第拾陸次 色気と食い気
酒の匂いが、部屋に重く沈んでいた。
飯盛旅籠の一室。夜更け。伊織の目の届かぬ場所。
重右衛門は卓に肘をつき、徳利をあおり、喉を鳴らしてから筆を取った。しかし指先は冴えている。酔いの影響はない。胸の奥で、言葉にできない焦げつきが燻っていた。
本来ならばあり得ない。客間の壁に絵を描くなど、咎められて然るべきだ。それでも誰も疑問を抱かない。雪で形作るというのは、そういうものだった。ここでは、起こってはならぬことが、当たり前の顔で通り過ぎていく。
重右衛門は飯盛女のお凛を描いていた。
いつかの約束は早くやってきた。勿論お凛は約束を覚えてなどいない。
柔らかな線で、伏し目がちに。見る者にはただの艶やかな絵にしか映らない。だが、その線の運び、濃淡の重なりの中に、情報を刻み込んでいく。繰り返しの住人には読めない。読めたとしても絵だ。意味を持たぬ装飾にしかならない。
掏摸の女について。
――記憶を持ち越している可能性。
――自分たちと近い位置にいる存在。
――だが、どこか決定的に違う。
筆先が、女の指先を描くところで一瞬止まる。重右衛門は酒を含み、ゆっくりと息を吐いた。
次に、脛当て。
伊織の脚に現れたそれを、絵を崩すことなく描き込んでいく。女の衣の皺に、背景の雪の割れ目に、符号や文字をならして嵌め込んでいく。
――戦力の大幅な強化。
――しかし身を焼く。
――制限があるはずだ。
さらに、脛当ての発現に伴う変化。
――自分を削り、必要以上に人を救おうとする傾向。
――この異界で想いが混ざる危険性。
そして最後に、伊織をよく観察すること。
――行動に脛当ての影響が強く出るなら。
――分析し、細やかに記録対策を練ること。
そこまで書いて、作品を眺めて思案する。
壁に残ったのは、美しい女の絵だけだ。誰が見ても、ただそれだけ。
――玉簪の女のことは、書かない。
玉簪は一つだけ、確かにあった。しかし女に渡しても、何の反応もなかった。けれど、ほんの一瞬、笑ったように見えた。そのまま終わらせたら、簪だけが残った。
違う簪だったのか、理由が別にあるのか。分からない。
ただ、託された気がした。
拾った瞬間女の記憶の断片が流れ込んで来る。
今、その玉簪は重右衛門の白く長い髪に収まっている。
あの女は想いを溜め込む質だったのだろうか。筆で吸える雪の量が、あれ以来、格段に増えた。
――東條伊織。
これまで何度も、重右衛門の想像を超えてきた男。
恐ろしい化物に打ちのめされながら、淡々と状況を切り分け、分の悪い賭けにも躊躇なく身を投じる。そして命を拾って戻ってくる。
その凄まじさと狂気染みた行動に、重右衛門は強く惹かれていた。
世界が拡張されるような感覚。自分の表現の器が、無理やり押し広げられる感触。
伊織の行動は、いつも明確だった。
自身に立ちはだかる理不尽を、真っ向から迎え撃つ。
決して逃げない。
ただし、小細工はする。
それは生への執着だ。
ただ生き延びるのではなく、戦って勝ち取る生に拘っていた。
その混じり気のなさが、眩しかった。
これまでどれほどのものを失い、どれほどの戦いを経て研ぎ澄まされてきたのか。想像は尽きない。
まだ表現しきれない。まだ見たい。
この異界で、伊織が何に苦しみ、何を見出すのか。
――それなのに。
あの脛当ては何だ。
伊織の行動が、突然変わった。想像を超えたのではない。明らかに、信念の軸がぶれた。
力が増し、慢心して判断を誤った、などという次元ではない。
混じり濁った。
外部からの妨害。意思の混信。
そして意思がぶつかり合い変貌した。
重右衛門が見たい伊織の変化ではない。
それが、どうしようもなく許せなかった。
筆を置き、重右衛門は深く息をついた。
壁のお凛は、美しく完成している。
そこへ、本物のお凛が顔を覗かせた。
