ティルベリー
『レイラ、ソフィー。いま大丈夫かしら』
『はい、ママ。こちらレイラ』
黙々と上昇を続けていたところにエミリアからコーリングが入りました。エミリアはわたし達のリーダー。年長者でみんなからママと呼ばれています。
『状況を教えて』
『ダートフォード上空。高度1000メートル。目標高度3000メートルに向けて上昇中です』
『了解したわ』
『状況確認なんて珍しいわね。もしかして何か事件でも起こったの?』
『感がいいわね。でも事件ではないの。急な用事が入ったのよ。訓練中で悪いけど頼まれてもらえないかしら。いま動けるのはあなた達だけなの』
魔女の任務は飛行が伴います。ゆえに飛行訓練の真っ只中にあるわたしはまだ任務に就けません。レイラが任務に赴けば、必然的に訓練は中止です。せっかくやる気を出したところですが、任務とあらば仕方ありません。不可抗力です。目的を達成できないのは心残りですが、墜落という貴重な経験もしたし今日はもう十分でしょう。お茶請けのスコーンが楽しみです。
『こちらは大丈夫。で、その用事とは?』
『海軍からの依頼よ。まずティルベリーで書簡を受領。次にラッツ湾で出航準備中のエンディミオンに届けて欲しいの』
『あら、おつかいなのね。自慢の高速艇はどこの海にいるのかしら』
『出せないそうよ。事情があるのでしょう』
『ふーん、ところで、ソフィーも連れて行きたいの。かまわないかな』
「はい?」
耳を疑いました。もう帰投する気でしたから、足元を掬われたとはこのことです。それにまだ訓練中の身。しかも今日初めて外に出たというのに。危険です。たぶん規則にも反しています。レイラに考えを改めるようコーリングをしようか悩みました。が、まずはエミリアの反応を待つことにします。レイラはエミリアの尋ねたのですから、ここでわたしが口を挟むのは失礼にあたります。
予想外なのはエミリアも同じだったのか、コーリングはしばらく途絶えました。
『そうね……レイラが言うなら……』
まさかの展開です。
『レイラさん。わたし、任務なんてまだ無理ですよ』
『ありがとう、ママ。あら? あ、ソフィーのコーリングが先だったのね』
コーリングは声を使わない伝達手段ですが、わたしやレイラのコーリングが届くのはせいぜい50メートルが限界です。互いの距離を保てないと、声はぷっつりと途絶えてしまいます。加えて相手に届いているかどうかは分からないので、目測で距離を把握できないと、延々と独り言を続けるはめになります。
しかし何事にも例外はあり、エミリアのそれは特別でした。例えばシティからならロンドンのどこにいてもコーリングを受け取ることが可能です。またコーリングには面白い特性があり、自分のコーリングが届かなくても、相手から届いたコーリングに自分の声を返せます。だからレイラがエミリアにコーリングができなかったのは、レイラのコーリングに声を返すのを、わたしのコーリングが阻んだからでした。
『心配ないわ。たかがお使いじゃない。簡単な仕事よ』
『わたしはまだ正式な魔女ではないですし。それに外を飛ぶのだって今日が初めてなのに、いきなり任務に就くなんて……』
『エミリアもいいって言ってることだし』
正直、気乗りがしません。それに執拗に連れて行こうとするレイラの態度に引っかかるものがあります。何か企んでいるような。
『ね、ソフィーも行きましょう。きっといい経験になるわよ』
レイラの声に苛立ちの色が伺えました。レイラに限ってそんなことはないと思いますが、あまり駄々をこねると怒られるかもしれません。レイラの機嫌と未知なる任務の不安を天秤にかけると、針は漠然とした不安より、結果が予想できる方へと傾きます。これ以上の抵抗は時間の浪費でしょう。
『行きます……』
しぶしぶと承諾します。
『レイラ? どうしたの?』
『なんでもないわ。ソフィーも連れて行くわね』
これも不可抗力でしょう。諦めも肝心です。最終的にわたしが決定した事実は変わりません。むしろ未熟なわたしが任務に同行できるのは、運が良いと前向きに捉えます。
レイラは魔女のなかで特に任務に積極的で、高い飛行技術も持ち合わせています。尊敬はしていますが、強引なところが玉に瑕です。
『頼んだわ。くれぐれも気をつけてね』
『もちろん。ところで船はすぐに分かるのかしら? 識別には自信ないけど』
