第拾弐次 それぞれの変化
咳が、深いところからせり上がってきた。
喉の奥で何かが裂けるような感覚とともに、伊織は目を覚ました。
胸を押さえ、数度、体を折る。血の味はない。だが、息が重い。
「……くそ」
昨日までなら、これほどではなかった。
激しい戦いの後、重右衛門と「少し休もう」と決めた。そのはずだった。
それから二日。
怪我はない。刃を受けた痕も、骨の痛みも残っていない。
それでも、体は重かった。動かせば動く。だが、内側に砂でも詰められたように、力が落ちていく。
気づけば、伊織は小金へ向かっていた。
理由は考えなかった。
足が、自然とその方角を選んだ。
煮売屋の前は、今日も賑わっていた。
雪は変わらず降り積もり、道は白く覆われているというのに、店先には人が集い、笑い声すら聞こえる。
佐乃は、そこで働いていた。
湯気の立つ鍋の前で、客に声をかけ、手を動かす。
その姿を、伊織は離れた場所から見ていた。
この異界の蒲原の住人は、やはり寒さを感じていないらしい。
肩をすくめる者も、手を擦る者もいない。
雪は景色であって、障害ではない。
――俺だけが寒さを感じ初めていた。
ふと、佐乃が顔を上げた。
東の空を、何度も見上げる。
何かを待つように。
あるいは、確かめるように。
伊織は、その癖に今さら気づいた。
しばらくそうして立っていたが、やがて何事もなかったように歩を進める。
視線を外し、歩き出す。
向かうのは、堰沢。
かつて人の営みがあったはずの場所。
今は、誰もいない。
雪に埋もれた家屋。
風に鳴るだけの戸板。
足音だけがやけに大きく響く。
伊織は立ち止まり、空になった街並みを見渡した。
「……消えたな」
人だけではない。
気配も、熱も、何かが確実に薄れている。
胸の奥が、また重く沈んだ。
***
夜は、静かだった。
情を交わし終え、二人は並んで横になっていた。
雪の音すら、ここには届かない。
「ねえ」
飯盛女が、柔らかく声をかける。
「重右衛門様って、何をしている方なの?」
「僕?」
重右衛門は、少し考えてから答えた。
「絵を描くのが好きなんだ」
「まあ。絵師さんなの? 素敵」
「何でも描くよ。風景でも、人でも」
「じゃあ、いつか私のことも描いてくれる?」
「そうだね。いつか、君のことも描こうかな」
嬉しそうに笑ってから、ふと首を傾げる。
「でも、どうやって描くの?」
重右衛門は天井を見上げる。
「実物を見て、確かめて、頭に焼き付けて想像する。それを正確に、完璧に、線で創造していく。
それこそが正しい描き方だと、ずっと思ってた」
「違うの?
凄いことだと思うわ」
「ありがとう。でもね……」
重右衛門は小さく息を吐いた。
「正確に把握したつもりでも、想像を超えてくるものがあったんだ」
「重右衛門様でも、想像できないことが?」
「そう。別に描くつもりはなかったんだけど、もし描こうとしていたら……僕は表現しきれなかった」
少し悔しそうに笑う。
「そう思うとね、どうしようもなく悔しくてさ」
「絵師の意地かしら。
好きよ、そういうところ」
女は鈴を転がしたように囁やき、
重右衛門は笑顔を返す。
「だけどね」
重右衛門は、体を起こした。
「最近、僕自身が想像を超えられたんだ。
正確なだけじゃない。そこに命を吹き込むように、想いを乗せられることを知った」
「私には、そんな経験ないわ。
少し羨ましい」
「なら……」
重右衛門は筆を取り出した。
「見せてあげようか」
宙に、線を滑らせる。
空気が、わずかに震える。
描かれたのは、小さな金魚だった。
色を持たないはずの線が、淡く光り、形を結ぶ。
金魚はふわりと浮かび上がり、二人の頭上をゆっくりと泳ぎ始めた。
「……かわいい」
飯盛女は目を丸くするが、恐れはない。
「絵なのに、生きてるみたい」
「重右衛門様、本当に凄い絵師様なのね」
「ありがとう」
「いいえ、こちらこそ」
少し間を置いて、ふと笑みを浮かべる。
「……ところで
私は、想像通りだったのかしら?」
重右衛門は、笑顔で答えた。
「君も、想像を超えてきたよ」
筆を置き、女へと向き直る。
「だから、もう一度把握させてほしい。
全部、見せておくれ」
灯りが、少し揺れた。
***
部屋の中は、ひどく静かだった。
障子の向こうに、人の気配はある。
だが、誰も入ってこない。
布団の上には、痩せ細った男が横たわっている。
頬はこけ、肌は土気色だ。
男の呼吸は浅く、時折、喉の奥で引っかかるような音がする。
咳は、もう力がない。
それでも、止まらない。
医師は、診察を終えると、ゆっくりと佇まいを正した。
「……労咳ですな」
その言葉を受け止めたのは、部屋の主――
ならず者達のの元締めだった。
年の頃は五十を越えている。
多くを見てきた顔だが、今は険しい。
「どれくらいだ」
「正直に申せば……長くはありません」
「治る見込みは」
医師は、わずかに首を振った。
「僅かに持たせることはできます。
⋯⋯ですが、苦しみを引き延ばすようなものかと」
元締めは、目を閉じた。
短く息を吐く。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
医師は道具をまとめ、静かに立ち上がる。
「人の出入りは、減らした方がよろしいでしょう」
「……分かっている」
医師が去ると、部屋には再び、咳の音だけが残った。
その後、元締めは外に出た。
集まっていたのは、ほんの数人だ。
皆、距離を取って立っている。
「労咳だ」
その一言で、空気が変わった。
誰かが、思わず一歩下がる。
別の者は、視線を逸らす。
「……そうか」
「やっぱり、か」
言葉の端々に、恐れが滲む。
その中で、ただ一人、若い男が立ち部屋へと進む。
暴力の似合わない、優しい顔。
この世界では、役に立たないとされてきた男だった。
「やめとけ、うつるぞ」
「今は、近づかない方が――」
だが、若者は引かなかった。
「それでも行きます」
元締めは、しばらく彼を見つめてから、静かに言った。
「……短く済ませろ」
「はい」
彼は、部屋へ入り布団の脇に座った。
「……」
声をかけようとして、やめる。
返事は、期待していない。
それでも、独り言のように、言葉を落とす。
「俺は、強くなれませんでした」
笑う。
昔と同じ、少し自嘲の混じった笑い。
「ここじゃ、俺はお荷物でしたね」
殴られた夜のことが、ふと蘇る。
あの時、何も言わずに前に立った背中。
庇うでもなく、諭すでもなく、
ただ、そこにいた人。
「……あんたは、違った」
「何も言わなかった。
でも、あんたの後ろにいるだけで、皆、黙った」
布団の上の男は、動かない。
呼吸だけが、かすかに続いている。
「俺は、あんたみたいになれなかった」
「それでも……」
声が、少しだけ震えた。
「最後まで、屈しない人だってことは、知ってます」
「病なんかで……」
言葉が詰まる。
「……死なないでくれ」
その時、
指先が、ほんのわずかに動いた。
気のせいかもしれない。
それでも、男は、それ以上言えなかった。




