第陸次 筆と記録
社殿の奥で、凄まじい音が続いていた。
木が砕け、石が跳ね、雪が爆ぜる。
重衛門は、境内の端でじっとそれを聞いていた。
伊織が社殿へと吹き飛ばされた、その直後からだ。
――予定通り。
そう、言葉にして確認する。
あらかじめ、社殿の床下と柱に油を回していた。
火を放ち、燃え崩れる直前まで化物を引きつける。
そして――伊織だけが、逃げる。
理屈の上では、そうだ。
だが、重衛門は分かっていた。
十中八九失敗する。
伊織が化物にやられるか、
逃げ遅れて二人まとめて押し潰される。
心中――
その言葉が、現実味を帯びていた。
だからこそ、意識は奇妙なところへ向いていた。
――これを、どう書き残すか。
壁に刻む文字を思い浮かべる。
雪骸化の契機。
行動様式。
感情との関係。
……伊織の意見も、聞きたかった。
できれば、生き残ってほしい。
そう思っている自分に、重衛門は苦笑する。
計画を聞いた時には笑い飛ばそうかと思った。
元定火消の重右衛門に向かってい神社を焼けというのだ、何か言ってやりたくもなる。
そして成功率の低さを想像し呆れ、だが当然のように実行するつもりの伊織を異常だと思った。
しかし、良し悪しは置いておいて、短時間で逃げながら考えたにしては最低限策の体を成していた。
少なくとも重右衛門はそれ以上の案もおもいつかず、戦うのも重右衛門ではない以上何も言えなかったのだ。
戦闘音が、さらに激しくなる。
想像する。
伊織が、どれほどの恐怖の中で戦っているのか。
どれほど理不尽な力と、向き合っているのか。
やがて。
音が、少しずつ、小さくなっていった。
――終わった。
重衛門の胸に、冷たいものが落ちる。
社殿には、すでに火が回っていた。
梁が軋み、炎が舐める。
これで倒せなければ、打つ手はない。
せめて情報だけでも――
そう考え、踵を返しかけた、その時だった。
瓦礫の向こうから、影が現れた。
「……伊織?」
煤にまみれ、ふらつきながら、
それでも確かに、生きている。
重衛門は何も言わず、伊織を担ぎ上げた。
死なせない。
それだけを考えて、連れ帰った。
***
翌晩。
重衛門の部屋で、二人は向かい合っていた。
「体は大丈夫かい」
「問題ない」
即答だった。
「……あの後、どうなった」
「君に死なれては、聞きたいことも聞けなくなるのでね。
なんとか連れ帰って、死なない程度に看病したよ」
「……あいつは?」
「君を安静にしてから見に行った。
破壊の跡だけで、何もなかったよ。
移動した形跡もない」
重衛門は、筆を取り壁に向かう。
「仮称だが……あれは“雪骸”と呼ぶことにする」
「……雪だるまじゃ駄目か」
「却下」
即座だった。
「で、だ。
何がきっかけで雪骸化したと思う?」
「感情の高ぶりだろ。
商品を台無しにしたことと……俺の一言」
「無神経だったね」
「自覚はある」
重衛門は、ふむ、と頷く。
「他に、雪骸について気づいたことは」
「身体が、熱かった。
殴った時に気づいた」
伊織は少し考えて続ける。
「それと……目や鼻じゃない。
俺たちの位置を、別の方法で把握してた」
「ああ」
「風下に回って、建物に隠れただろ、
しかし正確に追ってきた」
「そうだったね」
壁に新たな筆が走る。
「なぜ、君を追ったと思う」
「雪骸化のきっかけだから……か」
「それとも?」
「……分からん」
「君も雪骸の位置が分かるといっていたのは覚えているかい」
「ああ」
「雪骸を追いたいと思ったかい」
「思わなかったが⋯⋯いや何でもない」
重衛門は顔を上げる。
「⋯⋯何も分かっていないんだ、直感だって重要だよ。躊躇しないでくれ」
「⋯⋯奴と戦うこと望んでいたような気がする」
重衛門は怪訝な表情で続ける。
「そもそも、あの商人との面識は?」
「ない」
「僕もだ。だが……
君は彼のことを“忠兵衛”と呼んでいたね」
「冥土の飛脚を知らねえのか?」
「なるほど。近松か。
意外と博識だね」
重衛門は息をつく。
「あれと戦うことを望むなんて信じられないね。正直、社殿で一緒に潰れると思っていた。
どうやって倒した?」
「俺にも分からん。死なずに済んだのは刀が出てきたからだ。それで切れた」
「出てきた?⋯⋯社殿に置いてあったということかい?」
「いや、気づいたら手に握られていた」
「⋯⋯そうか。僕の筆のようなものかな。では今後は勝てる?」
「いや。芯⋯⋯恐らく肥大化する前の肉体には刃が通らない」
伊織は淡々と続ける。
「肥大化した部分は切り落とせる。
だから、消耗はさせられるな」
「……楽にはいかないね。刀は、今出せるかい?」
「出せる感覚はないな」
「どういう状況なら出せると思うかい?」
「死を覚悟して、それでも足掻くと決めた時だ」
伊織は、自分の手を見る。
「熱のこもってた身体が、さらに熱くなって、
それが手に集まり……刀になった」
「それは⋯⋯雪骸化に近い現象では?」
「分からん」
沈黙。
重衛門は、ふと視線を落とす。
「……君を連れ帰った後、看病したと言ったね」
「左腕は折れ、全身青痣。
擦り傷も酷い。内傷もあっただろう」
「……」
「それが、一晩で元通りだ」
重衛門は、しばらく筆を置いたまま動かなかった。
「今更だが……
この異常な状況を、どう考える?」
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「僕らは、生きていると言えるのかな」
伊織は、少しだけ考えて答えた。
「だとしても、やることは変わらん」
「……ほう」
「足掻けるうちは足掻く。それだけだ」
重衛門は、苦笑した。
「そう言うと思ったよ」
そして徳利を持ち酒を流し込む。
「ならまず、忠兵衛が今夜また存在するのか確認しよう。
時間になれば、この家の前を通るはずだ」
伊織は頷く。
「……君は、なかなか無神経だからね」
「分かってる」
「今後は、なるべく嫌味や軽口は控えてくれ。
また突然戦闘が始まったら、たまらない」
「善処しよう」
重衛門は、壁に向き直る。
「さて……今夜はあと何を書こうか」
「全部書けばいい」
「そういうわけにはいかないようだ」
筆先を見つめ、続ける。
「どうやら一日に、
筆を雪につけるのは三度までらしい」
伊織は真剣な顔で問う。
「制限付きか。四度目は試したのか」
「昨日気づいたんだけどね、三度目が終わると筆が消えたよ。君の力も、同じかもしれないね」
重衛門は、淡々と締めた。
「便利な力ほど、過信は禁物だ」




