ACT.23 何かが。
壊れた歯車はからからと廻る。
正常な歯車すらも巻き込んで。
それでもなお動く、壊れた歯車が壊れたならば――?
×××××
恨んでいるか、お前は。
謝罪などはしない、不可抗力だったのだから。だが、護る。
できるだけ傷付けずに、お前の元へ届けるために尽力しよう――。
×××
「どうするよ?」
慎也が、誰に問いかけるでもなく聞いた。
喧騒から切り離された場所で、たった数人が輪になってどうにかなる話ではない。
割れたガラスの向こうから、うるさいくらいにクラクションが鳴り響いていた。
「……逃走…ツバサ、危険」
下が騒がしくなっている。ただのビルだったはずのここは、今やツバサを持たない人間達の格好の的。灰鴉は誠を示した。
「確かに、そうだけど……私だけ逃げるのは嫌だよ」
「えー!? でもぉ、狙われるのってツバサのある人だけじゃ」
鈴の頭に拳骨が飛んだ。
「デリカシーのねえ奴だなあ、おい。いい加減にしろよ、どちらにしろここは危険なんだよ、分かってんのか?!」
騒がしい足音が幾つも近づいてきている。鈴は黙り、一人で駆け出した。
「あ、おい!!」
「いいわよぅっ! 芙楼に助けてもらうんだから!! 芙楼ならあたしを助け……」
突然の炸裂音。
「きゃあぁああっ?!」
絶叫。
戦慄が駆け巡る。
軽々と吹き飛んでいく体。燃える周囲。
「伏せろ!!」
慎也が、呆然と鈴が吹き飛んだ方を見続けていた誠を伏せさせた。誠は、素早く黒いポーチを手元に寄せていた。
慎也よりも早くに伏せた灰鴉は、即座に二人の方へと近付く。
「……飛ぶ…降りる」
『え?』
誠と慎也の声が重なり、疑問を投げかけたが、灰鴉はすでに、二人を両脇に抱えて割れた窓から飛び出していた。
絶叫マシンで上げるような声を上げながら落下。
灰鴉の背中から、服を突き破って灰色のツバサが外へ晒される。
羽で視界が一杯に埋め尽くされる。
「喋るな……舌を…噛む」
力強く羽ばたくツバサは、誠の片翼だけで見ても明らかに大きく、倍以上の大きさはあった。
ツバサの大きさは何処に影響するのだろうか、誠は目を回しながら、動きがある程度安定するまで大人しくしていた。隣では、無様な叫び声が聞こえた。
×××
ぜー、はー、と途切れ途切れの呼吸音が、澱んだ空気の中で木霊した。
灰鴉が誠と慎也を両脇に抱えて降り立ったのは、ツバサをなくした人々の“埋葬地”だった。そこは、数年ほど前に打ち捨てられた土地で、人の気配などは無かった。
すでに大きく掘られた穴をはみだしてまで、蝿の集る死体やら、途切れそうな息を吐き出す人間たちが堆く積み上げられていた。
あの施設での経験からか、誠の頭は麻痺しているのか、哀れとは思えど吐き気などは無かった。灰鴉は、眉をひそめてはいたが、一度何かを振り切るように目を閉じるとここなら――当分は――大丈夫であることを告げて以来、一言も喋ってはいない。
慎也は、その光景を見てすぐに誠と灰鴉の目に付かないところへと駆けていった。口をおさえるのも、忘れてはいなかった。
「あ……ぁー…」
微かな声。無様に潰れている声。
灰鴉は視線をやりはしても、そちらへと近づくことは無かった。
助けを求める声に、誠は声の聞こえた方を真っ直ぐに向いて、跳ね上がる心臓と、乱れる呼吸を整えた。
「誰……?」
「あー……うぅ…」
声を出そうとしている。
しかし、その声はあまりにもざらつき、苛立ちを覚えさせるほどに聞き取りにくかった。
「手を、あげられます……か?」
今度は返事が無かった。動こうとしているのか、それとも疲れきったのか。
「あそこだ」
