退職日。マネをしてはいけない。
パワハラを受けた。
入社してすぐの事だ。弁護士であっても32歳とその場の役職員と比較し若く見た目は大人しいためか、IT部の部長が自分のミスを理不尽に転嫁し、怒鳴ってきた。頭と常識が昭和の時代のその男性は、結婚もしていない高学歴女は理解ができずお嫌いらしい。すぐにその場で論理的に相手のミスであることが誰にでもわかるように反論すると、その場で立板に水の反論を受けると思っていなかったその部長は、真っ赤になってモゴモゴ何やら言っている。
やっぱり尋問すらされた事ない素人は大した反論もできないか、と分析した私は、撤回しますか?と冷ややかに聞いた。それでこの場は終わるはずだった。
余計な事をしたのは、私の上司だった。会議に参加していた事勿れ主義の法務部の部長は「まあ、ある事だからね」と言って私を抑えようとした。それに対し言い募ろうとした気配を感じたのか「会社だから、人間関係は大事よ、このくらいで騒いでたらこの先やっていけないわよ」と私に小声で言った。そうか、やっていけないのか、ならやってやろう。
そう決めた。
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3年経ち、私は法務部の特命部長になっていた。
中途入社のため社歴は浅いが、元々法律の専門職。民事、行政、労働、会社法に独禁法、消費者法に個人情報の扱い。法律の知識と裁判経験で、法に関しては社歴だけ長い法務部の部長や既存の課長より遥かに詳しい。彼らは数冊本を読み、研修に出ただけの単なる会社員でしかなかった。闇金に怒鳴られたこともなければ、被害者に熱々のコーヒーをぶっかけられたこともない。時間勝負のクライアントのために事務所で寝袋で寝るような気概もなく、あるのは上場会社の会社員というプライドだけだった。
過去の事案も、表面化してないだけで適当な処理をした案件はゴロゴロ眠っていた。
この3年間、ひたすら会社にいる間は仕事に邁進した。各部から相談があれば積極的に手をあげ担当し、外部交渉や法務部門がいやがる仕事を次々引き受けた。
「助かるよー、他の人はすぐ自分でまずは考えてっていうんだよ」
「前は何で法務がそう判断したのか理由がよくわからなかったけど、調べ方とサイトもわかったから、これからは工数削減できそう、ありがとう」
「外部の弁護士には聞きにくいからなー、すぐ回答もらえて助かる」
餅は餅屋と言う大義名分で、法律にアレルギーを持ち拒否反応を示す人達は、便利な私を推しに推した。
会議に私を引っ張り出すため、役職も整えられ入社2年目には特命課長、同じ年に特命部長に就いた。人事部が抱える人事トラブルから退職トラブル、官公庁対応、当然こちらもしっかり引き受けて頼りにされている。
そろそろかな、と思った。
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各部が集まる来期の人員計画の場で、私は手を上げた。
「すいません、中途で弁護士を1名採用して貰えますか?」
司会をしていた人事部の課長が首を傾げた。
「人員強化でしょうか、通常のメンバーと違うハイクラスだと予算もありますが」
「私はその前に退職予定のため、予算はスライドしてください。雇用時点のスタート地位によっては余るかと思います」
気配だけではなく、文字通り場がざわついた。
「え!?あなた、辞めるの?」
上司が素っ頓狂な声を上げる。なぜ上司であるあなたが知らないという非難の目が集まり、感じ取った彼女はキョロキョロ見回していた。
「……社内の申請フローに従い、先月半ばに退職届の申請をあげています。承認もその日のうちに。有休は使い切っていませんが、本日が最終出社日になります」
私が案件処理をするため、ここ1年すっかり怠けるようになった上司は、社内ツールを開くことも滅多になくなっていた。私の申請は先月日付で中身は見ないまま、私のあげた他の案件の共有のための報告と合わせ承認されたのだろう。礼儀としては本来声かけするべきだっただろうが、忙しいためうっかり忘れていた。在籍中唯一のうっかりだから許してもらいたい。
「あなたが辞めると、仕事が回らなくなる」
上司は難しい顔をして見せているが、私はにこやかに伝えた。
「申し訳ありません、来月から海外の法律事務所に所属するので、明日、日本からも引っ越すんです」
「兼業とか、できない?」
「クライアントとしてであればお受けしますが、顧問契約については法人事務所なので、ボスに話を渡してからになります」
上場会社の場合の顧問料を伝えると、上司と入れ替わりに食い下がってきた人事部長はがっくりと肩を落とした。
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さて、最終日はやることが多くて忙しい。
まずは契約の書式集を削除。自分で作成して持ち込んだものだったから。
本棚の書籍を片付け、個人で手配した配達員さんに引き渡す。本代予算が少ないから自費購入したもの。本棚はガラガラになった。
自分含めた取引先の名刺は全てシュレッダーへ。個人情報だもの。仕事は実質1人で対応していたが、メールで都度報告と共有はしてあるから、きちんと遡って検索すれば大丈夫。案件ごとに。数十件、いや、3桁あったっけ?まあ、それなりにあるけど。一応やり取りのメールは部内メンバーをccに入れてある。知らないは通用しない、元々複数担当なのだから。
え?ノウハウ?マニュアル?弁護士なら頭の中にあるからそんなのないよ、案件の引き継ぎ書は一応漏れなくちゃんとつくってある。はい、こちらです。コンパクト六法並の厚さ。頑張って読んでね、仕事は待ってくれないから、明日から問い合わせも入るだろうしね。
皆遠巻きに私を見ている。受け取りに来ないので、引き継ぎ書は空になった私の机に置いた。
ちょうど終業の鐘がなった。最後に部長に挨拶に向かう。
部長はどういう顔をしたらいいかわからない、というなんとも言えない顔をしていた。
「お世話になりました。やはり私には性格的に会社所属は向いていなかったようです」
私はそっと身を屈めて部長にだけ聞こえるように囁いた。
「ほんと、人間関係って大事ですよね、部下とまともな信頼が築けるかどうかって。ご自身が仰っていた事、真実ですね。流石です。それにしても、たかだか1人会社員が辞めるだけじゃないですか、このくらいで騒いでたら、この先やっていけませんよ。」
カラダを離すと、部長は、口を開けて固まっていた。
甘やかすと人は堕落を覚える。法務部は、法律家である私の仕事を横目で見ていただけ。自分では何もできない。
他部門は、すっかり法務部に甘えるクセがついた。自走はせず、今まで通り次々案件を相談という体で持ち込むだろう。使えなくなった法務部に。
監査役と内部監査室に、過去の処理案件の問題について通報をしておいた。中には株価への影響がありそうな問題や官公庁から睨まれそうな未報告案件が眠っている。1件でも大変な案件が、私が確認できた書類の保存期間分、23年分襲いかかる。その多忙さは絶望的だ。
さて、同期が日本を離れる私の送別会を開いてくれる。今から向かうね、とLINEで送り、高層ビルから足早に会場に向かった。忙しいのにわざわざ地方から会いに来てくれる人もいる。遅れると申し訳ない、私は大急ぎで最後のタイムカードを切って、ドアをあけたまま社員証をシュレッダにかけた。