第壱次 澱雪の夜
激しい咳で急激に目が覚めた。
身を捩り、呼吸が落ち着いたとき、
しん、とした静けさの中にいることに気づいた。
音が、なかった。
夜のはずだ。行灯も消えている。だが闇の奥にあるべき気配が、まるごと削ぎ落とされている。
伊織は仰向けのまま、息を潜めた。
耳が妙に冴えている。
何かが降っている――そんな錯覚だけが、微かに残っている。
雨ではない。
もっと柔らかく、もっと遅い。
布団を跳ねのけ、身体を起こす。
見知らぬ天井があった。
「……どこだ、ここは」
声がやけに遠く響いた。
薄汚れた布団。煤けた壁。裏長屋の一室らしい。
だが、それ以上におかしい。
寒くない。いや寒いのだが凍えるほどではない。
冬の夜だというのに、指先の感覚は鈍っていない。
吐く息も白くならない。
伊織は障子に手をかけた。
開けた瞬間、言葉を失った。
外は、白一色だった。
屋根も、道も、宿場町の家並みも。
すべてが、均一に覆われている。
「……雪?」
通りに積もった雪が月明かりを反射し、昼のように明るい。宿場町の家並みが続いているが、屋根も道も、すべてが均一に覆われている。
伊織は外へ出た。
踏み出した足からは柔らかい感触が伝わってくる。
「……おい」
通りの先に人影があった。旅装の男だ。伊織が声をかけると、男はゆっくり振り向いた。
「ここはどこだ」
「蒲原宿でございますが」
男は即座にそう答えた。まるで当然とでも言うかのように。
「ふざけるな。蒲原に雪が積もるはずがない」
「さあ……そういう年もありましょう」
男はそれだけ言うと、興味を失ったように前を向き、歩き去っていった。
伊織はその背中を睨みつけた。元々江戸にいた自分が突然蒲原にいるはずがない。仮に蒲原だとしてこれほどの雪が積もるはずもない。からかわれたのだと結論づけ先を進むことにした。
通りを歩き、宿屋の前で女に声をかけた。茶屋の主にも、荷を下ろしている男にも、同じ問いを投げた。
返ってくる答えは、すべて同じだった。
――蒲原宿。
やがて疲れて、伊織は最初に目覚めた長屋へ戻った。頭が冴えない。考えがまとまらない。何か大事なことを忘れている気がするのに、それが何か分からない。
布団に倒れ込み、目を瞑って理解の限界を越えた状況について考え込む。
夢や幻か?頭でも打って記憶を失った?狂癲となったか?そもそもここで目覚める直前のことも覚えていない。まるで妖にでも化かされたかのようだと考え込む。
咳が出て、目を開くと同時に目覚めた感覚を得た。
どうやら目を閉じて結論の出ない自問を続けているうちに寝てしまっていたようだ
しかしおかしい。
夜に寝たはずなのに起きたらまた夜だ。
丸一日を寝て過ごすほどの疲労はなかった。
伊織は違和感を覚えながら起き上がる。
外へ出て、あたりを見渡す。いた。通りの同じ場所に、昨晩話した旅装の男が同じ姿で立っている。
「おい、昨日話しただろ」
「……?」
男は首をかしげた。
「どなたで?」
瞬間、苛立ちが伊織の内側から湧き上がるのを感じた。
「ふざけるな。よくもからかってくれたな。」
「知らねえつってんだ、言いがかりはよしてくれ」
背中に冷たいものが走った。
何度話しかけても同じだ。男は伊織を知らない。宿屋の女も、茶屋の主も、昨夜と寸分違わぬ受け答えしかしない。
伊織は、ふらふらと歩いた。
通りの端、井戸のそばで、一人の娘が洗い物をしていた。雪の中にあって、そこだけが妙に穏やかだった。
伊織は、息を呑んだ。
――佐乃。
妹だった。
背丈は知っている頃より伸びたが、髪の結い方も、記憶の中のままだ。細い指先で桶を洗う仕草まで、間違いない。
「……佐乃なのか」
娘は顔を上げた。
その目が伊織を捉え、柔らかく笑う。
「はい、⋯⋯どなたですか?」
喉が鳴った。
「冗談だろ。俺だ、伊織だ」
「伊織……?」
娘は首を傾げる。困ったように笑い、視線を逸らした。
「存じません。でも……」
一瞬、娘の表情が歪んだ。何かを思い出しかけたように、唇が震える。周囲の雪がざわつくと同時に伊織の全身が総毛立つ。
「……すみません」
しかし娘はそれだけ言って、また洗い物に戻った。
伊織は、その場から動けなかった。
雪が強くなっていた。
今はこれ以上つついてはいけないと伊織の直感が告げていた。
現状にめまいを感じながらも何とか長屋に戻る。蝋燭に火をともし、布団に倒れ込んで天井を見上げた。
――何なのだ、ここは。
そのとき、視界の端で白いものが浮かび上がった。
天井に、文字があった。
墨でも炭でもない。雪を塗り込めたような白い字だ。
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伊織
起きたらはずれにある和歌宮神社へ来い
暮れ六つにて待つ
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伊織は、目を見開く。
この名を呼ぶのは、誰だ。
雪の音が、さらに大きくなった。




