追想:喜三郎
喜三郎が妻を失ったのは、娘がまだ物心つく前だった。
咳が止まらなくなり、痩せ、布団から起き上がれなくなり、
それでも最後まで「娘をよろしく」とは言わなかった。
言わずとも、分かっていると思ったのだろう。
喜三郎は、当然それに応えた。
夜明け前に起き、仕事へ出て、
帰れば娘の飯を作り、洗い物をし、
寝かしつけてから、ようやく一人で酒を口にする。
男一人で子を育てるのは楽ではなかったが、
弱音を吐く相手がいなかった分、迷いもなかった。
娘は、父を誇りに思っていた。
火消しとして名が知られ、
半鐘が鳴れば誰よりも早く駆け、
炎の中から人を引きずり出す父の姿を、何度も見た。
町の者たちが言う。
「喜三郎がいれば大丈夫だ」 「あいつは命を惜しまん」
その言葉を、娘は嬉しく思いながらも、
胸の奥で、いつも小さく揺れていた。
——どうして、そこまでやるのか。
ある冬の夜。
隣町で火事が起き、
たまたま娘と近くを歩いていた喜三郎は駆けつけた。
喜三郎は屋根の上で足を滑らせた。
瓦が崩れ、身体が宙に浮き、
娘は下から、声にならない悲鳴を上げた。
だが喜三郎は、落ちながらも梁に手をかけ、
そのまま屋内に飛び込み、
中に取り残されていた老婆を担いで出てきた。
助かった命は一つ。
代わりに、喜三郎の体は火傷と怪我で傷んでいた。
帰宅後、娘は泣きながら怒った。
「死ぬかと思った」 「どうして、そんなことまで……!」
喜三郎は困ったように笑った。
「誰かがやらにゃならん」 「俺が行けるなら、俺が行く」
娘は分かっていた。
父は、褒められたいのではない。
義務感でもない。
ただ、「見過ごせない」だけなのだ。
春、川が増水したときもそうだった。
堰沢の浅瀬で子供が流され、
喜三郎は迷わず川に飛び込んだ。
下流で引き上げたとき、
喜三郎の身体は冷え切り、
三日三晩、高熱にうなされた。
それでも、目を覚ましたとき言った。
「助かったなら、よかった」
娘は、その背中が少しだけ、
遠くなった気がした。
——この人は、いつか帰ってこなくなる。
そんな予感を、言葉にできぬまま、
日々は過ぎていった。
砂留の話が出たのは、その年の夏だった。
古く、補修を重ねてきた石積みが、
このところの雨で傷んでいるという。
折悪く、豪雨が続いた。
山は水を含み、
川は濁り、
夜ごと、低く唸るような音を立てた。
町の者たちは不安を募らせ、
余所者が砂留に細工を施したなんて出所不明な噂まで立ち始めた。
役人は様子を見ると言った。
様子を見る間に、崩れるかもしれない。
喜三郎は、仲間と顔を見合わせた。
「やるしかねえな」
娘は止めた。
「行かないで」 「お願いだから、今回は……」
喜三郎は、娘の頭に手を置いた。
「大丈夫だ」 「帰ってくる」
その言葉を、娘は信じた。
——信じるしかなかった。
豪雨の中、
喜三郎たちは砂留へ向かった。
娘の心配が胸に刺さる。
亡き妻からの無言の信頼を思い出す。
だが生き方は変えられない。
だから必ず帰ると約束した。
石を積み、
木を打ち込み、
水に押されながら、
それでも手を止めなかった。
夜が更け、
雨は止まず、
山がうねり、轟音が響く。
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堰沢村 大水難之事
近頃、季節はずれの烈しき風雨、昼夜やむことなく降り注ぎ、
山は鳴動し、川は荒れ狂い、堰沢一帯、
土砂押し寄せ大難の相を呈せり。
幸いにも、村はずれに古来より築かれし砂留あり、
これにより一度は大水を防ぎ、
家屋・人命ともに難を逃れたり。
されど、その砂留、年を経て老朽甚だしく、
村人らの間に「いずれ決壊は免れず」との不安広がる。
折からも雨脚は衰えず、
このまま手をこまねけば、再び土砂来ること必定。
ここに喜三郎なる者を頭として、
村の若者十余名、命を賭して立ち上がり、
既存の砂留より手前に、新たなる堰を築くことを決意す。
雨の中、昼夜を分かたず作業を進め、
ほどなく堰は形を成し、
村人ら安堵の息をつきたり。
然るに――
その折、山鳴り再び起こり、
第二の土砂、怒涛のごとく押し寄せ、
古き砂留はついに崩れ落つ。
されど、新たに築かれし堰、
未だ完成に至らずとも、
土砂を受け止め、これを防ぎ、
村を守り通したり。
しかしながら、堰の前に立ち作業に当たっていた
喜三郎ら有志の者ども、
その身は土砂に呑まれ、
ついに帰らず。
喜三郎が娘、父を探し歩けど、
その骸、影すら見えずという。
村は救われ、人は失われたり。
これ偏に、義と覚悟の報いか、
あるいは天の理か。
見る者、聞く者、
その心に深く刻むべし。
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