第捌次 雪、群れて守る
壁の記録には、すでに名があった。
喜三郎。
堰沢に住む男。
過去に、重衛門が近づいて声をかけようとしたところ、強い拒絶を示した、とだけ書かれている。
――余所者に対して、異様に神経質。
――感情の揺れが強い。
それ以上の詳細はない。
「一度、失敗してる相手だな」
伊織が言う。
「正確には、近づいただけで弾かれた」
重衛門は肩をすくめた。
「話を聞く段階にすら至っていない」
無理に詰める意味はない。
そう判断し、二人は距離を保った。
***
観察対象の喜三郎は、堰沢川の上流へ向かった。
砂留と堰堤
山から流れ出る砂や土をせき止めるための構造物。
雪の中、数人の男たちが連れ立って、
それを補強するような作業をしていた。
中心にいるのは、喜三郎。
伊織は、眉をひそめる。
「……水、増えてないな」
川の水位は低い。
雪解けの兆しも、豪雨の気配もない。
にもかかわらず、
男たちは切迫した様子で、
雪を掘り、積み、叩き固めている。
急かされているようだった。
誰かに命じられているわけでもない。
それなのに、手を止める気配がない。
「守ってる、というより……」
重衛門が、言葉を探す。
「壊れる前提で、必死に縫い止めてる感じだね」
伊織は答えなかった。
ただ、彼らの目が、ときおりこちらを向くのが気になった。
気づいていない、はずがない。
だが、追ってはこない。
その夜は、それ以上踏み込まなかった。
***
翌晩。
今度は、堰沢の集落で聞き込みをした。
喜三郎本人ではない。
周囲の者たちだ。
さりげなく、
昔話を引き出すように。
「堰沢の砂留って、随分しっかりしてますね」
「前から、あんなに人が出てたんですか」
返ってくる答えは、曖昧だった。
知らない。
覚えていない。
忙しい。
答えを得られないかわりに、
伊織は背中に視線を感じ始めた。
ひとつ、ではない。
重衛門も、同じことを察したのだろう。
何も言わず、路地へと折れる。
伊織は、また他の通行人へ声をかけた。
狭い裏道。
足音が、ひとつ。
振り返った瞬間、
重衛門が素早く距離を詰める。
伊織が、退路を塞いだ。
男は、逃げ場を失った。
「悪いが、少し話を――」
重衛門が切り出した、その瞬間。
急激に気配が、増えた。
背後。
屋根の上。
伊織は舌打ちする。
囲まれている。
しかも、数が多い。
――早すぎる。
そう思った直後、
視界の端に、見覚えのある影が映った。
喜三郎。
複数の人間を引き連れて路地の入口に立っている。
「……山は?」
伊織が、低く呟く。
さっきまで、
確かに、上流で作業していたはずだ。
喜三郎は、こちらを見ていた。
その目に、迷いはない。
そして――
彼が、口を開いた。
「「近づくな」」
声が、重なった。
喜三郎だけではない。
「「堰に触れるな」」
「「壊す気だろう」」
「「余所者は、いつもそうだ」」
言葉が、連なり、重なり、
一つの意思のように迫ってくる。
言葉は揃っていない。
だが、間がない。
囲まれた――そう判断した瞬間、伊織は一歩、半歩と位置をずらし、重右衛門を背に置く形を取った。
守りやすい距離。守りやすい角度。
いつもなら、そこで戦線は安定する。
だが――
伊織が軽口を叩こうとした瞬間、
前方の男が、ほぼ同時に間合いを詰めてきた。
速い。
だが、巧いわけではない。
蹴りを叩き込む。
一人、雪の上に転がる。
――その瞬間だった。
横合いから、別の男が棒で突いてきた。
伊織は身を引いて避けるが棒の男の背後に隠れた女がさらに追撃を仕掛けてくる。
