第零次 雪の手前
夜の街道は、静かだった。
雪は降っていない。
それなのに、足元は白い。
月明かりのせいだろう、と伊織は思った。
月明かりの中歩くこと自体に、疑問はなかった。
息は浅い。
胸の奥に、冷たいものが溜まっている感覚がある。
咳は、出ない。
出ないから歩ける。
歩けるから、問題はない。
伊織はそう判断していた。
足を出す。
次に、もう一歩。
脚は重いはずだった。
だが、重さはどこか遠い。
痛みも、疲労も、
すべてが一枚、薄い膜を隔てた向こう側にあるようだった。
立ち止まる理由は、なかった。
休もう、という考えが浮かばない。
宿を探すという発想もない。
止まれば終わる。
なぜか、そうだけは分かっていた。
東へ行く理由は、もうない。
西へ向かう理由は、ある。
それだけで、十分だった。
道の脇に、灯りの消えた家並みが見えた。
蒲原宿――
名を意識したのは、それが初めてだった。
寒い、と思った。
だが、同時に、どこか心地よくもあった。
身体の奥に溜まっていた熱が、
外の冷たさと釣り合っている。
均されていくような感覚。
――まだ、いける。
伊織は、そう判断した。
誰に言うでもなく。
夜は、深い。
だが、不思議と暗さは感じなかった。
景色が、はっきりと見える。
音も、遠くまで届く。
自分がどれほどの距離を歩いたのか。
いつから歩いているのか。
それを考えようとして、やめた。
必要なのは、前へ進むことだけだ。
足が、滑った。
転びそうになり、咄嗟に踏みとどまる。
その拍子に、胸の奥が軋んだ。
――大丈夫だ。
声に出さず、そう言った。
誰に向けた言葉かは、分からない。
伊織は、再び歩き出す。
その歩みが、
現実の足かどうかを確かめることなく。
夜の蒲原は、
何事もなかったかのように、静まり返っていた。




