第二章 闇内オウマとプログラミング研究部1/5
白ノ宮学院中学校の放課後。計楽賛香は一人廊下を歩いていた。計楽はプログラミング研究部に所属する三年生であり部長だ。部長の自分が部活の時間に遅れるわけにもいかないと計楽は足を速める
ここで計楽はカバンからスマホを取り出してスマホ画面を指先でタップした。部室はクラスの教室とは別校舎にあり、歩いて三分ほど掛かる。短い時間ではあるが、購入したばかりの漫画の続きが気になってしまい、読みながら部室に向かおうと考えたのだ。
大きな丸眼鏡の位置を指先で整えつつ、アプリを起動して目的の漫画を表示する。漫画の内容は大雑把に分類すれば恋愛ものだが、少しばかり過激な表現――端的に言うとエッチな表現が含まれていた。アダルトまではいかないが、思春期の身としては十分ドキドキするもので、学校内でそれを見ることにちょっとしたスリルも感じる。
(誰にもバレないようにしないと……)
計楽は周囲を警戒しつつ、スマホ画面に表示された漫画に視線を落とした。漫画の主人公は高校三年の天然系女子。階段を踏み外して転落しかけたところ、王子様系の年下男子に助けられたことから二人の恋愛が始まる。何とも捻りのない話だが、現実に即している分、感情移入しやすいというものだ。
(まあ現実に即しているからと、現実にあるかどうかはまた別の話だけど)
胸中でそんな茶々を入れつつ、計楽は栗色のおさげをユラユラと揺らしながら廊下を進んでいく。階段が近づいたところで計楽はスマホ画面からちらりと視線を上げた。ちょうど上階から一人の男子生徒が降りてくる。白ノ宮学院中学校は低学年ほど教室が上階にあるため恐らく一年か二年の生徒だろう。
男子生徒が目の前を通過するのを待ち、計楽は階段を下り始めた。階段を踏み外さないよう注意しつつ視線を下げて漫画の続きを読み始める。そしてスマホ画面をスワイプしてページ送りをしたその時――
計楽の目にこれまで見たことのない濃厚な大人の世界が飛び込んできた。
(ちょおおおおお――いくら何でもこれはやりすぎじゃないの!?)
思わぬ不意打ちに計楽は顔を真っ赤に染めた。まさかこれはアダルト漫画だったのか。それとも昨今はここまで過激な表現が許されているのか。困惑と興奮にグルグルと高速回転する思考。計楽は食い入るようにスマホ画面を見つめつつ階段を降りて――
ここで段差を踏み外す。
「――ふわあ」
間の抜けた声が出る。ゆっくりと流れていく時間。自分の体が前に傾いていくのが分かった。反射的に目を閉じる。これを最後にもう二度と目を開けることはないかも知れない。そんな恐ろしい予感が計楽の脳裏を過る。流れていた一瞬が過ぎ去り――
大きな音を立てて計楽は階段から転落した。
「……つ……つつ……」
目を閉じたまま計楽は呻いた。全身がズキズキと痛んですぐには動けそうにない。だが思いのほか大きな怪我などはなさそうだ。少なくとも痛みだけで判断すれば軽傷だろう。
(だけどこういうのって……痛みがないだけで実際は大怪我しているパターンじゃ……)
そう思うと恐くて閉じた目をなかなか開けられない。不安に駆られながらも痛みが過ぎ去るのを待つ。そしてしばらくして――
「いてて……」
自分ではない声が近くから聞こえてきた。
(……あれ?)
