墜落
ロンドンの街が急速に拡大されていきます。このまま落下が続くと地面との衝突は避けられないでしょう。最悪の結末を迎えるのは確実です。
悲劇のヒロインのごとく、通りすがりの異国の王子や出会いを定められた勇者から救出されるのを期待しても、残念ながらそのようなヒロインは高い塔やお城に幽閉されているか、さもなければ深い森の奥で永遠の眠りについているのが常です。空から落ちるなどと、はしたない女の子の元には訪れないのです。
ならば自力で窮地を乗り越えられる神話かお伽話の英雄になるのを希望しますが、架空の世界で更に特別な存在である彼らになるには、わたしはあまりにも宿命とやらから遠い存在でした。仮に役を得ても名前もない村娘が関の山でしょう。
童話やお伽話の世界に憧れ、空想を無二の親友とする、取り柄のない少女には描写もされない死がお似合いです。
けっして長くはない人生でしたが、一度はこの世に生を受けたのです。はいそうですかと簡単に命を引き渡せません。手放せない理由になるだけの思い出も、夢も希望もあります……。でも、それは一体何でしょう。出てくるのは夢や希望といった言葉だけです。その言葉が指す具体的な事象が思い出せません。こんな状況だからこそ精神的支柱になるはずのもの達が、中身のない抜け殻だったなんて事実は認めるのは辛いです。それを認めるのは死を受け入れたと同義でしょうから。
『ソフィー!』
再びレイラからのコーリングが響きました。空想に逃避するあまり彼女のことをすっかり失念していました。
『引き起こしてっ!!』
レイラの言う「引き起こし」が水平飛行に戻ることは理解できました。水平飛行に戻れば揚力も回復して、落下を食い止めることができます。しかし降下中からの、しかもこんな速度での引き起こしは未経験です。昨日まで低空をよちよちと飛んでいたのですから。
秘策はないのかとレイラに尋ねたいところですが、コーリングを発する余裕はありません。箒から放り出されないだけでも奇跡的な状況ですから。
なんら状況が改善せぬまま降下は続きます。一秒、また一秒と時間が流れていきます。一秒がこんなに長いとは思いませんでした。長いとは感じるのは恐らく時間に対して思考が異常な早さで働くこととのズレが生み出す錯覚でしょう。いままでに意識することも考えもしなかった時間の長さというものに違和感を覚えます。わたしが接してきた時間は始まりか終わりの点でしたから。
この馴染みのない感覚が原因なのか、変化しない状況がもどかしく、焦れったくなりました。どうせ助からないのなら考える時間も怯える間もなく、いますぐにでも終わりにして欲しいものです。そんな捨て鉢な感情が心を満たし始めました。
よくない兆候です。
「『腕を、腕をひきなさい!』」
明瞭なコーリングと同時にかすかなレイラの肉声が風鳴りの合間から聞こえました。レイラの声が聞こえるということは、彼女が近くにいる証拠です。わたしは反射的に、凄まじい風圧に抗い、声のした方へ頭を向けました。
視界の隅に箒の先端が見えます。レイラが真っ逆さまに落ちているわたしを追いかけているのです。
『はやく、はやく腕をひいてーー』
そのレイラの箒が視界から消えたかと思うと、祈りにも似た悲愴なコーリングが届きました。
レイラは危険を顧みず、わたしを助けようとしています。
正面を見据えて、眦を決しました。差し伸べる手を払うことなどできるはずがありません。勇を鼓して一度は目を反らした現実と対峙します。
すでにロンドンの街は建物や街路の様子がはっきりと識別できる程に接近していました。際どいけどまだ間に合うはず。
箒を両手に力を込めて握り締め、同時に太ももでしっかりと挟み込みます。
力任せに両腕を体に引き寄せると、瞬時に下方から全身を突き上げる力が襲ってきました。機関車が急停車したような激しい振動で箒から投げ出されそうです。歯を食いしばり、箒に抱きつきます。刻一刻と迫る地上と衝突に怯えながら、必死に祈り続けました。
いったいどれだけ時間を箒にしがみついていたのでしょう。一分? 五分? たぶんそれほど長い時間ではないはず。いくら待てども地面にぶつかる気配はありません。かわりに、降下中の激しい振動も、引き起こしの衝撃もないことに気がつきました。いまでは穏やかな浮遊感に全身が包まれています。
死ぬ瞬間の記憶はありませんが、ここは世に言う天国なのでは……と、恐る恐る瞼を開くと、天国のイメージとはかけ離れた乱雑で煤汚れた街が広がっていました。ゆっくりと上体を起こし、周囲を確認すると、そこは紛れもなくロンドンです。様々な形をした屋根の煙突からは煙が穏やかにたなびき、街路は所狭しと人や馬車が行き交っています。
