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追想:忠兵衛と呼ばれた男

 男は、もともと口が達者な男ではなかった。

 だが、人当たりは悪くなく、頭も回った。

 東海道を往復するうちに、

「こいつに任せておけば大丈夫だ」

 そう言われるようになった。

 商いとは、結局は信用だ。

 それを分かっていた。


 妻は、よく話す女だった。

 声は小さいが、よく笑い、よく気づく。

 店の帳面より、よほど人の顔を覚えていた。

 子の話が出始めた頃は、

 まだ二人で言葉を交わしていた。

 産婆の名を出し、

 医者の言葉を伝え、

 寺で聞いた話をしてきた。

「冷えが強いそうだよ」

「巡りが悪いんだって」

 男には、よく分からなかった。

 分からないまま、

「大丈夫だ」

「気にするな」

 そう言い続けた。


 妻は、子供の話をするようになった。

 町で見かけた赤子のこと。

 隣家の出産の話。

 東海道を歩く旅人が連れていた幼子の話。

 最初は、話に付き合った。

「可愛いな」

「きっと、うちのもああなる」

 そう言葉を選び、

 妻の目を見て話した。

 だが、次第に――

 その話題は、男にとって重くなっていった。

 妻は、笑わなくなった。

 赤子の話をする時、

 声は穏やかだが、目が笑っていない。

 話し終えた後、決まって俯く。


 ある夜、

 妻がぽつりと言った。

「私が、悪いのかな」

 男は、答えられなかった。

 違う、と言えば嘘になる気がした。

 そうだ、と言う勇気もなかった。

 その沈黙が、

 二人の間に、はっきりとした線を引いた。


 一方で仕事は順調だった。

 商いに出れば、頭は冴えた。

 値切りも、駆け引きも、うまくいった。

 金が増えるのを見るのは、正直、楽しかった。

 酒の席も増えた。

 冗談を言い、笑われ、持ち上げられる。

 家では味わえない空気だった。


 ――俺は、悪くない。

 そう思うことで、

 少しずつ、言い訳が増えていった。

 家に帰ると、妻は待っていた。

 夕餉も、湯も、変わらない。

 男は、

「次の商いが忙しくてな」

「平塚で足止めを食らってな」

 そう言い続けた。

 それでも妻は何も言わない。

 それが当たり前になってからずいぶんと時間が経ってしまった。


 ある晩、男は耐えきれなくなった。

「……いつまで、そんな顔してるんだ」

 妻は、答えなかった。

 その沈黙が、

 最後の一線を踏み越えさせた。

「子ができねえのは、俺のせいか?」

 声が荒れていた。

「全部俺が悪いってことか」

 それでも、妻は何も言わない。

 男は、立ち上がった。

「誰のおかげで生活できてると思ってやがる⋯⋯。何とか言いやがれ!気に入らねえなら出てけ!!」

 言ってしまったと思った。

 しかし抑えることもできなかった。

「⋯⋯しばらく家をあける。戻るまでに考えておけ」


 妻は、何も言わなかった。

 ただ一度だけ、男の顔を見た。

 責めるでも、泣くでもない。

 そこにあったのは、諦めに近い静けさだった。

 男は、その視線に耐えきれず、顔を背けた。

 その夜、妻は何も言わずに床に就いた。

 男もまた、何も言わずに横になった。

 同じ部屋にいながら、

 二人の間には、深い溝が横たわっていた。


 翌朝、男は早くに家を出た。

 商いに出る、という名目だった。

 本当は、顔を合わせるのが怖かっただけだ。

 数日、家を空けた。

 行く先々で、商いはうまくいった。

 金は動き、人は笑い、酒は進んだ。

 夜、宿で一人になると、

 妻の顔が浮かんだ。

 だが、それを振り払うように、

 盃を傾けた。

 ――帰れば、元に戻る。

 離縁状だってまだ書いてない。

 そう思い込もうとした。


 家に戻ったのは、十日ほど後だった。

 戸を開けても、返事がない。

 いつものように、

 台所に灯りがあるはずだった。

 家の中は、静まり返っていた。

 不思議なほど、整っていた。

 布団は畳まれ、

 器は洗われ、

 床に塵一つない。

 ただ、妻の着物が、数枚消えていた。


 男は、しばらくその場に立ち尽くした。

 ――少し、実家に戻ったのだろう。

 そう考えた。

 自分に、そう言い聞かせた。

 昼過ぎ、近所の世話焼きのおばさんが、

 店先に顔を出した。

「あんた、知らなかったのかい」

 その声で、

 胸の奥が冷たくなった。

「奥さんね、今朝早くに出ていったよ」

「掛川の方へ行くって言ってた」

「身内を頼るんだろうさ」

 言葉を失った。

 誰かから聞かされて、

 初めて知る。

 それが、これほど重いとは思わなかった。

「あの人、何も言わなかったよ」

「静かでね……怒ってる様子でもなかった」

 その言葉が、

 逆に胸を締めつけた。

 男は、その場で座り込んだ。

 怒鳴った声が、

 頭の中で何度も反響した。

 ――出てけ。

 自分の声だった。


 数日後、仕事の調整を終え、男は東海道へ出た。

 掛川へ向かう道は、

 何度も通ったはずの道だった。

 だが、その日は違って見えた。

 足が重い。

 進むほどに、

 何かを踏みしめているような感覚があった。

 言葉にしなかったもの。

 向き合わなかったもの。

 それらが、

 足元で澱のように溜まっている。


 夜が更け、箱根の山に薄く雪が降り始めた。

 白く、音もなく、道を覆っていく。

 男は立ち止まり、

 空を仰いだ。

 冷たさが、頬に刺さる。

 その冷えが、

 胸の奥にまで染み込んでいく。

 ――俺は、何を守ってきたんだ。

 答えは、出なかった。

 ただ、

 逃げ続けてきた自分だけが、

 はっきりとそこにいた。

 雪はやがて男の足跡を消していった。

 まるで、

 最初からそこに誰もいなかったかのように。


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