拝み屋オボロの別条:くぐるな、鳥居
与茂真斗は、その日もいつもの裏路地を歩いていた。
古びた鳥居がぽつんと立っている。誰が建てたのかも分からない、社もない不思議な鳥居。
前までは気にも留めなかったのに──ここ数日、通り抜けるたびに胸の奥が冷たくなる。
「……」
そしてその日、真斗はその鳥居をくぐった直後から、言葉を発さなくなった。
口を開こうとしても、声が出ない。
頭ははっきりしているのに、声だけが置き去りにされたような感覚。
放課後。いつも通り神社の縁に現れたオボロは、無言の真斗を見てふっと笑った。
「やっぱり、くぐったんやなぁ。あそこ、道の入り口ですわ。あんた、境を越えてもうたんや」
真斗は眉をひそめて首を傾げる。
「境界ってのはな、どこにでもある。けど、そこに“在る”って気づいてしまったら──その瞬間、境は“通るべき場所”に変わってまう」
オボロは、真斗の肩にそっと触れた。
冷たさが抜け、声がかすかに漏れた。
「……通った、ってこと……?」
「せや。言葉を持って還ってきた時点で、あんたはもう“向こう”のことを知ってしもうたわけや」
オボロは懐から一枚の和紙を取り出し、地面に結びの印を描く。
「けどな、境界を越えるのは悪いことやない。
ただ、通るには“整え”が要るんや。通るべき者が、通るべき道を」
結び終えた印が、ゆらりと空気を揺らした。
「これでしばらくは大丈夫。けど、あの鳥居はな、誰かの“願い”が形になったもんや。
通った者の心の中を見て、道を拓いてまう」
「……俺、なんか見られたのかな」
「見られた、っちゅうより、“聞かれた”んやと思うよ。
あんたの中に、“聞かれてもいい”何かがあった。それが、声を失う形で出てしもたんや」
真斗はしばらく黙って考えた。
「でも、今は……戻ってこれたんだよね?」
「あんたが自分の道を諦めてへんかったからや。
境界の向こうに惹かれるのは自然なことやけど、帰ってくるには、強い“意志”が要る」
その日の夜、真斗は鳥居の前を通らなかった。
遠回りをしてでも、自分の歩く道を選んで帰った。
それが、小さな“結び”の始まりだった。