ACT.1 変化の兆
朝が来ていつもの変わらない日常が始まる――。 それが、 幸せだったことを知らずに。
「翼ー起きなさーい!!」
「ん……」
母親の声に起こされて翼は体を起こそうとしたが体がとてもだるく、 動かすのさえ億劫になり、 そのまま転がっていようと布団に潜り込み丸くなった。
寝かせておいて欲しい翼の意思をよそに、 母親が翼を呼ぶ声が少しずつ大きく、 近くなる。
翼の部屋へと母親の足音が大きくなってくる。 翼の願いもむなしく、 時間が経たないうちに部屋の扉が開かれた。
「翼! 起きなさいっ!!」
「だるい」
「あんたがだるいのはいつものことでしょう! 早く起きなさい」
「本当にだるいんだって!」
声が掠れていると自分でも思った翼は、 調子の悪そうな顔を布団から覗かせる。
うなじのあたりまで伸ばされた黒髪が汗で皮膚に張り付き、 汗で濡れていない部分は手入れをしていない証拠とばかりに跳ねている。
上気した頬、 どこか潤んでいる瞳。 母親はやっと翼の言うことが本当なのだとわかり翼の額に手をあてる。
翼の額は39度を超えているのではないかと言うほど熱かった。 現実を知り、 母親は血相を変えて急いで氷枕と解熱剤を取りに部屋を出た。
その行動の速さは母親として上等なものだろう、
「翼、 飲める?」
「多分」
母親に抱き起こされながらどうにか解熱剤を飲むと翼はまた布団に潜り込んで目を閉じた。
この状態では学校に行けそうもないな、 翼が考えているとタイミングを見計らったかのように家のチャイムがなった。
聞こえてきた声は翼に覚えのある女の声。
「おはようございまーす。」
翼の家に来たのは黒深だった。
迎えに来た黒深に悪いが、 翼がこの状態では学校に行けるはずもないと母親は玄関へと向かい欠席すると伝えようとした。
玄関に立った翼の母親は、 欠席することを告げようと開いた口が、 驚きに変わるのをぼんやりとしてきた意識で翼は聞いた。
かなり大きな声で響いた声で翼は、 黒深が自分と同じ状態なのだとわかる。
黒深はそれでも学校に行こうとしているため、 翼の母親は休むことをすすめているようだ。
意識が先ほどよりははっきりしてきた翼は、 黒深の声を聞くために耳を澄ます。
「大丈夫、 大丈夫ですよ、 それにうちそんなに調子悪いわけ、 じゃ……」
ふらついた体でくず折れかける体を必死に支える黒深に、 翼の母親が目を見開く。
なんつー馬鹿だ。 黒深の声を聞いた翼は、 確かに自分はだるいとか面倒くさいで簡単に学校を休むことだってある、 それをいちいち面倒かけて迎えに来ている、 何故? 放っといてくれればいいじゃないか――。
翼は栓もないことを、 と思いながらも笑い、 またぼんやりとしだした頭で外のことなど気にせず、 眠ることにした。
調子が悪いというのに玄関に立つ翼の母親を見上げるのは黒深。
「黒深ちゃん、 大丈夫?」
顔を真っ赤にして汗までかいている黒深に心配そうな顔を向ける翼の母親に、 それでも笑顔で黒深は言った。
「はいー、 大丈夫です。 えっと、 天上は欠席ですか?」
「え、 ええ、 今欠席届を書くから待っててね」
黒深の気丈な態度に負けて、 翼の母親が奥へと消えるのを見ながら黒深は自分の体の異変について考えた。
――考えられる理由は一つ、 昨日ばら撒かれた粉だ、 それ以外に考えられることもない、 そう決め付けている黒深は他にもおかしいところを幾つか脳内で指摘していく、 一つはおかしな放送の仕方、 何故校長自らが放送したのか、 まるでそれを知っていたかのようだ、 それに何故暴動をおこしたのか、 毒性がないことはどこから保障されたのか、 首謀者が誰なのかすらニュースに流れていない。
