とね、半々になってくるわ。空を飛ぶというのは理屈と感覚とで半分なの。考えもなく飛んではだめ、考えすぎてもだめ。この二つのバランスが飛行の正確さと安定さに繋がるのよ』
『でも感覚なんていくら考えても自分の意志でどうできるものではないし……』
『だから、それが考え過ぎというのよ』
マスクを被っていてもレイラが笑っているのが分かります。
「むう」
返す言葉もありません。静かにマスクの下で渋面を作ります。
怒りが収まり心が冷静さを取り戻すと、足が氷のように冷たいのに気付きました。折っている膝を伸ばすと濡れたブーツが黒く変色しています。うまく水没から避けたと思ったのに、現実は甘くありません。
一方のレイラは、マントやドレスから水滴がぽたぽたと落ちています。
『ドレスがずぶ濡れですよ』
『ソフィーもね』
誰の責任だと思ってるのやら。静まりかけていた怒りの火がちりちりと燻り始めます。
『離脱のタイミングが遅かったのね。思った以上に水に推力を奪われたみたい』
『船から飛び降りるのも必要な技術なんですか?』
『まさか、わざわざ船から飛び降る必要なんてないわ。エミリアに知られたら叱られるわよ』
『ならどうして……』
『どうしてあんな離陸をしたのかって?』
レイラはわたしから言葉を取って続けます。
『そうね。やってみたかったから……かな。おかしい?』
『おかしいと言うか……そんな理由で……』
『言い方が悪かったわね。どうなるか試してみたかったの。陸地からできるなら、移動する船からならどうかなってね。つまりは実験よ』
『実験……ですか』
『ええ、新しい飛び方の実験。魔女は分かってないことが多いのよ。飛行もそう。気球や飛行船みたいにふわふわと浮くわけじゃない。鳥と同じように速度を出して浮く力を生み出すけど、羽ばたくわけでもない。ソフィーは飛行機って知ってるかしら? その原理に近いらしいの。わたし達は棒に乗れば浮く力を生み出す「場」を作り、特定の構造をした筒状の物体から進む力を生み出せる』
もちろん知っています。教えてくれたのはほかならぬレイラですから。
『なんとなく理屈だけが分かってる。いったいどれだけ速く飛べるのか、どこまで高く昇れるのか限界がわからない。飛行方法もエミリアから教わったことを真似ているだけ。でも、わたしはまだ様々な飛び方があると思っているの。だからその実験』
なるほどレイラの言うことも一理あります。けれど事前の断りもなしにあんな飛行をされると、一緒に飛ぶ人はたまったものではありません。
だって何か起きても今のわたしにはできることが少ないのですから。自分に力がなくても、見過ごすことなんてできません。
『そもそも、ティルベリーでも同じことしたのに、どうして今回は動いたの? 岸壁からか船からかの違いだけでしょ? わたしはそれが気になるな』
『そんなことわかりませんよ。体が勝手に動いたから……』
『ふぅん』
『そんな他人事見たいに。これでもレイラさんを助けに向かったんですよ』
『知ってるわ。感心したのよ』
『……?』
『きっとソフィーは港の時も同じだったのよ。でも動かなかった。いえ、動けなかったのが正しいのかしら。それがさっきは自然とできた。短い間だけど、たぶんソフィーも飛ぶことが体で理解できてきた証拠よ』
『そうでしょうか……。そういえば、わたしの行動に気付いていたんですね。自分でも分からなかったのに』
『当たり前よ。わたしとソフィーはペアで飛んでいるのよ。ペアは常に相手の動きを把握しておくもの。ソフィーもわたしを見てくれていたから助けにきてくれたんでしょ? ありがとう』
褒められるのは嬉しいですが、ちょっと恥ずかしい。
わたしは言葉を返さず、なんとなく顔を見られないようにそっぽを向きました。