伊織は弾き、急いで体勢を立て直すが既に次の攻撃が迫っていた。
「……ちっ」
敵の動きが、あまりにも早く、それ以上に揃いすぎていた。
前へ出ようとすれば横合いから、横に対処すれば後ろから。一対多は経験してきたが、これほど隙のない多数初めてだった。
まるでこちらの選択を知っているかのように、位置取りが先回りされる。
瞬き一つの隙に、伊織と重右衛門の間へ割り込む影が生まれた。
「重右衛門!」
叫びながら駆け寄ろうとした瞬間、刃が振り下ろされる。
――間に合わない。
だが、刀が振り下ろされることはなかった。
白。
空中に引かれた、一本の白い線が、刃を受け止めていた。
「壁にしか描けないと思ったかい?」
重右衛門は一歩も退かず、筆を構えたまま言った。
宙に留まる白線は、この世界に刻まれた傷のようだ。
「なるほど……」
伊織は敵を牽制しながら、息を整える。
「どれぐらい持つ」
「言っただろう。筆を雪につけるのは一日に三度までだ。一度の補充で、今ぐらいの線を描くなら三本。防ぐなら……合計九度が限界だね」
「わかった」
短く応じ、伊織は前に出る。
体は既に熱を帯び始めていた。
拳を叩き込み、顎を打ち、側頭部を薙ぐ。
手応えは確かだ。倒れる。数を減らす。
だが――
「……っ」
倒したはずの男が、ゆっくりと起き上がる。
息は荒い。動きも鈍い。
それでも、立つ。
伊織は眉をひそめた。
(回復が……早い)
もう一人。
さらに一人。
殴り倒しても、気絶させても、時間が経てば動き出す。
「妙だね」
背後から、重右衛門の声。
「戦闘は素人のように見えるが……統率……いや、連携できすぎている。それに頑丈だ」
伊織も同じ違和感を抱いていた。
個々は強くない。
忠兵衛ほどの圧もない。
雪骸にしては、弱い。
(……いや)
脳裏に、ひとつの考えがよぎる。
伊織は、殴るのをやめた。
右の掌には熱が集まっていた。
次に踏み込んだとき、抜いた刃はためらいなく振るわれる。
――斬れた。
その瞬間、切られた男は黒い塊となって崩れ落ちる。
「……やっぱりな」
確信に変わる。
「雪骸だ。だが本体が無い」
「だから斬れた、か。雪害化していない人間の可能性は⋯⋯低そうだね」
重右衛門が息を吐く。
「一度引こう」
「筆を使い切っていい、多少の怪我は覚悟して包囲を突破するぞ」
斬れるといえど守りながらの戦いは、きつい。
数が多すぎる。連携が崩れない。
そしていずれは復活する。
ジリ貧になる前に多少無理にでも突破する。
伊織は足に力を込め走り出した。
刀を乱雑に振り抜き、空白を作り出して前に進む。
時折棒や鍬、包丁などが掠めるが致命的なもの以外は意に介さず突き進む。
やがて重右衛門の描く線が七本を越えたところで包囲を突き抜け集団に対し向き直った。
呼吸は荒くなり冷たい空気に満たされた喉から軽く咳が出るが警戒は切らさ睨見つける。
伊織は前へ出ず、囲まれないよう間合いを切りながら素早く後退する。
可能な限り狭い道を選び東へ向かった。
防ぐ。避ける。削る。
それだけで精一杯だった。
やがて、足元の雪の感触が変わる。
――堰沢と小金の境界。
その一線を越えた瞬間。
追ってきていた者たちは、ぴたりと動きを止めた。
越えてこない。
ただ、こちらを見ている。
「はあはあ、……どういうことだ」
「きつい⋯⋯だが助かったね。はあ、⋯⋯仮説はあるが⋯⋯後にしよう⋯⋯無理をすれば、明日がなくなる」
二人は背を向け、雪の中を離れていく。
背後からの追撃は、なかった。
この未練は――堰沢に留まる。
■砂留




