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第拾参次 ずれ始めた日

 休むと決めてから、三日目だった。

 伊織は目覚める度に咳き込んでいた。それが徐々に強く大きくなっているような気がしていた。

 刀は振れたし、足取りも確かだった。

 重右衛門から見れば「調子が悪い」と言うほどの破綻はない。

 ただ、どこか引っかかる――そんな程度の違和感が、消えずに残っていた。


 休息と言っても伊織にはやることがない。

 食事も、体を鍛えることも、この異界の蒲原では意味をなさないからだ。

 そうして伊織は、自然と外を歩くようになった。

 街並みや人々を眺めながら、戦闘時に使えそうな道具の配置、地形情報を頭に刷り込んでいく。


 今日は西へと決め歩を進めたところで、すぐに見知った顔を見かけることになった。

(ああ、ここはあいつが真っ先に訪れる場所だな)

 酒屋の暖簾の前に、重右衛門はいた。

 徳利はすでに手にしている。

 代金も払い終えたようだ。

 しかし、その場を離れず、じっと店先を眺めている。


「……考え事か?」

 声をかけると、重右衛門はようやくこちらを見た。

「うん。ちょっとね」

 いつもの調子だが、目が泳いでいない。

 伊織は、嫌な予感がした。

 二人は並んで歩き出す。

 宿場の朝は相変わらず静かで、人の動きも決まりきっている。

「おかしいんだよ」

 重右衛門が言った。

「酒屋の店員。いつも帳場にいる若いのが、今日は外で配膳をしてた。代わりに、見たことのない女が帳場に立っていた」

「……お前の行動が変化を生んだのでは」

「いや、ないね。お互い目覚めたばかりだろう」

 重右衛門は歩きながら、周囲に視線を走らせる。

「でもね、そういうちょっとした変化が、続いてる」

 伊織は少し考えてから言った。

「そう言われると……小金の裏手で見た夫婦がいる。いつもなら喧嘩してるはずなのに、昨日は妙に穏やかだった」

「ほら」

 重右衛門は楽しそうでもあり、同時に真剣だった。

「小さなズレだ。でも、確実にある」

 二人は東へ向かっていた。

 新田を抜け、さらに先――蒲原の中心に近づくにつれて、人の動きは雑音を増していく。

「……こっちの方が、わかりやすい」

 伊織が呟く。

 話すはずのない者が立ち話をしている。

 通らないはずの道を人が通る。

 繰り返しの中に、意図しない“揺れ”が生まれている。

「中心に近いほど、ズレが大きい」

 重右衛門は、確信めいた声で言った。


 そのときだった。

 人だかりが、前方に見えた。

「……騒ぎか」

 二人は足を止め、様子を窺う。

 野次馬の輪の隙間から、見覚えのある横顔が覗いた。

「……あ」

 重右衛門が、思わず声を漏らす。

 そこにいたのは、飯盛女だった。

 いつもなら、近くの店にいるはずの女。

「――おりん

 名を呼ぶ。

 女は一瞬こちらを見たが、すぐに曖昧な笑みで返した。

 その目には、戸惑いも、親しみもない。

 重右衛門は苦笑し、すぐに大勢の客の内の一人として振る舞う。

「忘れたのかい。悲しいな。まあ、また近いうちに行くよ」

 冗談めかして言い、視線を騒ぎの中心へ戻す。

「何があった?」

「ごめんね、私もいま来たところで⋯⋯」

 ちょうど折りよく、近くの野次馬が口を開いた。

「女が飯を食ってたら、ごろつきが絡んできたらしい」「難癖だよ。どうせ」

 勝手に結論づけると、興味を失ったのか、

 野次馬は一人、また一人と散っていく。


 だが、中心に残った者たちは違った。

 女とごろつき。

 距離は近く、声は荒く、空気は張り詰めている。

 一触即発。

 伊織は、ちらりと重右衛門を見る。

 重右衛門は、ほんの僅かに頷いた。