いつしか水平飛行に戻っていました。墜落は免れたようです。
「助かった……」
と安堵したのも束の間、頭が割れそうなほどの強い痛みに襲われました。まるで頭の内側を直に殴りつけられたみたいです。箒に跨っているおかげで頭を抱えることもできず、前かがみになって痛みが過ぎ去るのをじっと我慢するしかありません。身体の内側の痛みはまことに厄介です。摩ったりいたわったりできませんから。
痛みが少し落ち着き、よろよろと再び上体を起こすと、今度は闇に包まれるように視界が収縮します。ついで胸がぎゅっと押さえつけられたように苦しくなり、再びうずくまります。食道を何かが遡る、あの不快感を覚えました。
「まずい」
反射的に口元を手で覆います。しかしそれは叶いませんでした。
顔を覆っているマスクに阻まれました。
このままではよろしくありません。たぶん墜落より悲惨です。マスクは顔に隙間なく張り付き、空気すら漏らしません。つまり逆流したものの逃げ場はどこにもないのです。
女の子のわたしが口にするのもはばかられる惨劇が脳裏を過りました。
息を止めて堪えますが、上昇の勢いは衰えません。
「もう駄目かも……」
限界を察知し、マスクを引き剥がしました。左手で口を抑え、顎を上にして硬直。正念場です。ここで精神が乱れるともう取り返しはつきません。崖っぷちです。
三分間くらい石像のように身を硬くしていました。永遠とも思える長い時間を耐え、逆流してきたものには喉に達する前に元の場所へお帰り頂きました。浅く息をつくと、口の中に酸っぱい味が広がります。今日食べたものからは絶対に生まれない類いの味でした。
「死ぬかと思った……」
全身の緊張を緩め、自分の声が耳に届いて初めて最悪の事態を免れたのを実感できました。慎重に浅く呼吸を続けると、頭の痛みも胸の締め付けもやわらぎ、まだぼんやりしていますが、視界も徐々に明るくなりました。
突然の体調不良は墜落による恐怖や過度の緊張もあったのでしょう。それに呼吸困難が加わったのです。あの時、マスクを取ったのは英断でした。
風が地肌にやさしく触れます。汗で濡れた額や首筋が冷やされる心地よさを堪能します。体の異状がなくなったことを確認して、大きくゆっくりと胸を膨らませました。煙の混じる汚れた空気でも美味しい。空気とはこれほど大切なものだったのかと改めて思い知らされます。
何もしていないのに清々しい達成感が心を満たします。いますぐに今日という日が終わってもおつりがくるくらいの充実感です。
『だめよ、ソフィー、マスクを外しては』
「わっ」
まったくの無防備だったところに声をかけられ、危うくマスクを手から離すところでした。
『飛ぶときは非常事態でもない限りマスクを取っては駄目よ』
まさのその非常事態だったのですが、あたふたとマスクを被りなおします。
『す、すみません。気持ち悪くなって、つい……』
『まだ慣れないのね。そんなにそのマスクは嫌かしら』
『嫌というか一度気になりだすと、どうしても我慢できなくて』
『サイズがあってないのかしら。仕方ないわね、今回は見逃すわ。けど次は駄目よ』
『申し訳ありません……』
マスクの縁にはゴムが張りつけられており、肌に直に触れる感触がまた不快感を生み出す原因なのです。
『空で、とくに低高度でマスクを取るのは危険なの。それは理解してるわよね?』
もちろんです。訓練を始める前は必ず、心得の一つとしてレイラから聞かされていますから。ちなみに今日も聞きました。
でも理解してるからって必ず守れるわけではありません。だって非常事態だし……。
わたし達が任務や訓練で空を飛ぶときは、マスクの着用が義務づけられています。理由は二つあり、一つは外部の空気を遮断するためでした。
マスクには内部に空気を清浄する装置が組み込まれています。ロンドンの空は工場や家庭の煙突から吐き出される煙などで汚染が酷く、肺の病気を引き起こす原因と言われています。地上に居ても影響があるのですから空を飛ぶわたし達への影響は推して知るべしです。
空気清浄機は吸い込んだ空気を濾過し、綺麗な空気にしてマスクのなかに供給します。とても有り難い装置ですが問題もありました。空気の供給量がとても少ないのです。故にわたし達は常に息苦しさに悩まされ、堪え難い苦痛を強いられます。しかも装着時の圧迫が非常に強く、閉塞感で気持ちが悪くなり、先ほどのように嘔吐しかけたこと一度や二度ではないのです。
そしてこんなマスクですから会話をすることはまったく考慮されていません。とはいえ、地上でならいざ知らず、そもそも空中で会話なんて無理な話です。のんびりと並んで飛んでいるならいざ知らず、少しでも互いに距離があると、大声を張り上げても声が届かないのは普通です。緊急時の場合でこそ、そのような事態に陥りやすいのです。さっきの墜落のように……。