灰鴉が口を開きかけたところで、未だに顔を青くしている慎也が、蝿の集っていない場所を示して、また口元を押さえて穴から遠ざかった。
「声を出せれますか」
腐敗臭が酷い。
手で鼻をと口をおさえて、耳を澄ませば、確かに聞こえる声に、誠は下を向く。
「ご、こおー……い…だい」
何を話したいのか分からない。だが、「ここ……痛い」そう言っているように聞こえなくもない。
誠は慌てて、人と人の間から漏れる微かな声を頼りに、目をそむけながらも動かない人々を左右へと転がした。
ずるりと剥ける皮膚。半ば崩れかけた顔。
腐食が早い。
「あー、あ……うぅ…」
声が少しずつだが、大きく聞こえる。
何度も喉までせり上がってくる吐き気を抑え、誠は声の主を見つけ出すことに成功した。
それは、斑に内出血の痕を見せる、全裸の女性だった。
×××××
「お久しぶり、かしらぁ?」
着地に失敗して、蹲る芙楼の頭上から、声が降ってくる。
霧雨のようにじっとりと体に染み込み、体力のみと言わず、気力すらも奪っていきそうな、変に力を持った声。
「祐樹が捕まったそうだな?」
「あら、どこから聞いたのかしらぁ」
いたって、平然である。別段驚かなかった杏は、芙楼の情報源だと思われる携帯を見つけていた。
「耳が早いのねぇ?」
「一応、な……何を言いたいか…わか」
「分かってるわよぉ、翼くんのことでしょう?」
違う、とも、当たっている、ともとれる複雑な表情で、芙楼は取り出していた携帯電話を開閉させた。
「ふふっ、ハズレ……かしらぁ?」
「遠からず、近からず」
それでも芙楼が渋い顔をするので、杏は困った親のような顔をする。子供の心を理解できなくなってきた親の、戸惑いの表情にも似ていた。
「お前の息子はどうだってい……」
「失礼ねぇっ!?」
突然の絶叫。
耳に響く、子供の頃によく悪戯した、黒板を引っ掻いた時の音のように不快になる、金切り声。
「私に息子なんていないわ!! それに、もしそうだったとしても、あんな情けない子はいらないわ」
言葉が終わるにつれて、冷静さを取り戻していく杏に、芙楼は「……そうか」とだけしか言葉を返せなかった。
返事の返し方に困ったのだ。
他人であれ、その言い方は酷いだろう。芙楼は、どこかにいるはずである翼に同情した。
冷静になった杏は、熱くなってしまった自分を恥じて、気を取り直すようにヒールを鳴らした。
「まあ、いいわぁ……彼のこと、聞きたいかしらぁ?」
のんびりとした、しかし艶めいた声が芙楼の耳にまとわりついた。
「ああ、聞きたいな」
「彼は死んだわ」
「へえ……死んだのか」
あら、冷たいのね? 杏は芙楼の反応が大きく変わるのだと期待していたらしく、軽く落胆した。
芙楼は、ほんの数日を過ごした男を思い出し、血に塗れてその姿を掻き消してしまう残酷な想像を打ち消した。
「さて、私からは1つ、あなたも1つ、どうかしら?」
情報の等価交換を求める杏は沈黙した。相手の反応を待っている。
携帯を開いて、閉じる。
その作業を繰り返し、そうしてやっと芙楼は携帯を開いた。
互いに相当重要なポストについている、下手な情報はすでに知られている。
「あんたの娘のことで、何か知りたいことは?」
「あらぁ!」
意外だったらしく、大げさに口を開け、その口を手で隠した。
笑い出す杏の口元は、芙楼には見えなかったが、笑ってはいなかった。
表情は驚きを演じ、隠した口は、今にも舌打ちを漏らしそうだ。
「そうねぇ……興味ないわ」
「仕方ないな、じゃあどんなことが聞きたいんだ?」
身内ならば興味も湧くかという芙楼の淡い希望は、目の前で砕かれた。
「そう聞かれると……困るわぁ」
