第伍次 理不尽な暴力
雪の塊が、音もなく崩れ落ちた。
いや、崩れたのではない。
踏み出したのだ。
伊織は反射的に身を沈め、横へ跳んだ。
直後、さっきまで自分が立っていた場所が、叩き潰される。
地面が割れ、凍った土と雪が爆ぜる。
振り抜かれた腕は、もはや人のものではなかった。
「――っ」
息を吐く暇もなく、伊織は地を蹴る。
足が、自然と敵の懐へ向かっていた。
商人が使っていた棒を拾い、強く踏み込む。
全身の筋肉を連動させた渾身の突きを放った。
胸元。
心臓のあるはずの場所。
確かな手応えがあった。
だが、
「……は?」
棒は、半ばまで食い込んだところで止まり、
雪の肉に呑まれ、凍りついたように動かない。
商人の顔だったものが、ゆっくりと伊織を向いた。
――その瞬間。
「伊織!」
重衛門の声が響く。
だが、一瞬、遅かった。
横薙ぎ。
巨大な腕が、空気そのものを叩き潰す。
次の瞬間、伊織の身体は宙を舞い、
振り抜いた腕は家屋の壁を砕き、梁をへし折った。
衝撃が、数拍遅れて全身を襲う。
肺の空気がすべて吐き出され視界が白く染まり、音が遠ざかる。
――死んだ。
一瞬、そう思った。
だが、
「……く、重い」
愚痴混じりの声とともに、身体が持ち上がる。
重衛門が、瓦礫の下から伊織を引きずり出していた。
周囲では、人々が悲鳴を上げ、
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っている。
あの一撃は、災害だった。
「あれを倒すのは無理じゃないかな」
重衛門は言いながら、伊織を抱え上げ、
崩れかけた空き家へと滑り込む。
しばらくして、伊織は目を開けた。
「……う、生きてるな、俺」
「運がいい」
重衛門は簡潔に答えた。
「肩を貸す。いったん離れるよ」
和歌宮神社の方角へ、二人は動き出す。
雪を踏む音を殺し、
家屋の影を縫うように進む。
――なのに。
背後で、確実に近づいてくる気配があった。
振り返らずとも分かる。
あれは、一直線だ。
「……回り道しても、意味がないね」
「ああ」
伊織は、息を整えながら言った。
「俺も、あいつの位置がなんとなく分かる。同じだとしたら逃げても意味がない」
「伊織、喋って大丈夫かい?」
「殴られたときは死んだと思ったが……ずいぶん回復した」
重衛門は、伊織の額に触れ、
「……ひどい熱だ。まさか酒のせいではないね」
「ああ。
あいつに殴られてからだ。身体が熱い」
伊織は、吐く息が白くなるのを見て続ける。
「空気も、さっきより冷えてきた。
だが……今は、それが心地いい」
「そうかい」
重衛門は肩をすくめた。
「なら歩いてくれ。
大柄な君に肩を貸すのは、きつい」
彼は、寒さについては何も言わなかった。
***
和歌宮神社の境内。
雪に埋もれた狛犬が、闇の中から二人を見下ろしていた。
重衛門が、篝火を起こしながら問いかける。
「今さらだが……ここに誘い込んだ理由は?」
「足場がいい」
伊織は即答した。
「それに、あの馬鹿でかさと腕力だ。
そこらの家屋でやり合えば、瓦礫の雨に巻き込まれて終いだ。
だったら、相手の動きだけに集中できる場所の方がいい」
重衛門は一瞬、目を細め、そして笑った。
「……ずいぶん冷静だね」
「冷静じゃなきゃ、もう死んでる」
「勝ち筋は?」
伊織は鳥居の方を見た。
「相手次第だ。――来た」
雪を擦る、重い音。
闇の向こうから、黒い塊が姿を現す。