計楽はふと気付く。階段から転落したのであれば自分は冷たく硬い廊下に倒れているはずだ。しかしうつ伏せに倒れた体にその感触はない。倒れた体の下には柔らかな何かがあったのだ。浮かび上がる疑問。計楽は心を決めてゆっくり閉じていた瞼を開いた。
視界が掠れている。階段から転落した際に眼鏡を落としたらしい。計楽は痛めた体をどうにか動かして上半身を起こした。掠れていた視界が焦点を結んでいく。倒れていた計楽の体。その下には――
うつ伏せに倒れた男子生徒の姿があった。
「ひ――ひぃああああああ!?」
計楽は悲鳴を上げて倒れている男子生徒の背中から離れた。尻もちをついたまま後退りしたところで、計楽は足元に眼鏡を発見してそれを拾った。眼鏡を掛けて改めて男子生徒を見やる。倒れていた男子生徒が身動ぎしてゆっくりと体を起こした。
「いてて……えっと……何がどうなって」
男子生徒がきょろきょろと視線を巡らせる。困惑している彼を見て、計楽はようやく状況を理解した。自分が階段から転落した際、偶然前にいたこの男子生徒を巻き添えにしてしまったのだろう。そして男子生徒がクッションになったおかげで自分は大怪我を免れたのだ。つまりこの男子生徒は――
(あたしの……命の恩人)
ここで男子生徒の視線が計楽にピタリと合う。ブラウンの瞳をパチパチと瞬かせる男子生徒。彼の綺麗な瞳に一瞬魅入られそうになりながら、計楽は慌てて頭を下げた。
「あ、あの……ごめんなさい」
「ごめんなさいって……なにが?」
「あたしが階段から落ちて……それで貴方を巻き添えにしちゃって」
計楽の説明に男子生徒が「ああ、そういうこと」と間の抜けた返事をする。どうやら階段から突き落とされたことに今しがた気づいたらしい。大事故にもかかわらずどこか呑気なその男子生徒に、計楽は躊躇いつつ尋ねる。
「あの……怪我とかは大丈夫? どこか怪我しているなら先生とか呼んでこようか?」
「ん? ボクは大丈夫ですよ。それより貴女は怪我とかありませんか?」
「あたし? あたしも……大丈夫」
「そう? それなら良かった」
男子生徒がニッコリと微笑む。なんて可愛らしい笑顔だろうか。しかも階段から突き落とした人間の怪我まで心配してくれるなんて心優しい人だ。男子生徒の温かな瞳に見つめられ、計楽はどうしようもなく胸がドキドキと高鳴るのを感じた。男子生徒が気楽な調子で立ち上がり――本当に大した怪我もないらしい――計楽に手を差し出す。
「立てますか?」
男子生徒の気遣いに計楽は「へ、平気」と頷いてからフラフラと立ち上がった。そしてすぐに後悔する。男子生徒の手を握れるチャンスだったのにみすみす逃してしまった。
「それじゃあボクは行きますけど、これから階段は気を付けてくださいね」
「う、うん……ああ、あの――」
踵を返そうとした男子生徒を呼び止める。「ん?」と首を傾げる男子生徒。怪訝な顔をしているその彼に、計楽は最大限の勇気をもって口を開いた。
「名前……名前を教えてくれない?」
「ボクの名前ですか?」
「あ、あのほら……もし後から怪我が見つかった時とか……ちゃんとお詫びしたいから」
「気にしないでください。本当に何でもありませんから」
「だけどその……あ……それとも知らない人に名前とか言うの……やっぱり抵抗ある?」
不安から上目遣いにそう尋ねる。きょとんと目を丸くする男子生徒。計楽はドキドキと緊張しながら彼の返答を待った。しばらくして男子生徒がニッコリと笑う。
「一年の光月ユウです」
「こ……光月くん……そっか。光月くんか。あ……ごめんなさい。あたしは三年の計楽賛香って言うの。本当に今日はごめんなさい」
男子生徒の名前――光月ユウ。その名前を脳内に保存しながら計楽はぺこりと頭を下げた。光月が「失礼します」と踵を返して階段を下りていく。離れていく光月の背中をじっと見つめる計楽。階段を下りた彼が廊下の角を曲がりその姿を消した。
光月の姿が見えなくなった後も、計楽は階段の下をぼんやりと見つめる。そしてふと足元に自分のスマホを見つけた。保護シートのおかげかスマホ画面は無事だ。スマホを拾い上げて起動する。スマホ画面に先程まで読んでいた漫画が写し出された。
階段から転落しかけたところを助けられ、ヒロインは助けてくれた男性に恋をする。現実に即していながらも実際には起こりえないだろう創作物。少なくともそう考えていた。計楽はスマホを胸に抱きしめて――
「光月……ユウくん……」
赤く染めた頬を緩ませた。