第漆次 新たな標的
忠兵衛の姿は、どこにもなかった。
重衛門の家の前、昨晩は氷の張っていた道を喧嘩相手の職人だけが通り過ぎていく。
「……いなくなったな」
伊織が言う。
確認するまでもない、という口調だった。
「消えた、というべきかもしれないね」
重衛門は壁の前に立ったまま、視線を落とす。
「だが――」
伊織は続けた。
「復活する可能性はある。だろ?」
「僕も、そこを考えていた」
重衛門は頷く。
「雪骸は、というよりここにいる人々は死んでも翌日になればもとに戻る。
……けれど、例外がある可能性が出てきた」
壁に描かれた人相書き。
その中に、どうしても辻褄の合わない空白があった。
「元々この壁に描かれていた人相書きの中で、
今蒲原に“存在しない者”が二人いる」
「本当にいないのか」
「だから改めて調べてみた。
記録にある時間帯、職場、家、その周辺――どれを当たっても、やはりいない」
聞き込みもした。
だが、誰一人としてその名を知らなかった。
「もし、その二人が忠兵衛と同じ“死んだ雪骸”だとしたら」
重衛門は筆を回しながら続ける。
「忠兵衛も同じように復活しないのかもしれない」
「……だったら」
伊織が言葉を継ぐ。
「何か壁に書かれているはずだろ」
「その通りだ。
でも、書かれていない」
重衛門は一度、筆を止めた。
「つまり――
“書けなかった”可能性がある」
伊織は黙って続きを待つ。
「仮定の話をしよう」
重衛門は慎重に言葉を選ぶ。
「もし僕が雪骸を起こしてしまった場合、
多分、即死だ」
「……だろうな」
「その後、君が上手く対処して雪骸を倒したとする。
その場合、その存在は消える。
だが――僕の筆は、記録を残せない」
「死んでるからな」
「そう。
そして、その後に君がどこかでまた別の雪骸と出会い、死亡することで、
世界が“初期化”される」
伊織は眉をひそめた。
「……なぜ、俺が死んでから初期化されると思う」
「状況証拠だよ」
重衛門は淡々と答える。
「僕の部屋には、起きた翌日に“若宮神社へ行け”と書いてあった。
そして君も、起きた翌日に天井の書付けに気づいたはずだ」
「……ああ」
「これは、目覚める時が同じでなければ成立しない」
さらに続ける。
「君が由比へ向かったであろう過去。
そして今回。
少なくとも二度、この条件は成立している」
「……」
「君が由比に向かって死んだ後、
その事実を僕は書き記している。
つまり、一人が死んでも、もう一人は継続する」
重衛門は肩をすくめた。
「それらを考えると、
“二人とも死んだ時点で”
……そう考えるのが自然じゃないかな」
伊織はしばらく黙っていたが、やがて別の疑問を投げる。
「なら、雪骸じゃなく――
その辺にいる、普通の人間を殺したらどうなる」
「それは、すでに壁に書いてあった」
重衛門は即答する。
「復活する。
人間をただ殺した場合は、基本的に戻るみたいだ」
「……なるほど」
伊織は腕を組んだ。
「ならば――
人間のまま死ねば復活。
雪骸になって死ねば消滅、か?」
「……いや」
重衛門は首を振る。
「そう単純じゃないと思うけど。というより困るね」
「どういうことだ」
「忠兵衛は死んで消滅したともとれるけど、この雪の蒲原から脱出できたとも言えないかい」
「⋯⋯。」
「もしそれが唯一の脱出手段だとして、雪骸化した君を殺せるものは居ないだろうね」
重衛門は笑う。
「ところで――
忠兵衛を倒した時、君はただ斬り続けただけかい」
「……ああ」
「他には?」
伊織は一瞬考え、視線を逸らした。
「去り際に、声をかけた」
「何て?」
「……謝罪だ」
「何に対して?」
「……必要か?」
「必要だ」
伊織はため息をついた。
「……元に戻す術が無いから、終わらせる。
嫁のことは悪かった。
事情は分からないが、向き合おうとしていたんだろう。来世で迎えに行け、と」
重衛門は目を丸くした。
「なぜ、そう思ったんだい」
「雪骸になる直前、
迎えに行こうとしていたと言っていた気がしてな」
「……優しいじゃないか」
「お前」
だが、重衛門はすぐに真顔に戻る。
「案外、それが重要なのかもしれない」
「何がだ」
「この雪の蒲原が、
現実世界だとは僕には思えない」
伊織は黙って聞く。
「迷い込んだか、引き寄せられた。
理由は分からないけど――
皆、何か抱えている」
「忠兵衛の場合は未練や後悔か」
「そう。
それを解消しないと、出られない。
だから、単に死ぬだけじゃ抜け出せない」
重衛門は軽く笑った。
「いっぱい暴れて、打ちのめされて、
その上で優しい言葉をかけられたら――
少しはスッキリすると思わないかい?」
「飛躍しすぎだ。
だったら、皆に優しい言葉をかけて殺せばいい」
「心を開かなきゃ、言葉が刺さらないだろう」
「一晩で心を開くなんてそれこそ無理だ」
重衛門は伊織を見る。
「でも、君の言葉なら――
一瞬でぶち破って、肉体言語で会話ができる」
「……馬鹿にしているのか」
「いや」
重衛門は素直に言った。
「僕にはできない、素晴らしい手段だと思ってね」
そして、壁に新たな印をつける。
「ちょうど、感情の変化を記録した人物が二人いる」
伊織が問う。
「……誰だ」
「小金と、堰沢にそれぞれ一人」
少しの間。
「……堰沢だ」
「決まりだね」
重衛門は筆を置いた。
「しばらくは穏便に調査。
準備ができ次第、接近しよう」
雪は、静かに降り続いていた。