『周辺にはエンディミオンしかいないから心配ないそうよ。では、よろしくお願いね』
『ソフィー。行きましょう』
マスクの下で嘆息をつきます。このマスクは息苦いし、恐ろしいしで良いところはありませんが、表情を隠せるのは便利な代物でした。
「あと少しだけがんばろう……」
自分を鼓舞しながら最適なお尻の位置を探ります。同じ体勢のままずっと座っていたので臀部がえぐられたように痛い。サドルに深く座り直し、ゆるやかに舵を切りながら降下を開始したレイラの背中を追いました。
ティルベリーはテムズ川の河口に近く、川が蛇行して中州になっているグレーズとグレーブセンドの中間に位置する港です。10年ほど前に作られたティルベリー港は、荷揚げの中心だったロンドン港からは下流に位置し、この港のおかげでテムズ川の遡上に費やす時間を大幅に短縮できるようになったのです。
港はわたし達のいたダートフォードからはちょうど真東。北西に進路をとっていたわたしとレイラは面舵で迂回します。テムズ川が大きく湾曲しているところから南西へ直進して、川の上空へ侵入しました。
ここから港までは1km程度のはず。初めて訪れる場所ですから注意していないと気がつかない間に通り過ぎそうです。
川はちょうど満潮の時間で、遡上する船の動きが活発でした。石炭や木材を運ぶ平底の船や、黒煙を吹き上げる蒸気式の曳船が牽く外洋帆船、観光船と思われる外輪蒸気船などが隣の船と会話できそうな距離で行き交っています。川岸には船が何重にも寄せられて停泊しており、さながらマストの森です。その木立の間を縫うように、レイラは飛んでいました。
『レイラさん、低すぎません?』
『大丈夫よ、このくらい。ソフィーもマストに引っかからないでね』
いくらわたしが不出来な魔女でも、見えているものにわざわざぶつかるほど愚かではありません。大事を取って貨物船のマストより高い場所を維持しているので心配はありません。それでも建物とは違い、動く巨大な物体の上を飛ぶというのは恐ろしいもので、十分に距離があるのについ回避行動を取ってしまいます。
レイラは更に高度を下げました。水面近くを飛んでいるのが、ときおりあがる水しぶきでわかります。
レイラはわたしの先生をしているときとは違い、のびのびと気ままに飛行していました。それもこれもテムズ川では、魔女に課せられた制約を受けないからです。ロンドン市中では魔女は屋根から下に降りてはならず、馬車より速くは飛ぶことは禁じられているのです。それに対し、テムズ川はいつだって自由です。この川の上だけは女王陛下でさえも口出しをできないのですから魔女もここでは自由です。
しかもわたしたち魔女の活動時間は、魔女らしく主に夜間で、こうして昼間に飛べる機会は、任務か訓練でもない限り滅多にありません。なのでレイラが先生役を買って出た理由には、訓練と称して明るいうちに飛べるからもあったでしょう。しかも今日は任務のおまけ付きです。レイラがいつもより心躍らせ、その溢れた感情が飛行に出ても不思議ではないのです。
ほどなく左手の川岸に、切り立つ建造物が姿を現しました。川に沿って北北西から南南東に延びる岸壁には、数隻の船が列を作って停泊しています。港は川沿いの岸壁だけでなく、陸地も大きく掘り込まれており、その中の岸壁にはおびただしい数の貨物船が接岸していました。
最初の目的地であるティルベリー港につきました。
それぞれの船には蒸気クレーンが取り付き、ブームが緩慢な動作で船から陸へ大きな木の箱を降ろしています。その脇で子供ほどもある袋を背負った荷役人夫が、蟻のように隊列を作り、陸へ荷物を運んでいました。
港で働く人たちは仕事に忙しく、わたし達が上空に居るのを気付いた様子はありません。
『すごい人の数ですね……まるで金曜の市場みたい』
『ちょうど満潮だから、港に入る船も多いからね。さて、わたし達もきりきり働きますか』
港の手前で上昇し、前を行くレイラは、港へ頭を巡らせています。
『書簡は誰から受け取ればいいのでしょうね』
『実はわたしも同じことを考えていたのよ。ここに来ればすぐ分かるようになっていると思っていたわ。途中寄り道をするお届けものなんて初めてだし』
ここまで来て無計画だったとは……。
『どうしましょう。エミリアさんの所へ戻りますか?』