もう一つは片付けの早さだ、 あれだけの量の粉がばら撒かれたと言うのにあの片付けの速さはなんだったんだろうと考えるとこれは元から起こるとされていたことなのではないか、 そう考えてしまう――。
しかし確証のない思考を打ち切るように、 翼の母親が欠席届を持ってきて、 黒深に渡す。
「じゃあお願いするわね」
「はいーそれでは」
翼の家を後にした黒深は停めていた自転車を動かして、 危なっかしい運転ではあったが学校へと着くことができた。
自転車置き場に自転車を置いて靴箱へと移動する黒深は、 その最中に後ろから誰かが背中を押されるのを感じた。
急なことではあったが黒深は、 いつもならすぐに体勢を立て直せるはずの軽い力にも対応できず転んだ。
受身を取ることに成功したが浅い痛みを感じた黒深が、 ワイシャツから血がにじむのを見た。
知らず、 眉をひそめてしまうが誰もそれを見ることはしない。
「誰だ」
地を這うような声で後ろを振り向いた黒深、 だが誰もいない、 そのかわりに子供張りの低次元な悪口が聞こえてくる。
いつものことだ、 諦めよう――。 仕方なく立ち上がろうとするが体が重い、 特に背中が火で焼かれているかのように熱いことに黒深は舌打ちをした。
「ちくしょう」
いつもならこんなはずじゃないのに、 黒深は緩慢な動作で立ち上がる。
ふらりと傾ぎかける体を無理やりにでも立たせて、 歩く。
その目はぼやけた視界で前を見、 進む姿はどこか戦場を進む武士のようであった。
「大丈夫、 大丈夫だから」
それはまるで心配する誰かに言うものだったが今、 この場にそれを言うべき人はいない、 黒深は少しずつ体を引きずるように靴箱へと持って行き、 靴を履き替える。
黒深の通う学校は3つ棟があり、 その真ん中にある2棟の最上階たる3階へと登っていく。
よくみれば皆元気そうで休んでいる人の方が珍しいようだった。
やっとの思いで辿り着いた教室へ入った瞬間にめまいがしてがくりと膝をつく、 休んだ方がよかったかも――。
黒深の頭に後悔という文字が現れたが来た限りやるべきことはやらないと、 自分自身を勇気付けながら黒深は席へと移動する。
今、 教室の壁にかかっている時計は8時25分をさしている。 朝の読書の時間だ、 黒深は机にいつも入れている本を開いて読み始める。
本の題名は「大空へと憧れるのは何故か」、 図書室でなんとなく見かけたその本には不思議な魅力があり、 それををつい手にとって借りていたのだ。
本の視点は色々なところから、 それが研究者や心理学者、 主婦やサラリーマン、 果てには中学生や小学生などからの見解が入っている。
それぞれの意見が自由で、 どんな風に憧れるのかを知るのが黒深は楽しかった。 しかし今の黒深には書いてある文字すら歪んでよく見えなかった。
そして読書の時間はあっという間にすぎ、 担任の真由美が教室へと入ってきた。
昨日以上に厳しい顔をした真由美は教卓のところまで来て、 皆の方へと向いた。
「皆さん、 お知らせがあります。 昨日のことについてのことなのでしっかりと聞いてください」
静かだ、 黒深はそう感じた。 いつもならふざける男子も今日はおとなしい、 いつも他の席の人と話している女子も黙って真由美の方へとしっかりと顔を向けて耳を傾けようとしている。
尾坂のいる席は、 空いていた。
「粉を吸い込んで高熱を出した人はすぐにでも病院で治療を受けてください、 中には無理をして亡くなった方もいます。 至急病院で治療を受けるように、 これで朝のホームルームを終わります。」
「じゃあ毒性がないっていう言葉は嘘ですかー?」
男子生徒がふざけて聞いたが真由美は口を閉ざした。 何かを知っているのか、 あるいは何かを知っているから話せないのか。
あれ? もしかしてうちってば結構やばい――?
