ACT.24 狩は始まり
逃げろ逃げろ。
混乱した人間の頭に正しい情報なんて入らない。
×××××
「さて、始まったか……私の役目はここまでか?」
女が男に振り向いた。
男は黙したまま、一度だけ首を縦に動かして、奥の見えぬ深淵の瞳で女を射る。
「何だ? 言いたいことがあるのなら、今の内に言っておけ」
「奇跡的に次があり、会うとしたらおそらく……全てが終わった後だ」
女はそれだけ言うと、視線を戻し、その先にあるはずの騒乱を見詰めた。
何を言うかは分からないが、聞いてからでも遅くは無い。女は、全てが終わるまで舞台から降りている気で発言していた。
「お前を“そこ”から引き摺り下ろすのは、ヴェルだ。覚えておけ、お前は傍観者であり続けることは不可能だ、観念しろ」
最後の言葉は、どこか子供じみていて、冷めた目で見つめた女は、男の瞳に鋭い光が宿っていることを確認して、ふ、と短く苦笑すると、「覚えておく」そう言ってその場から去っていった。
残された男は、懐から携帯電話を出すとメールを打ち始めた。
×××××
命が、転がっている。
今にも消えそうな命だ。
その弱々しい呼吸は、小動物の呼吸にすら似ていた。
自らの血に塗れた体は、ここが平和ではない、少し昔に国民たちの見た“囲い”の外の様子を、戦時中の様子を、知りもしないのに実感させられた気分になる。
「無惨な……」
灰鴉が珍しく口を開き、細々と命を繋げる霊長類を見下ろした。彼は決してそちらには近づかない。死を予測した烏のようだ。
「止血……しないと」
致命傷とされるのは背中。薄く切り開いた傷に手を突っ込んで、無理矢理に引き裂いたかのような傷だった。
目を背けようにも、誠の踏み入れた場所からは、同じような――しかしその違いは明らかな――ものばかりが見える。
半ば途方にくれていたが、誠は卒然自分の服を裂こうと、力任せに引っ張り始めた。
死者への冒涜はしたくもないし、する気も無い。
簡単に裂けない服に苛立ちよりも涙がこみ上げてくる。誰か助けて。
「い……の…ありがど…う゛」
血塗れの女は微かに笑う。
どうして、何故。理不尽な現実ばかりを責めながら、誠は服に歯を立てた。埃や血で汚れた服は、吐き気がすることに気付いた。
空いた片手で抱き起こせば、それは人の体重が感じられて、しがみつき続ける命を感じた。
「病院に行こう」
「無理……事件」
若干ためらいがちな灰鴉の言葉に、誠は埃や血で汚れた顔で、まだ大丈夫と言ってみせた。
「苺飴さんが、います」
×××××
ちょっと、待て。
呆然と立ち尽くして呟く。
人が人を……人がツバサのある人を引きずり倒し、殴り、蹴り――。何人かが抵抗する気力も無くなったのか引きずられていく。
死んではいない。殺されていない。それだけが救いのようにも思えた。
一体、何があったのか。ふと視線を逃がそうとしたら、タイミング悪く、残っていた青痣だらけのツバサをもつ人と目が合った。
「たすっ、げっ……! 助けてぇっ!!」
こういうときに思い出すのは、やっぱり日常で見るドラマやなんかのことで、みっともないといつもは思っていたけれど、実際に直面してみれば怒りが湧いた。
男の人に暴行していた人々が揃って私を見た。興奮に任せた、危険な目つき。
あんた、口出しすんの? そんな顔をして私に問いかけないで欲しい。
「何、してるんですか?」
一応、聞いてみた。男の人の腫れたまぶたの下にある目が、絶望に染まった。お前馬鹿だろとか言外に言われた気がして切なくなった。
暴行を加える大人のうち一人が、苛々しながら子供に紙の切れ端を私、その子供まで苛々しながら私に紙のきれはしを抛って暴行を再開した。
男の人は背中にある薄汚れたツバサをかばい続けながら、目の端から透明な雫をこぼしている。
「……いい加減に、しなよ」
記事に目を通した。普段の速読術が役に立ったのだ。でも、嬉しくは感じられなかった。
いい加減にしろよ、ふざけてんのかっ?!