全身が漆黒に染まり、
もはや商人だった面影はどこにもない。
とりわけ腕と肩が異様に膨れ上がり、
人の形をした暴力そのものだった。
「……糞達磨」
伊織は低く吐き捨てる。
重衛門は木立の陰へと身を引いた。
伊織は地を蹴り、腹から声を張り上げる。
「鳥居をくぐる前にだ!」
同時に、松明を投げつける。
「一礼しろやぁぁぁ!!」
炎が、顔面を掠める。
伊織は踏み込み、拾っていた包丁を突き出した。
狙いは心臓――だった場所。
だが、
硬い。
刃はすぐに止まり、
雪とは思えぬ抵抗に弾き返される。
次の瞬間、
上から叩き潰すような一撃。
伊織は地を蹴り、辛うじてかわす。
風切り音が耳元を薙ぎ、
ついでに腕を撫でるように切りつける。
――刃が、入らない。
一寸も届いていない。
考えるな。
考えた瞬間に、死ぬ。
踏み込み、斬り、引く。
それを、ただ繰り返す。
鳥居が倒れ、
石畳が割れ、
神社の静謐は、暴力に塗り潰されていく。
伊織の呼吸は荒れ、
踏み込む間隔が、わずかに伸び始めていた。
「……糞ったれ」
なんとか切り飛ばしたはずの指が、
いつの間にか元に戻っている。
様子を窺う重衛門には、
伊織の方が異様に映った。
意味があるとも思えぬ攻撃のために、
何度も繰り返し死地へ飛び込む。
その胆力と消耗は、計り知れない。
やがて、
伊織の回避が間に合わなくなる。
腕で受けるが、
質量の差は埋められない。
いなし、逸らすだけで精一杯。
それだけで腕は赤黒く腫れ、
身体が大きく揺らぐ。
全身が、熱を帯びている。
肺いっぱいに取り込んだ冷たい空気は既に役割を終え、体は新たなものとの入れ替えを求め全力で警鐘を鳴らしていた。
それに応えることもできないまま、どこか他人事のように雪が、皮膚に貼りつく感覚を覚えていた。
脳はすでに思考を放棄し、
代わりに感覚だけが、異様に冴え渡っていた。
しかし――
――限界だ。
乱雑に振り上げられた一撃が、
伊織を捉える。
社殿を突き破り、
木材を砕きながら吹き飛ばされる。
化物は、ずりずりと追ってくる。
重衛門は動かない。
社殿を、ただ見つめ続けている。
永遠にも思える沈黙の後、
再び、凄まじい破壊音が響いた。
***
伊織は、瓦礫の中で息を吐いた。
一撃は腕で受け、
自ら跳ねて威力を殺していた。
しかし左腕は折れ、
全身が痛みで悲鳴を上げている。
――立て。
そう思ったが、身体は応えない。
代わりに咳き込む身体が揺れるだけだ。
化け物の足音が近づく。
ずり、ずり、と雪を引きずる音。
逃げ場はない。
それでも、伊織は凄絶に笑っていた。
理不尽に屈しないために、殴り方を覚えた。
生き延びるために、暴力を磨いた。
そうやってここまで来た自分が、今、もっと理不尽な暴力に押し潰されようとしている。
これまでの伊織を否定するかのように。
「……上等だ」
小さく呟く。
胸の奥で、何かが燻っていた。
消えかけていたはずの火。
――まだだ。
死にかけたとき、いつもそうだった。
諦める理由はいくらでも浮かぶ。
だが、身体のどこかが、それを拒む。
伊織は、震える右手を、ゆっくりと地面に突いた。
その瞬間だった。
掌に、熱が集まる。
焚き火のような温もりではない。
もっと荒々しく、内側から焼き付くような熱。
「……あ?」
息を呑む。
熱は掌に留まらず、形を求めるように流れ始めた。
指の間を満たし、骨に沿い、輪郭を作っていく。
