第五章 闇内オウマと魔王リリス3/5
「闇に捉えた人間が魔族に造り変えられるまで――おおよそ一時間」
体育館の外から生徒たちの悲鳴が立て続けに聞こえてくる。体育館の床を満たしている漆黒の闇。そこから伸ばされた闇色の腕が生徒たちを闇の中に引きずりこんでいるのだろう。苛立ちから瞳を尖らせるオウマ。その彼女の視線に睨まれつつ――
魔王スキアーが朗々と言葉を続けた。
「放課後とは言え、この校舎には生徒と教師を合わせて数百人の人間がいる。それら全てを魔族へと造り変えて魔王軍に加える。リリス。君が望んでいたようにね」
スキアーの瞳が音もなく細められていく。
「本当に素晴らしい考えだよ。私は君の魔力が回復するのを待とうとしていた。だが今にして思えば、何を悠長なことをしていたのかと反省しているよ。これだけの軍勢があればすぐにでも元の世界に帰れる。そして君を滅ぼした人間に復讐できるんだ」
「――っ、ふざけるではないわ! わしはそのようなこと望んでおらんぞ!」
勝手なことを話すスキアーにオウマは声を荒げた。だがスキアーの歪んだ笑みは消えない。むしろ表情をより恍惚なものにして、スキアーがその銀色の瞳を輝かせる。
「照れなくてもいいんだよ、リリス。私は君の許嫁なんだ。君の考えていることは手に取るように分かる。分かって当然なんだ。君の願いは私が叶えてあげるよ」
「寝ぼけたことを言うではない! さっさと魔法を解いて人間を解放せんか!」
「そう焦らないでくれ。さっきも話したように、人間を魔族に造り変えるには一時間ほど掛かるのさ。できる限り早めるつもりだが気長に待ってくれ」
話がまるで通じない。オウマは苦々しく奥歯を噛みしめる。だからこの男は嫌いなのだ。当時から思い込みが激しく、こちらの声に耳をまるで傾けようとしない。
(くそ――面倒な奴じゃ!)
スキアーに魔法を解く意思がないのならば仕方ない。スキアーを始末して魔法を解除する。オウマは瞬時に決断して集中力を高めた。両腕を広げてオウマを見つめているスキアー。危険な眼光を輝かせているその男に、オウマは魔法を打ち込もうとして――
ここで幼馴染の姿が脳裏に浮かぶ。
(しまった――ユウが!)
魔法が白ノ宮学院中学校全体を対象としているのなら、一年C組の教室で待機しているはずのユウもその脅威に晒されているはずだ。オウマは魔法を中断してすぐさま駆け出した。まずユウを安全な場所に非難させる。スキアーを叩くのはその後だ。そう考えて体育館の出口に向けて駆けていると――
突如球状の魔法陣が展開されてオウマの体を包み込んだ。
「――く! これは!?」
狼狽するも束の間、展開された魔法陣から蔓のような光が伸びてオウマの全身に絡みつく。対象を拘束する魔法。オウマは鋭く舌を鳴らしてスキアーを睨みつけた。苛立つオウマにスキアーが肩をすくめて苦笑する
「照れ隠しも度が過ぎると可愛くないよ、リリス。君はここにいるんだ」
「この――離さんかこの馬鹿たれが!」
「それはできない。私はもう君とは片時だって離れたくないんだ。それにしても――」
スキアーが嗜虐的に笑う。
「本当に魔力が衰えてしまったんだね、リリス。この程度の拘束。昔の君ならば容易に破壊できていただろう。もはや君の実力は私に遥かに劣っている。以前は無理なことではあったが、この様子なら君を力尽くにモノにすることもできるかな?」
「――っ……貴様」
表情を青くするオウマに、スキアーが「……なんてね」と微笑みを柔らかくする。
「私は紳士だと話したはずだよ。そのような強引な真似はしないさ。君が私の言うことを聞いてくれている限り、私が君を傷つけることは決してないから安心してくれ」
それはつまり、スキアーの意思に反することをすれば容赦しないということだ。オウマは苛立ちに歯ぎしりする。力により自由を奪われる。それは魔族において屈辱的なことだ。だがいくら腹を立てようと、全身を拘束する魔法陣を破壊できそうにない。