口元を隠していた手を頬に当て、はにかむような笑顔。よくある女の照れ隠し。
時間を惜しむことの無い芙楼は、閉ざされた施設の天井を見上げ、根気よく待つことにした。
×××××
数分後、母さんによる父さんへの一方的虐待が終わった頃、周囲でフリーズしたまま動かなかった人々は、真っ青を通り越して漂白されてそこにいた。
幻覚の煙を上げて倒れる父さんに、声をかけたくはなかった。
「彩深」
名前を呼ばれた。母さんだった。
「何」
平手打ちの音。
痛む頬。殴られた。
八つ当たりだ。
「勝手に外すなと、いつも言っていたでしょう?!」
声は静かではあったが、そこに隠れる怒りを抑えきれていない。
殺気に近い怒りの気配。
ここに虚有も、麻奈もいないのか。いたのなら、きっと何か言ってくれたはずだと思う。それよりも、そっちが勝手にやったことなのに、人のせいにするのは筋違いだと思う。
「ヒスはやめてよ。ところで、芙楼は?」
気がかりその1について、母さんは海水をそのまま飲んでしまったような顔をした。
「いないわ」
それだけ。でも、何かがあったことは分かった。
雰囲気からしておかしい。
癒羽のところで見かけた面々は、施設のあったはずの方向をそわそわと見ては、怯えたように視線を外し、時間が経てば今度は癒羽や苺飴と過ごしたあの山の方へと視線を投げて、数秒ほど経てば重苦しい息を吐き出し、エンドレス。
「何か、あった?」
棘々しい気配のときの母さんに声をかければ、その不機嫌さに寂しさを覚えながらも、声をかけられなくなるけど、今日だけは違う、鈴のところにいる誠や灰鴉、慎也……いなくなった翼にも関係しているような直感的な部分がうずいた。
「黙りなさい」
「えー、嫌」
たまには子供らしく、茶化すように言えば、見下す綺鬼の鋭い視線。
「黙りなさい!」
沈黙。乾いた平手打ちの音。
漂白された人々は、今度は青色に染められたらしい。
そこへ、父さんが慌てて間に入った。
「綺さん、いくらなんでもそれは……」
「黙りなさい」
一瞥。
しょぼくれる父。駄目な大人の見本に見えなくもない。
「綺鬼さんのバーカ。勝手に行動してやるぅっ!」
すねたときの決め言葉。
いい大人がやっちゃ駄目だよなー、なんて。まだ子供だけど。
うん、都合のいい言い訳。いい子供が、と今度は言われそうだ。
くるりと背を向けて、浜辺までダッシュ。飛びはしないし、飛んじゃいけない。
「待ちなさい!!」
「彩深! 駄目だ!!」
何が駄目なのか、よく分からないけれど、足から海水に突っ込んでいって、飛び込み台からスタートするように、強く踏み込む。足に誰かの暖かい手が触れた気がするけれど、引きずられなかったから、きっと綺鬼ではない。
ばしゃん――。
腹うちはしなかった。こういうときは、頭を上に向けちゃいけないところがポイント。
息苦しくなりながら沈む。
背泳ぎの格好になれば、歪んだ空が見えた。
まだ昼下がりに入るくらい。もうすぐ夕方になる。そうすれば、進む道は分からない。
「皆が……いればなぁ…」
こぽ、こぽ、こぽ――泡が徐々に少なくなる。
声を掛け合って陸を目指した数日前を思い出せば、どうしてこうなったのか疑問に思わずにはいられない。
「あれ……」
泡が出なくなった。落下も止まった。
視界は相変わらずゴーグルなしで潜ったプールの様だ。
動かせば進む。陸地を目指して泳ぐ。
鱗が――肌が粟立つように――逆立った。何度目かの嫌な予感。
父さんの、駄目だと言った意味を、この後現実として実感するまでには、まだ時間があった。
狩りは、獲物が逃げ回るからこそ、のたうち、悶えるからこそ愉しいという人もいる――