刻々と変化する状況下で、相手との距離も位置も関係なく連絡を取る手段は現在の科学では不可能です。現に陸地に張り巡らされている電信も、移動する船には装備されていないのがその証拠です。
幸いにも魔女にはコーリングと呼ばれる声を介さずに、頭と頭で直接会話ができる能力があります。魔女同士でしか会話ができないのが欠点ですが、飛行中はもっぱらこの力で連絡を取り合っていました。
頭上を何か大きな物体が横切り、わたしの右前方に黒い塊がすとんと滑り落ちました。黒い塊とは印象ではなくまさにそのもので、その正体はレイラです。レイラは速度を落としてわたしの隣に並びました。
『どうしたの? まだ気分が悪い?』
レイラから声をかけられてもわたしは返事をせずに、ただ彼女の姿をぼんやりと眺めました。レイラは空を飛ぶときに身につける、わたし達にはごくありふれた、普段通りの格好です。でも何故だか、レイラがあらゆる常識を踏みにじるこの世に非ざる存在として感じられてなりません。
頭は真っ黒で先の尖った三角帽子にすっぽりと覆われ、異常に大きなつばがバタバタと風にはためいています。そのつばからは鳥のクチバシを模した白く細長い物体が突き出ていました。そのクチバシはマスクについており、中世のペスト医師が被っていたビークマスクと酷似しています。それだけでもマスクは十分に気味が悪いのに、視界を確保するために取り付けられたガラス製の丸眼鏡が虚ろで、見る者の不快感を嫌でも掻き立てます。体は雨風に晒されて汚れ、裾がぼろぼろに破れたマントに包まれていました。そのマントがたなびくたびに、下からは真っ黒な帽子やマスクとは不釣り合いなほど豪奢で古めかしいドレスが見え隠れしていました。
レイラの身につけているものはどれも実用のために揃えられているにも関わらず、すべてを組み合わせた結果、まったく意図していない方向へと完成されていました。そしてこの格好だけでも非常識を名乗るには十分なのに、さらにレイラは2m以上もある金属の棒に跨がって空を飛んでいます。
レイラは誰が見ても魔女そのもので、期待を裏切らず魔女と呼ばれていました。ですからレイラの瞳にも映る同じ姿をしたわたしもまた魔女と呼ばれているのでした。
もちろん魔女といっても中世に異端として捉えられ、炎に焼かれた魔女とも童話やお伽話に登場する空想の魔女とも違います。故に悪魔と契約して夜な夜なサバトで享楽に身を委ね、魔術で人を呪うこともなければ、お菓子で家を作り幼い子供を捕らえたり、どこかの国の王子様を蛙にしてしまうこともできません。
たしかに箒に乗って空を飛び回り、喋ることなく会話をする特異な力は、わたし達が人でないことの揺るぎない証拠です。しかしこのけったいな装束を脱げば、わたし達はロンドンのどこにでも居る普通の女の子をなんら変わりません。
魔女とは普通の人と区別するために与えられた名称で、わたし達を魔女と規定するのは、もっぱらお伽話に出てくる魔女を体現することになったこの奇怪な格好なのでした。
『大丈夫です。それと、先ほどは助けてくれて……あ、ありがとうございました』
『どう致しまして。無事でなによりよ』
『今度こそ本当に死ぬかと思いました』
『それはこっちの台詞よ。真っ逆さまに落ちて行くんだもの。肝を冷やしたわ。ところでどうしたの? 急に姿勢が崩れたみたいだけど』
レイラの声に咎める色はありませんが、どうして墜落に至った原因が分からない様子でした。
言われてみればと記憶を辿ります。しかし墜落後のパニックの印象があまりにも強く、それ以前の記憶には辿り着けません。
『思い出せませんね……自分でもどうしてだか』
『そうねえ、あんなに騒ぎ立てれば忘れるか。けど、できれば後でいいから思い出して欲しいな』
わたしとしては可及的速やかに記憶から抹消したいです。でないとしばらく夢でうなされそうですから。
『思い出したらもう飛べない気がします』
『違うわ。逆よ、逆。原因が分からないとそれこそ怖くて飛べないわよ。原因さえちゃんと分かっていれば、対処する準備だって事前にできるでしょう?』
なるほどです。準備なんて着ていく服くらいしか準備したことのないわたしにはできない発想です。レイラは言葉を続けました。
『自分の身に起きたことならなおさらね。それに失敗の原因を把握するのは当然だけど、逆に自覚もなく出来たりするのも同じくらい危険なのよ』
そこまで言うならと、今度は時間を遡らず、上昇しているところから時間を進めてみました。けれどやはり記憶は途中からぷっつりと途切れています。次に思い出せるのは、目の前に広がる広大なロンドンの街並みと、墜落後の自分との戦いでした。