 伊織は一歩前に出て、女を背に庇うように立つ。

「――落ち着け」

 低く力強い声だった。

 ただでさえ大柄で暴の雰囲気を纏う伊織は、雪骸との激しい戦いを経てか、さらに凄味を増していた。

 その凄味を、同じく暴力に親しんだ者だからこそ余すところなく感じ取ってしまう。


「な、何だてめえ」

 しかし簡単には引けない。

 ごろつきの一人が声を荒げる。

 酒と脂の混じった息が伊織の顔にかかる。

「関係ねえだろ。引っ込んでろ」

 伊織は黙って強く睨みを利かせる。

 背後の女が、動かないのを感じながら、視線だけで相手を測る。

 その足はジリジリと僅かに後退していた。


 ――軽い。

 人数はいるが、覚悟がない。

 そう判断した、次の瞬間だった。

 鈍い衝撃。

 視界が横に跳ねる。

 伊織の頭が、思い切り殴られていた。

 殴ったのは――背後。

「邪魔すんなっつってんだろ」

 低く、荒れた女の声。

 伊織はよろめきながら振り返る。

 女は睨んでいた。ごろつきではなく、伊織を。

「……あ?」

 一瞬、場が凍る。

 ごろつきたちも、状況を見守っていた者たちも、

 女が何をしたのか、理解が追いついていない。

「勝手に首突っ込むな。こっちはこっちで片付ける」

 女は一歩前に出る。

 小柄だが、姿勢が崩れていない。

 伊織は頭を軽く振り、殴られた箇所を確かめる。

 痛みはある。だが、それだけだ。


 短い沈黙の後、伊織が口を開く。

「……悪かったな」

 短く言い、伊織は本当に一歩引いた。

 ごろつきが面食らったような顔をする。

「は? 何だよそれ」

「⋯⋯好きにしろ」

 伊織はそう言って、女から視線を外した。

 代わりに。

 重右衛門は、女を見ていた。

 ――殴った。

 ――迷いがない。

 ――悪びれもしない。

 そして何より。

 女の動きが、この場所に馴染んでいない。

 重右衛門は、徳利を持ったまま、一歩横にずれる。

 視線をずらし、角度を変え、女の立ち姿を“確かめる”。

 ごろつきが舌打ちをして言った。

「……ちっ、もういい。だが覚えてやがれ」

 引いたとはいえ伊織の存在が気にかかるのだろう。

 捨て台詞を残し、ごろつきたちは去っていった。


 残ったのは三人。

 気まずさも、安堵もない。

 女はふん、と鼻を鳴らす。

「余計なことすんなよ。次は本気で殴る」

「次があるならな」

 伊織はそう返し、もう女を見ない。

「はっ、こっちの台詞だ」

 鼻で笑う女の言葉にもいちいち取り合わない。

 だが。

 重右衛門だけは、目を離さなかった。

 女は気づく。

「……何だよ」

「いや」

 重右衛門は、柔らかく笑った。

「君、ここにいる人じゃないね」

 一瞬。

 本当に、一瞬だけ。

 女の表情が、凍った。

 それは――重右衛門が、伊織の名を初めて呼んだあの時と、同じ種類の表情だった。


「……知らねえよ」

 女はそう吐き捨て、背を向ける。

 人波に紛れて、すぐに見えなくなった。

 伊織が言う。

「変なのに絡まれたな」

「うん」

 重右衛門は、まだ女が消えた方向を見ていた。

「とても、ね」

 徳利を持つ手に、わずかに力が入る。

 重右衛門は、初めて感じた種類の違和感を、

 言葉にせず、胸の奥にしまい込んだ。

「伊織」

「何だ」

「今日は、もう少し歩こうか」

「休むんじゃなかったのか」

「⋯⋯それは、僕と歩くのが疲れるということかい」

 伊織は苦笑しながら歩を進める。

 重右衛門も遅れず歩き出す。

 蒲原は、相変わらず雪に閉ざされている。

 だがその内側で、

 確かに、何かがほころび始めていた。


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