「まあ……素敵だわ」
近づき、壁に写し取られた自分自身を見上げ、目を輝かせる。
「こんなに綺麗な人、見たことない」
重右衛門は笑った。
「でも……」
お凛は少し首を傾げる。
「重右衛門様は、別の誰かをお想いなのかしら」
「そんなことはないよ。あっても、君に向けるものとは別のものさ」
「あら。それだけ強い想いが、愛や憎しみ以外にあって?」
重右衛門は、完成した絵から目を離さずに答えた。
「ああ、愛憎ではないね。僕は絵師だから……描きたいのだろうね。いや、僕が表現できる存在となるように、その全てを把握し、理解したいのかもしれない」
お凛は、ふっと微笑んだ。
「それもまた、愛よ」
重右衛門は筆を持ち直し筆に残った雪で玉簪を作り出す。
「良かったらつけておくれ。⋯⋯僕が君を忘れても、また思い出せるように」
「⋯⋯綺麗。重右衛門様の髪と同じ白ね。私はきっと忘れないわ」
***
いつものように、重右衛門の住処で話し合いが開かれていた。
低い天井、壁際に積まれた道具、炭の残り香。配置も距離感も、何度も繰り返された光景だ。
伊織は卓に向かい、地図と簡単な記号を並べる。
だが、視線の端にいる重右衛門の様子が、どこか違っていた。
重右衛門は卓に寄らない。
隅に腰を下ろし、酒を一人で飲んでいる。
筆も硯もすでに手元に揃えられていた。
「……どうした」
伊織が声をかけると、重右衛門は一拍置いてから顔を上げた。
「いや。今回は少し、動きを変えようと思ってね」
杯を傾け、淡々と続ける。
「僕は記録を読む。整理して、新しい形で残す。
だからしばらくは別行動だ」
それだけ言うと、視線を外し壁を見つめる。
いつもの観察するような目だが、そこに含まれる温度が薄い。
「単独行動か」
「そうなるね」
伊織は一瞬だけ考え、すぐに頷いた。
「分かった」
その即答に、重右衛門は微かに眉を動かす。
そして、話題を切り替えるように言った。
「その脛当てだが」
声の調子が、わずかに変わる。
「君の意思をねじ曲げる。
自身を犠牲にしてでも周りを助けようとする方向にね」
伊織は否定しない。
沈黙が肯定の代わりになる。
「その想いは自然に湧く。
だから抗うという発想自体が浮かびにくい。違うかい?」
「⋯⋯ああ」
「気をつけなよ」
杯を置く音が、やけに大きく響いた。
「君が死ねば、僕に雪骸を倒す力はない。
……あとで死ねと言っているようなものだ」
伊織は短く息を吐き、いつもの調子で答える。
「わかった。気を配る」
それ以上のやり取りはなかった。
伊織はのっそりと重く立ち上がり、外套を羽織る。
戸口に向かう背中を、重右衛門は見送らない。
すでに視線は手元の記録へ戻っていた。
戸が閉まる音がして、しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、梁の陰から姿を現した女だった。
「……良いのか?」
お露は壁にもたれ、腕を組む。
「あいつ、仲間なんだろ」
重右衛門は答えず、徳利を煽る。
しばらくしてから、ようやく口を開いた。
「ああ。だが検証が必要なんだ」
筆先で空をなぞるような仕草をする。
「掻き回してくれ」
「へいへい」
お露は肩をすくめる。
「だが頼んだぜ」
「ああ」
重右衛門は即座に答える。
「食事と酒は好きなだけ用意しよう。
盗まずとも、僕はもともと金を持っていてね。食べ放題だ」
少し間を置いて、続ける。
「それと……先ほどの話。もう一度、詳しく知りたいな」
お露は一瞬だけ目を細め、それからニヤリと笑った。
「わかってるって」
「……」
「あたしが死んだときの話が聞きたいんだろ」
重右衛門の手が、ほんのわずかに止まる。
だがすぐに筆を取り直し、何事もなかったかのように紙へ向き直った。
「頼むよ」
声は静かだった。