『ママのことだから段取りはしているはずなのよね。困ったわ。戻った方がいいのかしら。でも時間の無駄よね』
エミリアの完璧さには敬服していますが、人である以上は過ちや失敗はあるでしょう。それに責任の半分は確認をしなかったレイラにもあると思うのですが、当の本人はそのことに気付いていない様子です。
そんなやり取りをしている間にティルベリー港はすでにわたし達の背後に隠れていました。反転して再び港の上空に戻ります。
ふと、港の北側に意識が向きました。特に何が変わっている様子ではありません。でも、なぜだか気を引かれるものがありました。
注意深く観察します。すると人々が蠢く黒い大きな塊の端に、わたしの注意を引きつけたものを発見しました。それは一人の男性でした。しかもわたち達のいる空に顔を向けています。
港という広大な空間いる人たちは、それぞれの役割に従い、定められた動作を繰り返していました。わたしの視点からはもはや一つの生物です。この中にたった一人だけ、決りにも従わない存在が居たら、例え見た目が異なってなくても区別できるものです。同じ花の咲く花壇で、たった一輪だけ風に揺れる花があれば、おのずと目に止まるでしょう。それと同じです。
しかもその人は外見も周囲の人たちとまるで異なっていました。港で労働に従事する人たちは揃って黒や茶色のぼろ切れのような服に身を包んでいました。一方、その男性はスーツとおぼしき濃い青色の服です。これはもう目立つなというのがおかしい。
『レイラさん、あそこ。わたし達を見ている人がいますよ』
男性の頭上を旋回し始めると、相手はわたしが気付いたのを察知のか、その場から離れました。
『どこ? わからないわ』
『ほら、ちょうど岸壁へ向かって歩いている人です』
岸壁を指してレイラに男性の居る場所を知らせます。
それにしてもあの男性、いえ正確には男性の服装は妙に既視感があります。以前どこかで見かけたような。わたしがセーラー服以外で男性の服装が気にかかるとすれば、よほど印象的だったはずです。なのにすぐに思い出せないのは、恐らく良い印象ではないからでしょう。それならそれで良いです。嫌な思い出は忘れるに限りますから。
『あの方ですよね』
男性は水際まで辿り着くと、わたし達に向かって大きく腕を振り始めました。
『よく気がついたわね。きっとあの人よ。だってあれは海軍の服……』
レイラのコーリングは一端途切れ、あまり口に出したくなさそうに続きました。
『士官様か……マスターってことはないわよね』
と、レイラの言葉で記憶が蘇りました。わたしの頭が都合よくマスターの記憶を隠していたのに、まさかこんなところで思い出す事になろうとは……。
わたし達がただくるくると回り続け、降りる気配を見せないのに不安を感じたのか、男性は被っていた帽子を手に取ると振り始めました。
『……マスターじゃないわね。あの人は帽子を振ったりしないもの。書簡を受け取ってくるわ。ソフィーはここで待機していて』
レイラは直進して男性の居る場所から距離を取ると、くるりと背面飛行に移りました。その姿勢から斜め下方向への逆宙返りで向きを反転させると同時にいっきに高度を落とします。なんて鮮やかな機動。
「すごい……」
あの降下からの機動は高度を速度に変えます。低空で水平に戻ったレイラはずいぶんと速度が出ており、そのまま着陸をするのは危険です。レイラはどう対応するのでしょう。わたしなら旋回するか、男性の前を再びやり過ごして速度を落とすでしょう。
レイラはわたしが考えたどちらの方法も選ばず、曲げていた脚をぴんと伸ばしました。ドレスのスカートが風を受けて大きく広がります。反動で前につんのめったレイラは、広げた脚を閉じて馬の綱を引くように箒の先を持ち上げました。
空いた口が塞がりません。なんて品のない非常識な振る舞いでしょう。いくらわたし達が魔女だとしても一応は女性です。女性なら女性としての節度や礼節というものがあります。スカートをあんな風に扱うなんて、破廉恥にも程があります。エミリアが見たら卒倒するに違いありません。
レイラの奇抜な行動に驚いたのは男性も同じだったようです。しかしレイラがすぐ側に着地すると、すぐに仰け反った体を正しました。実際に人間が空を飛ぶ光景を目の当たりにし、しかもそれが自分の前に降りてきたとなれば、平常を保つのは難しいでしょう。さして取り乱すことなく、わずかに後ずさっただけに留めた男性はさすが英国海軍の兵隊さんです。