「さてと……人間が魔族に造り変えられている間、帰る支度をしておこうか」
スキアーが自身の左腕を右手で掴んで、左腕を無造作に引き千切った。足元の闇にスキアーの血が飛び散る。だがスキアーは苦痛に表情を歪めるでもなく、平然とした様子でその千切り取った左腕を放り捨てた。
スキアーの左腕が床に跳ねて破裂する。周囲にばら撒かれる大量に血液。その血が床を覆っていた闇の表面を滑るように走り、巨大な赤い魔法陣を描いた。
赤い魔法陣が輝きを放つと同時、魔法陣から不気味な門が出現する。体育館の天井付近まで届くほど巨大かつ禍々しい気配を湛えた門。それは魔力により具現化された――
異世界と繋がる『異界の門』だ。
「この門は君の世界とつながっている。魔王軍の再建が終わり次第、一緒に戻ろう」
左腕を再生させるスキアーに、オウマは舌打ち混じりに言葉を吐き捨てた。
「何度も言わせるではない! わしは元の世界に戻るつもりなどない!」
脳裏に浮かぶ幼馴染の姿。どこか間の抜けた表情をする少年。光月ユウ。彼を思い浮かべながらオウマはそう唾を飛ばした。元の世界への帰還。それを頑なに拒むオウマ。魔法陣に拘束されながらも瞳を鋭くするその彼女にスキアーが首を傾げる。
「どうしたんだい? 君が望むように魔王軍も再建されて何の不満もないはずだ。それともまだ何かやり残したことがあるのかい? 例えばこの世界の人間を殲滅するとか?」
「――貴様!」
「申し訳ないがリリス。それは無理だ。この世界に魔法はないようだが、魔法より厄介な科学がある。いくら私たち二人でもこの世界を支配するのは容易じゃない」
「人の話を聞けと言うのに!」
「支配するに魅力ある世界でもないしね。ここは素直に元の世界に帰ろう。それともやはり魔力が不完全なことが不安なのかな? ならば私がそばにいて君を守ってあげよう」
「一人で話を進めるな! そもそもわしは誰にも守られん! 貴様などには特にな!」
苛立ちのまま叫ぶ。スキアーの守るという発言。それを一蹴するオウマに――
スキアーが何とも可笑しそうに笑った。
「何を言っているんだい。君はこの世界にいる間、ずっと私に守られていたじゃないか」
「……なんじゃと?」
オウマは眉をひそめる。スキアーがさらりと告げた言葉。その意味が分からない。困惑するオウマに、スキアーが「ああ、そうか」とふと気付いたように頷いた。
「この話はまだしていなかったね。先程も説明したが、私はこの世界での君の生活を時折監視していた。だがただ見守るだけではない。この世界に移動するだけの魔力は不足していたが、私は君の力になりたかった。だから私は用意したのさ。君を守るための駒をね」
オウマの背筋が凍えた。
スキアーが何を話しているのか。それはまだ分からない。理解できない。だが予感がした。この話の先にある絶望的な事実。それを聞いてしまう。知ってしまう。そんな根拠のない予感。肺が潰されたように呼吸が苦しい。心臓が破裂するほどに音を立てる。無意識の自分が警告しているようだ。耳を塞げと。話を逸らせと。さもなければ――
心が壊れてしまいかねないと。
「選挙戦の魔法と同じさ。私はとある人間の深層心理に命令を書き込んでおいたんだ」
カタカタと目を震わせるオウマ。彼女の反応を無視して、スキアーが楽しげに語る。
「君に降りかかるあらゆる危険から、君を命に代えても守るようにとね。人間など大した力もないが使い方次第では役にも立つ。本来の君には必要のない配慮だが、幼い頃の君は今以上に魔力が不完全だったようだからね。念のために準備しておいたんだ」
スキアーの話を聞きながら思い出す。小学校一年生の頃。不注意から川に転落した。すると転落した自分を助けるために一人の少年が迷いなく川に飛び込んでくれた。川から脱出して少年に問い掛けた。どうして川に飛び込んだのかと。その問いに少年は――
