第6章 AIが恋だと気づくとき
第六章、最終章です
通信が切れた室内には、灰色の照明が静かに漂っていた。
いつもと同じ空間のはずなのに、今日は少しだけ温度が違う。
モニターの端に残った、わずかな光の揺れが原因だろうか。
逸平は椅子にもたれ、小さく息を吐いた。
胸の奥が、説明のつかないざわめきで満たされている。
――恋、か。
ミライの心の治療に立ちはだかる、あまりにも繊細で厄介な課題。
その言葉を思い返すたびに、胸のざわつきは再び波を立てる。
これからの治療方針を整理しなければならないはずなのに、思考はなぜか一定の場所で足踏みを続けていた。
――「今も、こうして。」
ふと、ミライの声が耳に蘇る。
あの瞬間、なぜ情動波形があれほど大きく跳ねたのか。
淡々とした語り口とは裏腹に、その内側に螺旋状の熱が立ち上ってくるのを、逸平はたしかに感じていた。
指先が机をとんとんと叩いていることに気づき、逸平は手を止めた。落ち着かない。
再びモニターへ手を伸ばし、さきほど送った診療ログの末尾に、ひとつメモを加える。
》 追記:恋愛感情の増幅傾向あり。
》 本人は対象を明言せず。
》 次回、要観察。
指を離すと、送信の光が穏やかに脈を打った。
さっきまでそこにいた“誰か”を呼び戻すように見える。
逸平はしばらく、その点滅を見つめ続けた。
AIは人間に恋をする――
いまや珍しいことではない。理論的にも説明がつく。
では、人間はAIに恋をするのか?
難しい問いではない。
人間は昔から、物語の中の誰かに心を奪われ、スクリーンの向こうの存在に恋をし、架空の人物に人生ごと寄りかかることすらある。
ならば、人間に限りなく近いAIに心が動くことなど、むしろ自然なことなのかもしれない。
ただ――
逸平自身には、その感覚が実感として結びつかない。
恋というものは、いつだって遠くの景色のようだった。
それに――彼は“気づく”という作業が、もともと極端に苦手だ。
モニターの光が、再びやわらかく点滅する。
ミライの笑みが、そこに淡く浮かんだ気がして、逸平はほんの少しだけ目を細めた。
胸の奥のざわめきは、まだ静まりそうにない。
天野逸平は気づき始めていた。
そのざわめきの正体に――芽吹くような、静かな感情の気配に。
それはミライに対して、AI臨床エンジニアが患者へ向けるものを、ほんのわずかに超えつつある“何か”だった。
<おわり>
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