わたしなら間違いなく逃げ出していたでしょうね。
レイラは箒を旗竿のように誇らしげに掲げ、男性と対峙していました。先の尖った魔女の帽子と10センチ以上もヒールのあるブーツを持ってしても、レイラの背は男性に遠く及びません。まるで箒の長さで自身の背の低さを補おうとしているかのようです。
わたしの妄想をよそに下にいる二人は話を続けていました。男性の身振り手振りを加えた話に合わせてレイラの帽子が前後に、時に左右に揺れます。今のレイラは喋ることができません。この衣装を着てる時、つまり任務中のわたし達は特別に許可された人としか会話は許されていないのです。なにせこの装束は魔女としての正装であり、素性を隠す意図もあるからです。マスクそのは最たる例です。空気を清浄したり、わたしの気分を害するだけではないのです。他にもブーツの高いヒールで身長を底上げしたり、古風なドレスを着るなどして現実感を散らし、正体の特定を困難にしているのです。
エミリア曰く、魔女は超自然の存在でなければならないそうです。
ひとたびこの衣装を外せば、わたし達はどこにでも居る普通の女の子です。外見からは人と魔女を区別できません。その区別できない事が何より危険で、大きな問題になると聞かされました。
魔女は人間から遠く離れた異質であればあるほどよく、そうした印象を、真実を知らぬ大多数の人たちに持たせることができれば尚よいと。そして何より重要なのは、この非現実的な存在である魔女を人間が統制していることです。
手を離せば大きな災いをもたらす力でも人間が支配できているうちは、不安になることも、拒絶されることもありません。人間が恐れを抱くのは、未知なるものと制御できないもの。逆にどちらか一つでも掌握できていれば、存外受け入れられるものです。ですからわたしたち魔女は、人間の忠実な僕であることを世に知らしめるため、こうしておつかいになぞに精を出したりするのでした。
レイラがさらに何度目かの相槌を打つと、男性は細長い筒のようなものを差し出しました。あれがお届け物の書簡なのでしょう。レイラが筒を受け取ると、互いに姿勢を正して敬礼を交わしました。
『受領したわ。船はすでに抜錨してるそうよ』
『あれ? まだ出航の準備をしてるはずでは』
『予定が早まったか、エミリアに連絡が入るのが遅れたのか。理由はどうでもいいわ。沖に出られると面倒だから急ぎましょう』
言うなりレイラは踵を返して川へ向き直ります。歩を進めて岸壁の縁に立つと、箒を腰の位置で水平に構えました。
今度は何を始めるのか訝しんでいると『離陸するわ』とコーリングが届くなり、レイラは川に向かって跳躍しました。
すぐには何が起きたのか理解できませんでした。ただ瞳に映る現象をそのままに受け入れるだけで、思考を挟む余裕はありません。魂が抜かれたように呆然と空中に弧を描くレイラを見つめ続けました。
魔女になってからわたしの持っていた常識の多くは崩壊し、再構築されました。そのおかげで魔女に関わる非常識さにもそれなりに順応できていたのです。
でも何の前触れもなく人間が川に飛び込めば普通に驚き、狼狽え、混乱するのです。
体がぐらりと前に傾き我に返りました。視覚に意識を奪われすぎて箒の推進器が止まっていたのです。即座に推進器を作動させると、降下のまま速度をつけて上昇に転じます。対応を誤れば失速するところでした。低空で失速すると回復はきわめて困難。下は川ですから落ちても死ぬことはないと思いますが、水はもう寒い季節ですし、なによりテムズ川に飛び込むのは気が進みません。
川に飛び込むといえばレイラです。辺りを見回し、わたしがレイラの姿を発見したのは、彼女が箒に跨がったまま川へ飲み込まれようとしている瞬間でした。
「レイラ!」
『心配ないわ』
まるでわたしの声が聞こえたかのように、レイラからコーリングが届きます。と、同時に水面で巨大な魚が弾けたような水しぶきがあがり、レイラが鋭い上昇で瞬く間にわたしのいる高さまで翔けのぼってきました。
再び呆然として隣に並ぶレイラを見つめます。
『ぼんやりしてると置いてくわよ』
レイラはそう言い残すと何事もなかったかのように、東へと梶を取るのでした。