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灰色の空

『ソフィーーーーーー!』

 頭のなかに湧きでた叫び声で、わたしは遠い場所から一瞬で引き戻されました。

 寝ていたのか瞳を開くと視界が霞んでいます。瞼に力を入れ、再び開くと、目の前にロンドンの街が古い紙に印刷された地図のように広がっていました。

「そうか、空を飛んでいたんだ」

 空気の塊に衝突し、身体が激しく揺さぶられ、吹き飛ばされそうになります。わたしがこんな衝撃を受けるほど速く飛べるはずがありません。

「あぁ……落ちてるんだ」

 頭から記憶がしずくとなって零れ落ちるように、わたしは空から地上をめがけて真っ逆さまに落ちていました。

 いわゆる墜落です。

 不思議と恐ろしくはありません。たぶん墜落を頭ではわかっていても、実感が沸かなかったのだと思います。ただ凄まじい風で手足がもぎ取られそうに痛く、耳元で鳴り続ける甲高い音が苦痛なだけでした。

 かようにこのような異常な状況に陥ることになったのか、まずはその発端からお話したほうがよいでしょう。



 正式な魔女として認めてもらうには飛行技術の習得が必須です。過去に空も飛ばずに魔女と呼ばれた魔女が居たでしょうか。飛行は魔女の象徴と言っても過言ではありません。なのでわたしも一人前の魔女となるべく飛行訓練をしてるのです。

 わたしが生まれて初めて箒に跨がってからちょうど二ヶ月が経ちました。自分でも魔女と名乗っても恥ずかしくない域まで達したと思い始めた頃です。昼食後にいつもの周回訓練を終えると、レイラはさも当然のように「これから外に行きましょう」と言うなり、一人で先に壁の外に飛び立ちました。突然の行動に戸惑いながらも後を追います。レイラはわたしの先生なのでついて行くほかありません。

 壁を越える瞬間は緊張しました。きまりを破るうしろめたさに近い感覚です。しかし、壁の外に出て上空からのロンドンを見た瞬間に、そんな些細な罪悪感は消え去りました。わたしより何倍も大きな家や教会が足元を流れて行きます。

「うわぁ……」

 偉大なことを成し遂げたような達成感が胸に溢れ、感動で全身がわななきます。いつかはわたしも壁を越えて外に出るのは分かっていました。避けられない未来に不安を抱き、怯えていた自分が馬鹿みたいです。これはとても良いものです。

「空が大きい」

 外での飛行は突風にさえに注意すれば壁の内側と大差はなく、むしろ壁がないので衝突する恐れも圧迫感もないので飛びやすい。

 しかし程なくこれは甘い考えであることを思い知らされることになるのです。


『どこまで行くんですか?』

『んー、あと少しかな』

『はあ……』

 黙々と上昇を続けるレイラと同じ問答をすでに二度繰り返していました。仕方なく後を追います。レイラのことですからすぐに訓練を開始すると思いきや「ついてきて」と言うなり、後は何も喋らずに、黙々と上昇を続けていました。10分ほど沈黙が続きます。とんでもないことを始めるのではと気が気でありません。仮にとんでもないことを始めるにしても心の準備はしておきたい。しつこいとは思いながらも、三回目を口にしようとした時、レイラは水平飛行に移りました。

『はい、到着』

『ここですか……』

 一時間ほど昇り続けて辿り着いた場所は、本当に何もない空でした。雲はなく、遥か彼方には絵でしか見た事のない地平線がこれ見よがしに広がっています。頭の上にも足の下にも空しかありません。強い風が北から吹き付けていました。ここは壁を越えた直後の低空とは違い、とても寒く、手足の震えが止まりません。頭も鈍く痛み、熱もないのに妙に意識が途切れがちで、そのためか姿勢が安定しません。

『さ、訓練を始めましょうか。と言っても実はここまで昇ってくるが訓練のひとつだったの。上昇は問題ないわね』

 わたしもそれなりに訓練を重ねているので上昇くらいはお手の物です。珍しくはっきり物を言わないレイラの態度が気になります。他にどんな訓練をするのやら……。

 上昇したのですから下降でしょうかね?

 レイラは空中で静止状態を保っています。わたしはそのレイラを軸の中心に据えてぐるぐると旋回を続けます。あんな器用な真似はできませんから。

 と言っても維持旋回も難しい技なのです。速度を保ち、高度を上げても下げてもいけません。常にバンクをしているので、自然と地上の光景が目に飛び込みます。巨大都市ロンドンが一望でき、まるでこびとの国のよう。それだけ自分が高い場所に居るということです。明らかに寒さが原因ではない震えが背筋を走りました。見続けていると吸い込まれそう。あれほど感動した街の姿がいまや恐怖の対象です。なるべく地上が視界に入らないよう、顔を正面に据えます。

『と、ところで次は何をするんですか?』

 話をして気を逸らさないと下にばかり注意が向いてしまいます。

『これよ、これ』

 レイラは厚手の革手袋に包まれた手で、跨がっている箒をぽんぽんと叩きました。

『箒?』

『違うわ。空中停止よ。わたしがやっているでしょう? ここまで昇ると風の向きが安定していて、風速もあるから空中停止の訓練には適しているの。もっとも空中停止なんて普段は行わないし、それを言うと高高度飛行も滅多にしないけどね。何事も一度は経験しておかないと』

『はぁ……』

『では、あらためて続きを始めましょうか。まず箒の向きをわたしに合わせて。そう、そんな感じ。大切なのは風の流れを掴むこと。向かい風に体の正面を向けたら、次に推力を絞るの。こんな風に後進したら徐々に推力を戻す。前に出過ぎるようならまた推力を弱める。空中停止はこの繰り返し。微妙な推力の調整ができれば止まっているように感じられるわ。初めは頻繁な操作で大変だけど、コツが掴めたら水平に飛ぶのと同じくらいに自然とできるようわ。さ、やってみて』

ぴたりと空中で静止するレイラ。いかにも簡単そうにやっていますが、あれはレイラだからこそに間違いありません。わたしなんて未だに微妙な推力の加減ができず、着陸すら失敗の数が多いというのに。

 でもこの高さならひっくり返って地面で頭を強打する心配はなさそうです。

「……せぇーの」

 箒による飛行は適応の個人差が大きく、理屈よりも体を慣らすほうが習得は速いというのがレイラの教育方針でした。なので座学よりも実地が多く、訓練は抽象的かつ哲学的で超経験的な……つまりは見よう見まねです。

 レイラの教え通りに、風に対して直進をし、推力を極限にまで絞ると、みるみる間に風に流されました。体が右へ左へと大きく揺さぶられます。初めは風が強いからだと思っていましたが、この揺れ方は明らかに揚力の不足です。

『ソフィー、もっと推力を上げて。姿勢が維持できてないわ』

 言われずともです。失速を回避するため、推力を上昇させるべく、意識を推進器へ繋ごうとすると――。

「あ」

 恐らく焦りが原因だったのでしょう。その苛立ちが必要以上の力を推進器に求めたようです。箒が荒馬のごとく荒々しく身震いしたかと思うと、上昇しているのに落ちている奇妙な浮遊感を味わいました。

 記憶が途切れる寸前にわたしの脳に刻まれたのは、天がぐらりと傾く、まことに荘厳な光景でした。

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