なんだか助けなきゃいけない気がしたと、そう曖昧に答えた。
「問題は誰に君を守らせるかだ。最初は大人の人間を選ぶつもりだった。だが見知らぬ大人が幼い子供に近づくというのは不自然であり君に怪しまれるかも知れない。ゆえに君が怪しむことなく、かつ自然に近づける人間――子供を利用することにした」
さらに思い出す。珍しく風邪をひいて寝込んでいた時。少年が手を握りながら元気になるおまじないをしてくれた。気恥ずかしく顔を赤くしながら少年になぜ自分に関わるのかを尋ねた。すると少年は――
理由は分からないが守らなければいけない気がすると、また曖昧にそう答えた。
「子供にできることなどたかが知れるが、君を守るための盾代わりぐらいにはなる。君の身代わりにその人間が壊れたのなら、また新しい人間を探せばいいだけだしね。まあ先程も話したようにあくまで念のためだ。遠く離れた異世界。私にできることは限られていた。その制限がある中で君のためにした行動。それを評価してくれると嬉しい」
ここでスキアーが――
致命的な問いを口にする。
「ところでリリス。君ならその駒が一体誰なのか想像ついているんじゃないのかな?」
それに答えるべきではない。もしそれに答えれば取り返しがつかない。築いてきた想いが壊れてしまう。積み重ねてきた心が消えてしまう。そんな予感がした。だというのに自然に口が動く。それを形にしてしまう。制止しようとする自分を振り切り――
オウマはその名前を口にした。
「光月……ユウ?」
「彼は私が用意した――駒だよ」
頭が真っ白になると同時――
目から涙がポロポロとこぼれた。
「……どうしたんだい、リリス?」
泣きだしたオウマを不思議に思ったのかスキアーが眉をひそめる。スキアーの疑問には答えず、オウマは溢れてくる涙を懸命に堪えようとした。スキアーに弱みを見せてはならない。この男に弱みを見せれば必ずそれを利用される。利用してこちらを支配しようとする。その弱みが大きければ大きいほど――
その支配に抗うことは不可能となる。
だが駄目だった。幾ら堪えようとしても涙がこぼれる。胸が苦しくて体が震える。魔王の威厳も何もない。ただ泣きじゃくるだけの小娘。それが心を壊された人間――
闇内オウマの今の姿だった。
スキアーの瞳に闇が浮かぶ。オウマの弱みに気付いたのだ。涙をこぼしながら体を震わせているオウマ。その彼女を観察するようにしばし眺めて、スキアーがニヤリと笑う。
「もしかしてリリス……君はその駒である人間に僅かながら情を感じていたのかな?」
「……だ……だま……れ」
必死の抵抗。だが声が掠れていた。これでスキアーは確信したのだろう。闇内オウマが抱えている重大な弱みに。スキアーが歓喜したように声を上げた。
「そうなのかい!? リリス! なるほどそういうわけか! 君がどうも元の世界に帰ることに消極的かと思えば、駒のことを気にしていたんだね!? はっはっはっはっ! これは驚いたよ! まさか魔王である君が人間を気に掛けるとは予想外だ!」
「だ――黙れと言っておるじゃろうが!」
「ああ……リリス。私だけのリリス……」
口調を穏やかなものにして、スキアーがその表情を愉悦に歪めた。
「すまない。リリス。どうやら君を傷つけてしまったようだ。まさか君が人間に情を抱くだなんて思ってもみなかったんだよ。やはりリリスは優しいね。だけどリリス。君は何も悲しむことなんてない。苦しむ必要なんてない。なぜなら私がここに居るからだ」
スキアーがクイッと指先を折る。オウマを拘束する魔法陣。それがスキアーのもとに近づいていく。涙に濡れた瞳でスキアーを睨みつけるオウマ。その彼女を大切な玩具を見るような目で眺めているスキアー。魔法陣がスキアーの目の前で停止する。懸命に瞳を尖らせるオウマにスキアーが優しく語り始めた。
