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第弐次 貧乏徳利の男

 雪は止んでいなかった。

 それでも伊織は歩いた。

 天井に残された文字が、頭から離れない。

 他に頼るものがなかった。

 宿場のはずれにある和歌宮神社は、雪に半ば埋もれていた。


 鳥居の前で足を止め、伊織は息を整える。

 ――急がねばならない気がする。

 そのまま鳥居をくぐろうとした瞬間だった。

「急いでいるのかい?」

 背後から、軽い調子の声がかかった。

「神社に入る前には、一礼するものだよ」

 振り向くと、雪のように白い髪の男が立っていた。

 年は分からない。整った顔立ちに赤ら顔、手には貧乏徳利。

 どこか場違いなほど、穏やかな笑みを浮かべている。

「ああ、すまない」

 伊織はそれだけ答え、足を進めようとした。

「君が東條伊織かい?」

 ぴたりと足が止まる。

 素早く振り返り、伊織は男の胸倉を掴んでいた。

「……誰だ」

「おお、書いてあった通りだ。背が高くて野蛮だね」

 男は苦しそうにもせず、困ったように眉を下げた。

「落ち着いてくれ。僕も君と同じだよ。

 何も分かっちゃいない」

 その言葉に、伊織の手がわずかに緩む。

「ただ⋯⋯」

 男は徳利を揺らした。

「君より少しだけ、多くを知っているかもね」


 男はそれを知りたければ付いてこいと歩き出した。

 男の住処は、新田町の外れにあった。

 伊織がいた長屋とは比べものにならないほど広い。

 そして、壁。

 煤で黒ずんだ壁一面に、白い線が走っていた。

 文字と、絵。人相書きや書付けだ。

 水墨画を反転させたような異様な光景。

 伊織は、壁の中央に目を奪われた。

-----

起きたらまず

東條伊織と会え

大柄で野蛮でくせ毛

和歌宮神社

暮れ六つ

-----

「……これを書いたのは、お前か」

「そう。僕だと思うよ」

 含みのある言い方をする。

「僕のことは重衛門と呼んでくれ」

 そう名乗ると、重衛門は壁を見上げる。

「毎晩、皆が同じことを繰り返している。

 少なくとも、僕にはそう見える」

 重衛門は言葉を選ぶように話した。

「人々は覚えていない。

 でも、僕らは覚えている。違うかい?」

「妄言だ」

「かもしれない」

 重衛門は笑った。

「だから試したらしい。

 人を殺しても生き返るのか。えっと、このへんに書いてある」

 壁の一部を指差し、何でもないことのようにいう重衛門をみて伊織の背筋が冷える。

「……信じろと?」

「いや」

 重衛門は徳利を口に運ぶ。

「僕だってまだ信じきれちゃいないさ。

 ただ、ここには多くの情報が――」

 伊織は立ち上がった。

「もう十分だ」

 狂人の戯言。

 そう断じるしかなかった。

「由比へ行く」

 重衛門は、引き留めなかった。

「ああ……そうだった」

 独り言のように呟く。

「無理に出ようとすると、死ぬんだったな」

 伊織は振り返らなかった。

 背後で、重衛門の声が遠ざかる。

「さて……この壁に、次は何と書けばいいだろう」

 

 伊織は振り切るように西へ進む。

 進むほどに、風が強くなる。

 雪が舞い上がり、視界を奪う。

 息が詰まり、足が重くなる。

 それでも伊織は止まらなかった。

 理不尽に屈するような心は持ち合わせていない。

 ――前へ。

 最後まで、全力で。

 やがて膝が折れ、伊織は雪の中に倒れ込む。

 冷たいはずの雪は、やはり冷たくなかった。

 まぶたが重くなる。

 眠るように、目を閉じた。

■貧乏徳利

江戸後期から昭和初期にかけて酒屋の小売用として用いられた、庶民向けの磁器製徳利。酒屋から客へ貸し出され、何度も同じ店に通って酒を量り売りで購入したため「通い徳利」や「貸し徳利」とも呼ばれる。一升瓶が普及する前、安価な酒を少量ずつ購入する際に使用された。

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