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レイヴン

 後片付けをするドリスを残して廊下に出ると、エミリアが部屋の前でいつもの穏やかな笑みを浮かべて待っていました。

「お待たせしてすみません。着替え終わりました」

 わざわざ迎えに来るとは、よほど急ぎの用件なのでしょうか。

 エミリアは頭の上からつま先までを眺めると、セーラー服の襟を正して、納得したように頷きました。

「新しい服が欲しいわね。セーラー服ばかりで飽きない?」

「好きなので……」

「でも女の子だから」

 エミリアは困ったように頬に手を置きます。

 服は病院の外へ出るために取り急ぎで貰ったドレスが一着とセーラー服が三着。ドレスはあまりにみすぼらしいので、私服はもっぱらセーラー服です。レイラやパトリシアもセーラー服は持っているはずですが、着るのはわたしだけです。

「あの、ところでご用件というのは?」

「付いてきて」

 目的も告げずエミリアは歩き始めました。てっきり居間に戻るのかと思いきや、北西の角にある二階へと続く螺旋階段を降り始めます。

 嫌な予感が脳裏を過りました。

「マスターからお話があるの。今日はあなたに用事があってわざわざいらしたのよ」

 予感が的中しました。目の前が真っ暗になります。

 ロンドン塔で出会う人のなかで、マスターほど苦手とする人物はいません。過去に会って言葉を交わしたのは二回だけ。それも「はい」と「いいえ」、「失礼します」としか口にしていません。言われたことにだけ反応する、およそ会話とはいえない状態でした。大人でしかも男性。それだけでも近づきがたい要素を十分に兼ね備えているのに、背がやたらと高く、いつも厳めしい表情をしています。

 悲鳴でもあげて気絶でもしたら見逃してもらえるのでしょうが、気絶などしたことはありませんし、なにより今日はもう倒れたくありません。

 わたしだけでなく程度の差こそあれ魔女はマスターを好んでいません。エミリアは大人ですし、職務上連絡を取るのでマスターを上手につき合っているのでしょうが、内心はわたしたちと同じだと信じています。

 墜落、リボンの紛失、着陸の失敗、ドレスの破損と悪いことの続く日でしたが、まさかそれらを上回る悲劇が待ち構えていたとは。ままならぬものです。

 重荷を背にして丘を登る気持ちで廊下を一歩一歩と進みます。この廊下にどんなに歩いても行く先には辿り着けない呪いがかかればいいのに……。

 前を歩くエミリアが足を止めました。マスターの部屋に辿り着いたのです。エミリアはわたしの髪をやさしく撫でて、無言のままその手を戸に向けました。

「一人でですか?」

 エミリアが頷きます。

「大切なお話だそうよ。だからソフィーだけね」

 演技でもなんでもなく気絶してしまいそう。硬直して動かないわたしの心情を察してくれたのか、エミリアは手を取って、両手で包んでくれました。柔らかくとても暖かい。今生の別れとばかりにエミリアの顔を覗くと、口元に笑みをたたえていますが、瞳には悲痛の色を浮かべています。エミリアの美しい顔を曇らせるわけにはいきません。しっかりしたところを見せないと。

 エミリアに向かって頷き決意を伝えます。決意で固く握りしめた手で、重厚な扉を二回ノックをしました。

 部屋の中から入室を許可する低いけれど張りのある男性の声が聞こえました。緊張でノブを握る手が震えます。固い決意は早くも崩壊の兆しを見せていました。

「……失礼します。お呼びと伺いました」

 部屋に入りすぐ足を止め、本当に口から出たのか、心で叫んだのか自分でも判断しかねるほどの小声で挨拶をします。そして橋の欄干を歩くような気持ちで歩を進めました。脚が震えているのが自分でわかります。

 部屋はわたしたちの私室と同様に縦に長く、室内には中央に平机、奥の壁に書棚がひとつあるだけの質素極まりないものです。その机の上には意味ありげに封筒がひとつ置かれています。

 歩きすがら呼び出された理由を考えます。マスターがわたしに大切な話とは? 任務に関わる通達ならエミリア経由でされるはずです。つまりエミリアにも伝えられない内容、わたしの個人的なものでしょう。それはよほど重大で重要で恐らく悪い話なのでしょう。思い当たるのは塔に来て二ヶ月も経過してるのに一向に成長の兆しを見せないことです。でも、わたしは望んで塔に来たわけでも空を飛んでいるわけでもありません。ましてや魔女であることすら自らの意志ではないのです。そうした理由でお叱りを受けるのは納得はできません。でも大人から理不尽に怒られるのは今に始まったことではないですが。

 一刻も早くこの状況から解放されることを祈るばかりです。

 伏した瞳に机の脚が映ります。わたしは足を止め、顔を上げました。本来ならここでスカートをわずかに持ち上げて膝を折り、腰を少し落として恭しく頭を垂れるのが淑女としての嗜みです。しかしわたしは優雅な礼とは反対に、踵を合わせ、背筋を伸ばして顎をやや引いて正面を見据えました。そうして、しっかりと先まで延ばした指を揃えた手を額のやや右寄りに、手のひらを表にして当てました。

 魔女になる前の生活になかった新たな様式が短い間にわたしの身体へ染み込んでいるのでした。

 マスターは静かに頷きます。

「楽にし給え」

 椅子に腰掛けていた軍服の男性が立ち上がります。天井に頭が届くのではないかと錯覚するほど背が高く、偉丈夫な体からは、場に居るだけで他人を氣圧する雰囲気を発しています。引き締まった顔は髭が綺麗に剃られ、口は真一文字に閉じられていました。

