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第参次 記された不在

 重衛門は目を覚ました。

 天井を見上げ、ひとつ瞬きをする。

 夜だ。

 それ以上のことは、分からない。

 部屋は見覚えがあるようで、ない。


 広すぎる一室。煤けた壁。行灯の火は消えている。

 起き上がり、違和感の正体にすぐ気づいた。

 壁だ。

 白い線が、びっしりと刻まれている。

 重衛門は立ち上がり、近づいた。

 ひたすら文字と、人相書き。

 どれも自分が書いたもののようだが記憶がない。

 覚えてはいないが、絵描きとして生きてきた自分の筆触を見誤るはずがない。

 戸惑いつつも、壁中央の最も強調された部分を確認する。


-----

起きたらまず壁を見ろ

翌日に東條伊織と会え

大柄で野蛮でくせ毛

和歌宮神社

暮れ六つ

-----


「東條……伊織」

 知らない名だ。

 それなのに、この名前がここにあることだけで、

 会わなければならない気がしてくる。

 重衛門は複雑な表情でつぶやく。

「……記憶を失うことを事前にわかっていた?」

 まだ時間はある。

 重衛門は街に出て状況を確認しつつ、酒を買い込んでから壁の文字読み込むことにした。

 しかし、眠ったという自覚すらないまま、翌日の夜に目が覚めた。

 浴びる程のんだ酒は完全に抜けており、散財し軽くなったはずの巾着には元の重みが戻っていた。

 ああ、壁に書いてある世迷い言は本当なのかもしれないなと思い始めていた。

 

 重い足取りで和歌宮神社へ向かう。

 鳥居の前に、男がいた。

 上背六尺ほどの大男である。

 雪の中でも存在感を放ち、妙に生々しい。

 重衛門は、直感で理解した。

 ――ああ。こいつだ。


「急いでいるのかい?」

 そう声をかける。

「神社に入る前には、一礼するものだよ」

 男は警戒気味にちらりとこちらを見ただけで、足を止めない。

「ああ、すまない」

 素っ気ない。

 去ろうとする背に、重衛門は言葉を重ねた。

「君が東條伊織かい?」

 男の動きが止まる。

 次の瞬間、腕をつかまれ、体勢を崩された。

抵抗する間もなく、地面が近づく。

「……誰だ」

 力が強い⋯⋯だがそれ以上の早さに驚く。

「落ち着いてくれ」

 重衛門は抵抗しない。

 力任せではあるが捕手術の一種だろう。

 痛みに悪態をつきたくなるのをこらえて、努めて落ち着いて口を開く。 

「重衛門と呼んでくれ。

 僕も君と同じだ。

 ここが何なのか、分かっちゃいない」

 その言葉に、伊織の手がわずかに緩む。

「でも君よりは少しだけ多くを知っているかもね」

「……話がある」

「まずはどいてくれると嬉しいね」


 新田町の重衛門の住処へ伊織を連れてきた。

 勝手知らぬ部屋で、蝋燭に火を灯す。

 壁明かりで顕になった壁を見た瞬間、伊織は身を固くする。

「……何だ、これは」

「僕にも分からない」

 重衛門は正直に言った。

「ただ、これは間違いなく僕の筆跡だ。⋯⋯書いた覚えはないがね」


 伊織が一通り壁を見回したところで続ける。

「……雪のことと、人が記憶を失うことが書いてある。それに――日が昇らない、か。世迷い言としか思えないが⋯⋯君のその表情を見るに、この世迷い言に心当たりがあるのかな?」

 重衛門は自嘲じみた表情で問いかける。

「何が起きている?知っていることを話せ」

「言っただろう。僕だって何も分かっちゃいないと」

「ふざけるな、俺の部屋に神社へ来るよう書いたのもお前だろう」

「記憶にないよ⋯⋯。そのへんも調べるために協力してほしいというのが僕からの話だよ」

「⋯⋯もういい」

 伊織は一瞬苛立ちを見せるも、すぐに興味を失ったように言って立ち上がる。

「答えが得られなくて落胆したかい?」

 重衛門は追わなかった。

 貧乏徳利に口をつけ、伊織が戸に近づくのを確認し、背に声を投げた。

「神社で君よりは多くを知っていると言ったね」

「回りくどいぞ」

「入ってくるときには気づかなかっただろう。戸の裏にも書付があるから最後に読んでくれ。それでもと言うなら出ていくといい」


-----

「もういい」 と言い伊織は出ていった

少し待ち後を追ったが、足跡は由比手前の神沢町までしか確認できなかった

翌晩、伊織は蒲原のどこにもいなかった

抜け出せたのか

一度僕も試そう

もし結果が書かれず

これを見ている僕がいるなら

失敗したということだ

由比や吉原へ向かってはいけない

-----


 沈黙。

 積もる雪によって作り出されたうるさいほどの静寂が部屋を支配する。

「……これは」

「たぶん」

 重衛門は静かに言った。

「君が出ていった“結果”だ」

「……俺は、どうなった」

「書かれていない」

 重衛門は肩をすくめる。

 伊織は、歯を食いしばった。

「もし君が由比に向かおうとしていたのなら⋯⋯」

 重衛門は壁を見上げる。

「僕たちもこの雪の蒲原を繰り返しているようだね」

 伊織は、深く息を吐いた。

「……協力しろと言う気か」

「概ねそのとおり」

 重衛門は言い直す。

「過去の僕たちは協力して何かをしていたようだから、その続きをするべきだと考えている」

 伊織は、しばらく黙っていた。


「⋯⋯酒を寄越せ」

「二日酔いはないんだ。好きなだけ飲むといい」

 伊織は受け取った酒を乱暴に飲み、軽く咳き込む。

「せいぜい役に立ってもらうぞ」

 重衛門は苦笑した。

「俺だけが抜け出せる状況ならば迷わず置いていく」

「ずいぶん偽悪的だね。面倒な男だ。⋯⋯だがまあ僕もそうさせてもらうよ。気楽にいこう」

雪の音が、二人の間を埋めるように強まっていた。

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