第肆次 それぞれの領分
その夜、重衛門はしこたま飲んだ。
「……弱いね、君」
「放っておけ」
徳利を傾けながら、重衛門は楽しそうに笑った。浴びるように飲んだ酒も日を跨げば綺麗に消え去り、酔いも残らない。元々酒好きな重衛門にとって、酒を楽しむという一点においてはこの異界は楽園だった。
「さて」
壁に向き直る。
そこには、すでに二十人ほどの人相書きが並んでいた。名前、職、よく立つ場所、話しかけた際の受け答え。几帳面に積み上げられた記録だった。
「過去の僕達は、どうやらこれをやっていたらしい」
「……らしい、な」
伊織は徳利を置き、渋い顔で応じる。
「人相書き、名前、行動、会話。少なくとも二十人分はある」
几帳面な文字と線。記憶はなくとも、重衛門の仕事ぶりだけは信用できる。
「無駄なことはしない性分でね。目的もなく、これだけ集めるとは思えない」
「……なら、同じことをやるのか」
「そういうことだ。勿論目的も探る」
重衛門はにやりと笑った。
「まずは聞き込みだ。飯盛女あたりが手っ取り早い」
「却下だ」
即答だった。
「……堅いねえ」
「分かれて動く」
それ以上、話す気はなかった。
こうして二人は、別々に宿場へ散った。
重衛門の調査は、順調だった。
夜ごとに飯盛女や宿の下働き、酔客から話を引き出し、戻っては壁に新しい人相書きを増やしていく。雪の筆跡は相変わらず残り、翌晩も消えなかった。
一方、伊織は違った。
店で物を買い、二言三言、世間話をする。
それだけだ。
相手は皆、親切だが踏み込んだ話は出てこない。伊織自身も、どう踏み込めばいいのか分からなかった。
絵も描けない。壁に残すものもない。
完全に、足手まといだった。
せめてこれぐらいはと、店が閉まった深夜においては蒲原の地図を片手に蒲原宿という結界、その活動可能範囲を調査していく。
数日後。
二人は重衛門の部屋で成果を持ち寄った。
重衛門は上機嫌だ。
壁を指し示しながら、一人一人を解説していく。
伊織は黙って聞いていた。
「せいぜい役には立てているようで何よりだね」
伊織は歯を噛みしめる。
何も言い返せず、徳利を煽った。
途端、喉が焼ける。
「……げほっ」
「無理はするものじゃない」
重衛門は楽しそうだった。
「冗談さ。⋯⋯絵も描けない。記録も残せない。役に立ってない。そんな風に思っているかい」
重衛門は、徳利を振った。
「それは僕の領分だ、君の成果がなくとも何とも思わないよ。⋯それに君がいるだけで、僕とは違う行動を起こし周りに影響を与える。それはそれで、観測対象としては――」
「言い訳だ」
伊織は立ち上がり、話をきり上げた。
そのときだった。
通りの向こうで、怒鳴り声が上がった。
「――おい! どうしてくれる!」
二人は、即座に顔を見合わせた。
今まで、なかったことだ。
駆け寄ると、そこでは棒手振商人と職人風の男が掴み合いになっていた。
原因は、すぐに分かった。
重衛門の住処の前。
伊織が数刻前に水桶をひっくり返した場所だ。
雪に染み込んだ水が凍り、見えない氷になっていた。
そこを職人が滑り、棒手振商人にぶつかって、商品が台無しになっていた。
倒れ込んでいる男と、散乱した荷。
樽が割れ、染み出した甘酒の匂いが充満していた。
「お前のせいだろ!」
「知らねえ! 俺が来た時にはもう――」
口論は激しさを増していく。
「待て!」
伊織は割って入った。
「俺が水をこぼした。悪かった。落ち着け」
だが、怒りは収まらない。
「今夜の稼ぎが全部だぞ!」
「こっちだって!この怪我じゃ働けねぇ!」
重衛門は、一歩引いた位置で、静かに見ていた。
人の声。
雪の音。
空気が、歪み始めている。
商人が、先に手を出した。
伊織は反射的に動き、男を制圧する。
「やめろ!」
「離せ!俺は悪くねぇ!!」
押さえつけられた商人は、なおも激昂し喚いた。
「誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ!!日が暮れても、他が休んでても俺が働いてるからだろうが!!なんとか言いやがれってんだ!!」
いつの間にか男は喧嘩相手も伊織のことも見ていなかった。錯乱したように喚き散らし目の焦点も合っていない。明らかに様子がおかしい。
伊織は苛立ちを吐き出した。
「仕事に入れ込むのは勝手だがな、
それじゃ嫁に逃げらても文句言えないぜ」
一瞬。
商人の口が、何かを言いかけて止まった。
空気が、凍った。
商人の目から、光が消える。
雪が、ざわりと音を立てた。
「……あ?」
重衛門が叫ぶ。
「伊織、離れろ!」
遅かった。
商人の身体に、雪が吸い寄せられる。
雪は影のように黒く染まり、歪な形を成していく。
肩が、腕が、異様に肥大化し熱を帯びていく。
重衛門は、息を呑んだ。
「……これは」
伊織は、後ずさる。
全身が、総毛立っていた。
「⋯⋯短期は損気だぜ、忠兵衛よ」
苦し紛れの軽口が精一杯だ。
「……迎えに、行く途中だった」
悶え苦しむ異形からかすかに言葉が漏れた。
しかし吟味している余裕はない。
伊織の目の前では八尺を越えようかという黒い化物が立ち上がり天に向かって咆哮を放っていた。
■飯盛女
飯盛女は、江戸時代の宿場にある旅籠で、食事の給仕や雑用を行う下女として抱えられながら、実質的には売春(私娼)も行っていた女性たち
■棒手振
棒手売近世までの日本で盛んに行われていた商業の一形態である。ざる、木桶、木箱、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで商品またはサービスを売り歩く様からこう呼ばれる。棒商い(ぼうあきない)におなじ