男の人が腹を蹴られて吐いた。中学生くらいのガキがそれをはやし立てた。
頭に上った血が巡ることをせずに沸騰していきそうだ。
暴力は犯罪になる。でも、そう、私には大義名分ってやつがある。
“犯罪者”から“被害者”を助けるという“名目上の暴力の理由”が輝いている。
誰かが間違っていると私を怒れば止まったかもしれない。なんて、今さらだし、間違っているなんて分からないはずが無いっ――!!
「いい加減にしやがれっ!!」
男の人を囲っているのは10人ぐらい。人の間を縫って男の人をかばう。
邪魔だ、とか、消えろ、だとか。他にも色んな罵詈雑言を聞いた気がする。
ただ、そのときの私に宿っていたのは怒りと憎しみという、二文字で表せる単純で複雑で暴力的な感情だけだったから、よく覚えてはいない。
私すらも蹴ろうとした大人を、足払いをかけて転ばせた。
がら空き。
転ぶ様は不様。人がいたので頭が地面と結婚するなんて事態は避けられたらしい。ひっくり返った男の腹に踵を落とした。
倒れたままのツバサをもつ男の人を背負う。
「大丈夫?」
小声で聞けば微かな頷きが、背中でくすぐったいと思わせた。
鈍い痛み、視界が大きくぶれた。誰かに殴打された。
すぐさま視界を取り戻す優秀な人間の目が見たのは、得意げにファイティングポーズを取る男。苛立ちをそのまま力に変えて得意げな男の面を張っ倒した。
怯む男に頭突きをして、股間をフルキック。普通はやっちゃいけないのだけど気にしない。でも、あれって男でも女でもかなり痛い。
時計の秒針が半周するかしないかの間の出来事に、口を大きく開けた犯罪者たちは標的を私に絞った。確かこういうときに三十六計逃げるにしかずって言うんだっけ――?
「飛んで!!」
今度は回りに聞こえるように。
瞬間よりも速い刹那の逡巡が走る一般人を無視して私たちは飛んだ。
一般人の手には届かない空へ――。
「ど、どこへ……」
男の人が安全圏へ入ってから右往左往する。目が廻りそう。
私は誠や灰鴉たちと別れた場所に一旦行こうと考え、その旨を男に伝えた。「知り合いがいるかもしれないから」と。
×××××
「うっそぉ」
ここまで酷い襲撃を受けたのだろうか。黒深は間抜けな声を出していたが、その横では先ほど助けた男も唖然としてビルを見上げていた。
黒深の予想以上に破壊されたビルは、未だに小さな火が消されまいとゆらゆらと動いている。明らかにビルは機能していない。
「こ、ここってRETのビル……ですよ、ね?」
口の中が痛むようで、男の言葉は少し途切れがちだ。
返事を返すことも忘れて、黒深は最悪の想像をしてしまい、脇目も降らずに駆け出した。
「ちょっと、待ってくださいよ!!」
こんなところに取り残さないでくださいと男は黒深の背中を追いかけた。
嘘だ、嘘だ、嘘だっ!! 心のうちで暴れまわる不安と焦燥が身を焦がしそうだった。それに
加速させられ、黒深は最後に誠たちと会話していた場所へと駆け上がろうとした。しかし、階段が平気だと、誰が思うのだろうか。破壊され、今にも崩れそうだった。
「誠、灰鴉、慎也、鈴……誰もいないのかっ!?」
声を張り上げ、崩れかけた階段を上る。二階、三階と。
そこで足場が崩れた。
「うわっ」
崩壊を免れた階段だったものに縋った。下に落ちていくコンクリートが、重く、鈍い音を立てて崩れていくのだろうと思わせた。
目の前で雫が落ちた。それが、自分のものだと気付くのに、かなりの時間が掛かった。欠片で傷付けたのか、小さくて丸い赤い球が崩れて赤い筋を手に残していた。
「大丈夫ですか?!」
「あ、ごめ……」
追いついてきた男の人が私を支えて、崩れそうも無い踊り場に下ろした。
「ありがとう」
「いえ……あ! さっきはどうもありがとう。子供に助けられるとは、思って無かったよ、あ、悪い意味じゃないからね?」
