第玖次 狂炎乱舞
赤が走った。
雪原の西端。 夜の静寂を裂くように、炎が一筋、立ち上がる。
油の匂いが遅れて届いた。風に煽られ、火はすぐに舌を伸ばす。白しかなかった世界に、色が生まれる。
伊織は、その様子を東の高みから見下ろしていた。
――始まった。
思ったより、早い。
火は音を立てて広がる。乾いた木、古い板、雪に埋もれた家屋。異界であっても、現実に存在したものは再現される。ならば、燃える。
背後で、衣擦れの音。
「風は西からだ」
重右衛門が静かに言う。 確認するまでもない。 炎の傾きが、それを示している。
「向かってくるな」
伊織は言った。
「砂留を離れられない。……いや、離れ“たくない”」
それは予測ではない。 確信に近い感覚だった。
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火を待つ間、伊織の意識は、自然と整理に向かっていた。
重右衛門が導き出した推測。
忠兵衛は、やり場のない怒りと後悔で肥大化した。 だが、喜三郎は違う。
彼は、おそらく最初から雪骸だった。それも、単体ではない。
共に死んだ仲間。守りたかった家族。助けたかった人々。
それらを“作り出した”。
斬っても、本体が出てこない理由。殴っても、すぐに立ち上がる理由。異様な連携。
言葉はいらない。指示もいらない。
見たもの、聞いたもの、感じたこと。すべてが、即座に共有される。
個が判断して動くのではない。判断するのは一つ。
あれらは――
喜三郎の目であり、耳であり、手だった。
そして。
喜三郎は、堰沢から出ない。
出られないのではない。出ない。
砂留。
街を守った構造物。同時に、喜三郎たちを殺した場所。
それらを知る事実は貸本屋で紙束として紐で綴じられていた瓦版にあった。
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堰沢村 大水難之事
近頃、季節はずれの烈しき風雨、昼夜やむことなく降り注ぎ、
山は鳴動し、川は荒れ狂い、堰沢一帯、
土砂押し寄せ大難の相を呈せり。
幸いにも、村はずれに古来より築かれし砂留あり、
これにより一度は大水を防ぎ、
家屋・人命ともに難を逃れたり。
されど、その砂留、年を経て老朽甚だしく、
村人らの間に「いずれ決壊は免れず」との不安広がる。
折からも雨脚は衰えず、
このまま手をこまねけば、再び土砂来ること必定。
ここに喜三郎なる者を頭として、
村の若者十余名、命を賭して立ち上がり、
既存の砂留より手前に、新たなる堰を築くことを決意す。
雨の中、昼夜を分かたず作業を進め、
ほどなく堰は形を成し、
村人ら安堵の息をつきたり。
然るに――
その折、山鳴り再び起こり、
第二の土砂、怒涛のごとく押し寄せ、
古き砂留はついに崩れ落つ。
されど、新たに築かれし堰、
未だ完成に至らずとも、
土砂を受け止め、これを防ぎ、
村を守り通したり。
しかしながら、堰の前に立ち作業に当たっていた
喜三郎ら有志の者ども、
その身は土砂に呑まれ、
ついに帰らず。
喜三郎が娘、父を探し歩けど、
その骸、影すら見えずという。
村は救われ、人は失われたり。
これ偏に、義と覚悟の報いか、
あるいは天の理か。
見る者、聞く者、
その心に深く刻むべし。
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伊織は、無意識に息を吐いた。白い吐息が、夜に溶ける。
喉が、ひりついた。小さく、咳が漏れる。
――喜三郎は、もう死んでいる。
ならば。
己は、小金の地で見た、佐乃は⋯⋯
目前に控えた戦闘を思い、その先を考えるのを、伊織はやめた。
***
動きがあった。
堰沢の方角。炎に照らされた道に影が生まれる。
一つ、二つ。すぐに数は意味を失う。
堰沢川の上流から降りてきた。
火が、回っている。守るべきものが、壊されようとしている。
喜三郎の意思が、揺れた。
その瞬間。
堰沢の住人すべての視線が針となって伊織を突き刺したように感じた。
「来る」
生存本能が重大な危険を警告しているかのように急激に身体は熱を帯びていく。
「数は?一人でやれるかい」
「多いがお前がいても結果は変わらん。すぐに来るぞ下がれ」
重右衛門へはことが始まる前に新田側に下がり雪骸の目に映らぬよう身を隠すと決めてあった。
足手まといだからだ。
敵が多い。守りながらは戦えない。
伊織は刀を握りしめる。
雪を踏み、前に出る。
仮説が正しいなら喜三郎を終わらせるには対話が必要だ。
そのためには有象無象を削り切る必要がある。
一本の刀では追いつかないだろう。
だから火を放った。
それでも出てくる者を⋯⋯斬る。
皆殺しだ。
喜三郎にが対話に応じるまで斬り続ける。
炎が、雪骸達の背後で唸りを上げる。
雪の蒲原に、殺気が立ち上る。
――戦闘が、始まる。