雪が、寄ってくる。
だが、それは化け物のように身体を覆うものではなかった。
熱に引かれ、削ぎ落とされ、研ぎ澄まされていく。
伊織の掌の中で、一本の線が生まれる。
――刀だ。
次の瞬間、はっきりとした重みが手に宿った。
伊織は、無言でそれを握り直す。
「……ああ」
伊織は短く息を吐いた。
「そういや、無かったな」
見慣れた感触。
重さも、握りも、何一つ特別じゃない。
ただ、蒲原で目を覚ましてから、
そこにあるはずのものが、無かった。
伊織はゆっくりと立ち上がる。
「戻ったなら、それでいい」
刀は道具だ。
殴るよりは斬る方が効率がいい。
それ以上の意味はない。
黒い巨体が、社殿の柱をへし折りながら迫る。
伊織は、踏み込んだ。
振り下ろされた巨大な腕。
伊織は、回避しながら力を込めて斬った。
刃を振り切る手応えが、あった。
黒い雪が弾け、ずしりと腕が肘先から落ちる。
「……切れるか」
それだけ確認すると、
伊織は間髪入れず、次の一太刀に移った。
横薙ぎ。
逆の手首が落ちる。
袈裟斬り。
肩から深く食い込むが芯までは斬れない。
回り込んで、足首を断ち動きをとめる。
再生する。
また斬る。
黒い雪が舞い、境内に積もっていく。
化物は吼え、暴れるが、
その動きは徐々に鈍くなっていった。
再生が、追いついていない。
伊織は気づく。
周囲の雪が、減っている。
雪は無尽蔵ではない。
雪の吸収には、限りがある。
「……よし」
伊織は、攻め方を変えた。
深追いはしない。
致命を狙わない。
斬って、削って、戻らせる。
腕。
肩。
脚。
雪を使わせ、
雪を失わせる。
やがて、化物の巨体は縮み始めた。
異様に発達していた上半身は痩せ、
動きは、人間のそれに近づいていく。
――戻っている。
未練に縋れなくなった、
ただの商人の身体へ。
伊織は、踏み込んだ。
足を刈り、
体勢を崩し、
背後に回る。
刀を捨て、
腕を絡め、
地面に引き倒す。
全体重をかけて、押さえ込む。
「……動くな」
化物は、もう吼えなかった。
息が荒い。
目は虚ろで、焦点が合っていない。
社殿の奥で、
木が爆ぜる音がした。
油の匂い。
伊織は、化物の耳元で低く言った。
「戻す術が分からん。
だから、終わらせる」
一瞬、言葉を探し、
続ける。
「……嫁のことは、悪かった。
事情は分からんが、向き合おうとしてたんだろ」
化物の目が、わずかに揺れた。
「なら、来世で迎えに行け」
伊織は、身を離した。
次の瞬間。
炎が、社殿を包んだ。
火は雪を舐め、
木を喰い、
音を立てて崩れ落ちる。
伊織は外へ跳び出る。
背後で、
社殿が潰れ、
黒い影が炎に呑まれた。
咆哮は、なかった。
ただ、燃える音だけが残った。
雪が、静かに降り続いている。
伊織は、数歩進んだところで膝を折った。
力が、抜ける。
刀は、音もなく霧散した。
「……ちっ」
視界が揺れる。
次の瞬間、
身体が倒れ込む前に、
誰かに抱き留められた。
「伊織」
重衛門の声だ。
「⋯⋯まさかあれを倒したのかい」
「⋯⋯おそらくな」
「無茶をする」
伊織は、掠れた声で答える。
「俺の領分だ。必要なことを、やっただけだ」
重衛門は何も言わず、
ゆっくりと伊織を地面に下ろす。
伊織は目を閉じる。
徐々に息が深くなり、そのまま意識を手放した。
雪は、変わらず降り続いている。
だが、境内の寒さは、
ほんのわずか、和らいだ気がした。