どうしようか本気で考える黒深の思考に何かが引っかかる。
よく回らない頭が警鐘を鳴らしている。
「治療?」
――こんなに早くに治療法が見つかるのだろうか? いや、 きっと違うだろう、 黒深は本をよく読むせいか、 基本的に頭はあまりよくないというが雑学的なところで頭が回る、 新しい細菌やウィルスについてすぐに完璧な治療法が見つかるなんてありえないことだ――
そういうことも理解している黒深が思い当たったことは一つ、 戦争中などにある“人体実験” 恐ろしいことに思考が辿り着いたため、 黒深はかぶりをふると真由美に病院にいくため早退すると伝えて足早に学校を後にした。
元より調子の悪そうだった黒深に、 すぐ早退が許可された。
真由美の気遣う言葉をよく聞き取れず、 心配していることしかわからない黒深はバッグを持ち、 教室から退室する。
自転車の鍵をはずす、 自転車に乗る。 そしてこぐ、 いつもしている行動にいつもの3倍以上の体力が今の黒深には必要だった。
黒深は自転車を止める、 まただ、 背中が熱い、 背中がどうなっているのか正直知るのは怖かった。 しかし知らなければいけない気がした。 それでも黒深は家へと一端引き返すことにした。
病院には行ってはいけない、 そう本能が訴えるのを感じながら――。
「あれ? どうしたんだい?」
近所のおばさんが声をかける、 それに曖昧な返事を返しながら家への道を急ぐ、 その間どれだけの人が声をかけてきたのか黒深は覚えていない。
帰宅途中一度だけ、 電柱にぶつかり薄れかけた意識を強制的に目覚めさせた。
「黒深?! どうしたの?」
「あ、 母さん……」
仕事に行こうと丁度家を出たらしい母親を視界に入れた瞬間黒深は固まった。
何を言えばいいのか、 どうやったら病院に連れて行かれないかを瞬時に考える。
困った顔をする黒深に心配そうな顔。
「調子でも悪いの?」
「ちょっとね、 仕事、 いってらっさい」
「しっかりと暖かくして休むのよ?」
訝しげな顔をした母親は、 それでも仕事のために黒深の横を通り過ぎていった。
それを眺めた黒深は苦笑しながらも家のすぐそばに自転車を置き、 家の鍵を開けて中へ入っていく、 自分の部屋がある2階には戻れそうもないことを本能的に悟った。
「あつい、 あつぃ、 よ……」
溜まった息を吐き出すと制服を脱いで背中に手を伸ばす。
背中で何かがどくりと脈打つ、 これは――血管?!
「何、 これ?!」
気持ち悪い、 怖い、 嫌だ!! 黒深の心が強い拒絶をあらわすと同時に背中から何かが這い出てくるような得体の知れないものを感じた。
その瞬間、 黒深は自分自身の心臓が止まったような錯覚に陥った。
しかし目を開くことも動くことも、 もう、 できなかった――。
×××××
「翼、 お仕事休んでき……翼!?」
翼の母親――亜佐美は翼の部屋へと、 替えの氷枕を持って入ってきた。
しかし翼が布団をかきむしるようにして苦しんでいるのを見て、 氷枕を放り出して翼の側へと駆け寄る。
暴れる翼の姿は尋常ではなく、 亜佐美はこれ以上はないほどに驚いていた。
「翼! 翼!!」
「痛い、 痛い、 痛いっ!! どうしてっ、 何がっ、 あ、 ぅあぁああっ!!」
翼の体が仰け反り、 目がこれ以上は開けないのではというくらいに見開かれる。
次の瞬間、 彼の体は糸が切れた操り人形のように倒れた。
突然動かなくなった息子を抱く亜佐美は、 息子の心臓が動いていないことを知り、 絶叫した。
それは、 ただの始まりに過ぎなかったというのに、 誰が気づけたというのだろうか――?