「君があの駒に抱いた感情。それは決して無駄ではない。君はあの駒に向けていた感情をそのまま私に向ければいいだけなんだよ。なぜなら君を守っていたのは他でもない私だからだ。彼は私に操られていただけ。そこに何の感情もないのだからね」
スキアーの言う通りだ。ユウはスキアーの魔法に操られていた。そこに彼の意思などない。感情も想いもない。魔王リリスを守るために用意された人間。そのための駒。光月ユウ。彼はその役割を果たすためだけに――
自分と一緒にいてくれたに過ぎなかった。
「これで分かってくれただろ? 魔族である君が人間に情を抱く必要などないと。君はただ私だけを見ていればそれでいい。人間に抱いたその想いもまた幻なのだから」
そう。全てが幻だ。魔法に実体がないように、魔法で築かれた関係性も、そこで抱いた想いも、幻に過ぎない。ただそれを幻と気付かず一方的に押しつけていただけだ。
(……全てが……まやかしじゃった……)
初めから自分のそばには誰もいなかったのだ。どこか間が抜けていて、だがとても優しい笑顔を向けてくれる人。気心の知れた幼馴染。そのような人間――
(どこにも……おらんかったのじゃ……)
ならばこの世界に留まる意味はあるのか。彼が存在しない世界に拘る理由はあるのか。魔族は世界を喰らう種族。その魔族がただ安穏と生きるなどあり得ない。この世界での記憶。抱いた想い。それが幻だと気付いたのなら、魔族としての矜持を果たすべきではないのか。魔王としての役割に殉じるべきではないのか。もうこれ以上は――
夢を見るべきではないのではないか。
(……わしは……もう……)
オウマの瞳から涙が枯れる。
「……分かってくれたんだね、リリス」
スキアーが嬉しそうに頷く。スキアーの優越感に満ちた表情。普段ならば腹を立てただろう。だがもはや何も感じない。怒りも悲しみもない。弱みを握られて敗北した。心を掌握された。抵抗する気力もない。考えるのも億劫だ。これからはただ――
スキアーの指示に従っていればいい。
そうすれば何も考えずに済むのだから。
「ああリリス……ようやくだ……ようやく本当に私のものになってくれたんだね」
スキアーが歓喜に体を震わせる。
スキアーの魔法。それは対象の深層心理に命令を書きこむものだ。オウマはすでにその術中に嵌められていた。普段の彼女ならば軽々と払い除けるだろう脆弱な魔法。しかし精神を揺さぶられたことで彼女の魔法に対する防御壁に隙が生じた。その隙を見逃さずスキアーが彼女の深層心理に潜り込んだのだ。
オウマの意識はスキアーの魔法により誘導されている。スキアーの用意した結論に無意識に進んでいる。だがオウマ自身はそのことに気付けない。それが自分の意思だと疑わない。スキアーの所有物となること。それが自分の望みなのだとオウマは考えていた。
「もうこんな拘束はいらないね。苦しかっただろ? すぐ自由にしてあげるから」
スキアーの声。その声にオウマは機械的にこくりと頷いた。こうして彼に従っていればいい。それで全てが上手くいくのだから。スキアーが魔法を解こうと手を払い――
「――オウマ!」
ここで声が聞こえた。
オウマは呆然とした。スキアーの魔法により人間は闇に呑み込まれ、校舎に残されたのは魔族である自分とスキアーの二人だけであるはず。ならばこれは一体誰の声なのか。
否。そうではない。そのような疑問を抱くはずがない。そのような疑問は在り得ない。誰よりも近くでその声を聞いてきた。誰よりも多くその声を聞いてきた。何年も前から当たり前のように隣にいた。当たり前のようにつながっていた。その彼の声を――
幼馴染が聞き間違えるわけがない。
俯けていた顔を持ち上げる。床一面が闇に覆われた体育館。その出入口。大きな下駄箱が並べられた玄関から中に一歩足を踏み入れたその場所に――
光月ユウが立っていた。