慌てて言い直したり、少し照れるところが、島で別れた父さんにちょっとだけ似ているかもと思うと、微笑が漏れた。
男の人は、栗田松夫と名乗った。なんだか出会いの多いここ数日。
「私は綺神。綺神彩深です」
「変わった名前、だね? どんな字を当てるの?」
「綺麗の綺に、神様の神。彩りの彩に、深いっていう字を当てます」
「ふむ」
頭の中で私の言った漢字を当てはめているのか、数秒ほどして
「綺麗の“き”は奇妙、じゃない方の?」
「そうです」
そもそも奇妙の奇はあや、と読むのか知らない。
「うーん、変わっているというか、珍しい、ね?」
「よく言われます」
「そういえば、君、ここに誰か知り合いがいるの?」
「友達が……います」
そうだ。
「誠!!」
呼ぶ、でも返事は返ってこない。静かで、寂しさすら覚える。
身の内側から焼きつけてくる焦りが、腹への痛みに変わった。締め付けるような痛み、ストレスかもしれない。
「もし……その子がいるとしたら、何階にいるの?」
「6階の、カフェテリア」
「飛んでいったら速いと思うよ」
ゆっくりと、諭すように言われても、約束を破りたくない私は、ツバサを広げて、傷口を示した。顔色が変わり、協力者の顔になって、私の体を抱えた。
薄く血の色の見える羽が痛々しく、何度か謝ろうとしたけど、結局何も言い出せなかった。
「着いたよ」
「ありがとうございます」
早々と礼をすると6階周辺を歩き回った。会議室はプラスチック製の机やら椅子やらが溶けて不快な臭いを発していた。カフェテリアの方を覗いてみたが、やっぱりと言うべきか、元は食べ物の載せられていたはずの皿が焦げて其処にあった。
会議室から逃げて、何階まで降りたのか、記憶に無いがここから一階ずつ降りていけばおのずと分かるだろう。
「酷いね」
破壊された場所を歩くのは、どうにも陰鬱な気分になる。誰もいない、何か得体の知れないものがいるような気分になる、とにかくプラスに向かうような要素が無いせいかもしれない。
「異常だ」
それしか言えない。
「うん、異常だ。ところで、僕はこれからどうしたらいいかな?」
何を今さら、というかいきなりなんだって言うんだ。
「このままどこかに隠れ続けることは無理だろうし、だからといって飛び続けるのも自分の命が危険で、どうしようもない」
「まあ、確かに」
曖昧な返事を返して一つ下の階へ降りる。石橋を杖で叩きながら進むように、慎重につま先でこれから踏む階段を一段ずつ調べながら進むというのは、どうもRPGのダンジョンの中にいるような感覚だ。
一つ降りた階での収穫は無く、代わりに明らかに人の手で命を絶たれた魂の抜けた塊がいくつか見られた。いつからか感覚が狂ったみたいで、あまり動じなかった。
「何、してるの?」
始めに見つけた死体を通り過ぎた時だった。自分の足音だけしか聞こえないことで足を止めた。栗田さんが、手を合わせていた。弔いのつもりなのだろうか――?
「何って、手を合わせているだけだよ」
いや、それは分かってるから。
「何で?」
「普通じゃないかな? 死者の前で手を合わせるのって、ほら、墓前でだって手を合わせるよね」
「でも」
「まだ彼らは発見されていないから、誰も弔わないだろう? だから、こうしているだけだよ」
死体の前で手を合わせたままの栗田さんは一度目を閉じて黙祷した。
いつもなら、誰もが忙しく働く場所に、喧騒はなくなっていた。これは、誰なのか。
頭を掠めていった疑問に、私は未だ黙祷する男の横を通り抜けて赤く染められたカードに目をつけた。
黒い線が描かれていた。カードの裏側だ。
黙祷を終えた栗田さんの目は、きっと私のしている行為を咎めているのだろうけど、私は気にすることもなくプラスチックのカードを裏返した。
救うのか、救えるのか、どうするのか、考えるのは自分であって他人ではない――。