『やはり、記憶が途絶えていますね……』
『まあ、わたしも注意が足りなかったわ』
『いえ、レイラさんが悪いんじゃないです。わたしがもっと上手にできてたら』
『そうね。次は慎重に行きましょう』
『はい……え、次って、まだやるんですか』
『え?』
『あ、そ、そう……ですよね』
『これは訓練なのよ。できるまで繰り返すのは当然でしょう?』
たしかにレイラの意見はもっともです。一人前の魔女になるためには乗り越えねばならぬ試練です。でもまだ墜落の恐怖が生々しく、上昇するだけで足が竦みそうです。できるならこのまま箒を投げ捨てて部屋に逃げ帰り、ベッドに潜り込みたい気分です。
しかしこの拒絶反応と同じくらいに、胸の奥にはふつふつと沸き立つ熱い思いもあるのです。それは飛翔への憧れです。
基本的な箒の操作にも習熟し、自信も芽生え始めたわたしは、昨日まで壁に衝突しないよう注意しながらよちよちと低空飛行を繰り返していました。それがいささか唐突であれ真に空と呼べる場所に飛び出し、普通の人では絶対に経験しえない、自由自在に空を飛ぶのは何ものにも代え難い魅力です。
相反する感情が渦巻き決断を曇らせますが、そもそも選択の余地なんてないのです。 わたしは飛ばなければなりません。
だって魔女なのですから。
『そうねえ。今日が無理なら、明日でもいいけど』
わたしの沈黙を拒否と受け取ったのか、レイラは譲歩の提案をしてきました。
決意はいともあっさりと揺らぎます。そう言われると明日といわず永遠に遠ざけたいです。でも、先延ばしにして解決できる問題などこの世には存在しないのです。それに墜落とそれに伴う体験を刷り込まれた高所飛行を明日もまた行うことを考えると、きっと今夜は眠れないでしょうし、食事も喉を取るか不安です。嫌なことは早く終わらせるに限ります。
甘えた自分に鞭を打ちました。
『もう平気です。今からお願いします』
『わかった。じゃあ行きましょうか』
レイラはわたしの返事にこくりと頷き、箒から身を乗り出すと地上に顔を向けます。行動を起こす前の状況確認です。街の上空だから周囲を見渡せば建物や道路の位置からおよその場所は特定できますが、レイラはすでに直下の地形を確認して正確に自分の位置を把握するのが習慣になっているのです。
わたしもレイラに倣いました。ダートフォード付近、高度は300メートルくらいといったところでしょう。
高空から見る街は地図を眺めるのに似て、視線の先に本物の都市が存在する現実感がありません。一方でこの高さから垂直に見下ろすと、びっしりと敷き詰められた建物や迷路のように入り組む大小様々な道路、人や馬車の動きがはっきりと知覚でき、ここから落ちたら確実に死ぬという想像を否が応でも掻き立てます。
地上へ吸い込まれそうな不思議な感覚……。
気が付くと前のめりになっていました。慌てて身体を引き起こします。
『なにしてるの。おいて行くわよ』
レイラはすでに弧を描き上昇を初めていました。増速して後を追いかけます。
旋回しながら高度を稼ぎます。なかなか街の全貌を視界に収めることはできません。さすがは巨大都市ロンドン。世界を統べる英国の首都に相応しい大きさです。
英国はヴィクトリア女王の威光のもと、世紀の終わりが近づく今日にあっても、その力には陰りは見えず、各国から集まる富によって支えられた経済力と強大な海軍力を背景にして世界平和の維持に務めています。
ロンドンは西暦が始まって間もない頃、かつてヨーロッパ全土を支配したローマ帝国によって礎が作られました。11世紀のノルマン朝成立からさらなる発展を遂げ、その後は内戦や革命、海峡を隔てた大陸や新大陸との戦争、疫病や大火災など度重なる歴史の荒波にもまれつつも、着実に都市の拡大と発展を続けました。18世紀に端を発する産業革命を促した蒸気の力は産業を根底から変化させ、大量の人と資材の運搬を可能にし、あらゆるものをロンドンに集中させました。
そうして現在では約600万以上の様々な人種や多様な文化が共存する世界でも肩を並ぶものがない超巨大都市に成長したのです。
そのロンドンの中央を西から東へと真横に流れ、都市を北と南に分断しているのがテムズ川です。南イングランド西端にある源流の小川はやがて広がり、市内ではすでに川幅は200メートルにも達する大河となり、常に豊かな水量を湛えています。
水の豊かな河は、過去に栄えた文明と同様に都市を発展させる動脈となり、多くの物資を運び、人と文化の発展を支えました。たまにはヴァイキングなどの異民族も運んできましたが、なんにせよロンドンの発展はテムズ川なくては成り立たなかったでしょう。
まさにロンドンはテムズの賜物です。