 マスターの鈍い光を宿す硬質な瞳は微動だにしません。空気が緊張と恐怖を伴って身体に重くのしかかります。

「ここの生活には慣れたか?」

 ようやく口を開くと、先ほどよりいくぶんか柔らかい声色でした。言葉が喉に詰まり、こくりと首を縦にします。

「顔色が優れないな。体調が悪いのか」

「帰って……いえ、帰投した直後なので……」

 顔色が良くないのは疲れもありますが、最たる要因はマスターです。もちろんそんことは口が裂けても言えません。

「訓練はどうだ。上達はしたか」

「今日は高所飛行の訓練を……いえ、空中停止の訓練をしました」

 わたしの報告を聞いてもマスターは顔色一つ変えません。

 空気が痛いです。叱られても怒られてもいいから早くこの状況から開放して欲しい。

 マスターはおもむろに机に置いてあった封筒を取り上げます。中から一枚の厚い用紙を取り出して、わたしに差し出しました。

「ソフィー、本日付けで巡査への採用が決まった。これは警視総監からの任命書だ」

「?」

 ふいに耳に飛び込んだ言葉が理解できませんでした。ぱちぱちとまばたきをして用紙からマスターへ視線を移しました。

 巡査? 警視総監? 任命? 聞き慣れない単語に思考が奪われます。

 内容を確かめようと両手を差し出して受け取った紙にはエドワード・ブラッドフォードという名で、わたしを巡査に任命する旨が記されていました。

 マスターは状況に取り残されているわたしに説明を加えることもせず、話を進めました。

「これは警察官勤務規定だ。しっかり目を通しておけ。詳細については明日にでも巡査部長から説明を受けよ。略式だがこれで任命式を終える。下がってよし」

 マスターの敬礼の動作につられて、放心していたわたしは慌てて姿勢を正すと、挙手敬礼をしました。

「ソフィー」

 ようやく部屋から出られると走るように扉の前についた時、マスターに呼び止められました。

 振り返るといつ移動したのかマスターは目の前にいました。

「……これは?」

 差し出されたマスターの大きな手に、もみくちゃにされた布切れが乗っていました。

「使うといい」

「は……はい……」

 マスターは無言で頷きます。

「あ、あの……ありがとうございます」

 受け取った物を手に、廊下に出て背中で扉を閉めます。体から力が抜けて、よろけた表紙に扉にもたれ掛かりました。頭のなかは未だ混乱したままです。整理しようとしても頭が働きません。

 ただ、何かが始まったのではなく、何かが終わったとのだと感じました。


「ソフィー?」

 廊下で待っていたエミリアは、もう不安を隠そうとはしていませんでした。握り合わせた手を祈るように胸元に置き、いつもは優しい笑みを湛える頬も、美しい瞳にも悲痛な色が浮かんでいます。

 もしかしたらエミリアはこの呼び出しの内容を聞かされていたのかもしれません。それとも聡い彼女のことですから、気づいていたとしても不思議ではありません。

「エミリアさん……わたし、いま、正式に採用されました……」

 瞬時にエミリアの顔が安堵に包まれました。わたしを抱き寄せて、髪にキスをしてくれます。エミリアの豊かな胸に顔を埋めていると、心臓の鼓動がよく伝わります。その音を聞いていると、不安も寂しさも和らぐのです。

「よかったわ。早くみんなに知らせないとね」

 わたしを抱擁から解放すると先に立って歩きだしたエミリアの背中を追いながら、マスターから渡された任命書を改めて眺めました。


 ロンドン警視庁特別部警護課、通称レイヴン。ロンドン塔を根城にしている魔女のあだ名です。ロンドン塔に住み着く大烏にちなんで名付けられたとも、任務時に身につけるあの装束が烏に似ているからとも言われています。

 わたし達が特別部警護課に属していることは世間には公表されておらず、表向きは水上警察を補佐し、英国の空を外敵の侵略から守ることを任務にする航空警察とされていました。

 50年前であれば誰も一笑に伏したでしょう。しかし自らがそれを求めている現実は、他国に先んじられたらという不安を増長させます。

 さらに恐怖の姿――飛行船がビック・ベンを破壊する――を描いたダグラス・フォーセットの著書が与えた衝撃は、王室や軍、政府要人に飛行機械の実用性はもはや荒唐無稽な空想ではなく、近い未来に現実的に起こりうる災厄と受け止めさせるだけの影響力がありました。

 なにかしらの方法でこの脅威を排除せねばなりません。

 同じ気球や飛行船ではとても太刀打ちできません。権力者が求めたのはそうした気を起こすことが馬鹿馬鹿しくなるほどの圧倒的に強大な力なのです。

 その答えがわたしたち魔女であり、レイヴンでした。

 鈍重で速度も遅く離陸に時間も手間もかかる飛行船に比べ、鳥を凌駕する高い運動能力、蒸気機関車をも凌ぐ飛行速度を有し、しかも人間と意思を交わすことができることで刻々と変化する状況に対して判断ができる魔女はまさに相応しい存在でした。

 そしてまるでこうなることを予測していたと言わんばかりに議会の予算通過、レイヴンの組織化、ロンドン塔の改修が目が眩む速さで行われたのです。なによりも魔女を魔女たらしめる箒の配備は組織の編成と同時に行われました。事前に準備していたと言わんばかりです。同じ時期に創設されたドイツ陸軍の魔女部隊の存在も大きく影響したいに違いありません。

 かくしてわたしたちは大英帝国の垣根となるべく、魔女として空を舞うのでした。

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