第四章 闇内オウマと戸塚正義1/6
とある四月中旬。一人の少年が河川脇の通りを歩いていた。通りに植えられた桜からハラハラと降る薄紅色の花弁。それを何の気なしに眺めている少年。少年の背には大きなランドセルが背負われており、その重さに少年の小さな体がフラフラと揺れていた。
小学校に入学したばかりの幼い子供だ。ブラウンの髪と瞳。背丈は同年代と比較してやや小柄か。少年が通りを曲がり河川の橋を渡り始める。河川の幅は約十メートル。さして距離のないその橋をのんびり進んでいく少年。そして橋の中盤に差し掛かった時――
「ついに見つけたぞ」
闇内オウマは少年に声を掛けた。
少年が足を止めてふと視線を上げる。橋に設けられた転落防止用の柵。少年の背丈よりも高いその柵の上にオウマは立っていた。パタパタとブラウンの瞳を瞬かせる少年。どこか間の抜けた反応をするその少年に、オウマはニヤニヤと嘲りの笑みを浮かべる。
「なんじゃ? その様子を見る限り、わしが何者か分からぬようじゃな」
ツインテールにした黒髪を揺らしながらオウマはそう言った。オウマの言葉にきょとんと首を傾げる少年。自身がどれだけ危機的状況にあるか。それを理解していないらしい。哀れな少年に同情をしながら、オウマは少年よりも小柄な自身の体をふんぞり返らせた。
「ならば教えてやろう! このわしが何者であるか! そして恐れ慄くがいい! 貴様が前世において犯した大罪! その罪を精算する日がついに訪れたのだということをな!」
「……ゼンセ?」
「このわしこそ、転生術により生まれ変わりを果たした、貴様の宿敵たる魔王じゃ!」
少年がぽかんと目を丸くする。オウマは笑みを浮かべたまま少年の反応を観察した。少年の表情がみるみると青ざめる。オウマはそれを期待していた。だがいくら待とうと少年のきょとん顔に変化はない。オウマは怪訝に感じて眉をひそめた。
「……どうした? なぜ驚かぬ? なぜ慌てふためかぬ? 恐怖のあまり小便をちびっても構わぬのだぞ? さあわしに構わず盛大にちびるがいい」
「……マオウってなに?」
「な、なんじゃと?」
「難しい言葉ばっかりでボク分かんないよ」
少年が頭の上に疑問符を浮かべる。少年のこの反応に、今度はオウマのほうがポカンと目を丸くした。柵の上から少年を見下ろすオウマ。目尻のつり上がった黒い瞳を細めて、彼女は少年の姿をじっと見つめた。
「人違い……か? いやしかし……こやつから感じる魔力……間違いないはずじゃが」
「どうしたの、君?」
「ふ……ふははは! なるほどそうか! そのような作戦に出たか!」
気を取り直してオウマはまた哄笑する。柵の上で一人笑うオウマを不思議そうな目で見つめる少年。オウマはズビシと少年を指差して口元から犬歯を覗かせた。
「姑息な手を使いおって! 惨めなものじゃな勇者よ! しかしそのような演技でこのわしを騙し通せるとでも思うたか!? まったくわしも舐められたものよ!」
「ところで君ってダーレ?」
「やかましい! もうそのような芝居はいらぬと言っている! さあ雌雄を決する時が来たぞ! 前世で貴様に受けた屈辱! 何百倍にもして返してくれる!」
「もしかしてボクと同じ小学校かな?」
「抜け目ない貴様のことじゃ! 気付いておるのじゃろう! わしの魔力が不完全であることを! しかしそれは貴様とて同じ! 条件が同じならば勝つのはわしじゃ!」
「君の家はどこ? ボクはこの近くだよ」
「ただ殺すだけでは済まさぬぞ! その身に地獄の苦しみを刻み込み、魂までも微塵に砕いてくれる! 覚悟せよ! ほれ行くぞ! うおおお! ハイパーアトミック――」
「ボクと一緒に遊ぼうよ」
「――人の話を聞かんかぁあああああああああああああああ!」
ゼエゼエと息を切らせる。オウマに怒鳴られて少年がまた首を傾げた。しばしの沈黙。オウマは眉間に深いしわを刻むと、信じられない思いで少年に尋ねる。
「まさか貴様……本当の本当に……わしが誰なのか分からぬのか?」
オウマの問いに、少年がふと考え込む仕草をしてからポンと手を打った。
「分かった。昨日ワンワンに追いかけられてお尻を噛まれてた人だ」
「違うわ!」
「それじゃあえっと……公園のゴミ箱に頭を入れちゃって抜けなくなってた人だ」
「それも違う!」
「えっとえっと……テレビでやってた秘境で暮らす少数民族の人――」
「どれもこれも違うわあああああ!」
少年のトリッキーな人違いに、オウマは柵の上でダンダンと地団太を踏んだ。
「何をどう間違えたらわしが少数民族になるのじゃ! 貴様本当に何も覚えていないのか!? そんなわけなかろう!? 転生の術は記憶を引き継ぐはずじゃぞ!」
「うーん……ごめんね。忘れちゃったみたい」
申し訳なさそうにする少年にオウマはギリギリと歯ぎしりする。
「ぐう……信じられん。ようやく探し当てた宿敵がまさかこんな……」
「恐い顔してどうしたの? お腹痛い?」
「ええい! 黙らんかこのうつけが!」
頓珍漢な心配をする少年を一喝して、オウマは両拳を握りしめた。
「こうなれば記憶がなくても構わん! 今ここで積年の恨みを晴らして――」
ここで一筋の突風が吹いた。風に煽られてオウマの体がぐらりと揺れる。反射的に体勢を立て直そうと右足を後ろにずらして――
オウマは柵の上から足を踏み外した。
「ふわああああああああああ!?」
為すすべなく川に落下して水面に大きな水柱が上がる。落下の衝撃に目を白黒させるオウマ。だがすぐ冷静になり彼女は水面から顔を上げた。
「――ぶはぁ! げほっ! げほっ!」
咳き込みながらも大きく息を吸い込む。川の深さは水底に足をつけてギリギリ顔が出るくらい。幸いにも川の流れが穏やかのため溺れる心配はなさそうだ。「うう……おのれ!」と痛恨に歯を食いしばりながらオウマは頭上の橋を見上げた。
「逃がしたか……運のいい奴め。だが奴とは同じ小学校。次会った時こそ――」
そんなことを独りごちていると――
橋の上から何かが川に落下してきた。
「わぁあああああああ!」
橋から落下してきた何かが悲鳴を上げて川に着水する。すぐそばで弾けた水しぶきにポカンと目を丸くするオウマ。しばらくして水面にプカリと少年の体が浮かんできた。
「……なんでこやつまで落下してくる?」
意味が分からない。水面にプカプカと浮いたまま緩やかに流れていく少年。どうやら気絶しているようだ。このまま放っておけば少年は溺死して積年の恨みも晴らせるが――
「さすがにそれは……味気ないのう」
オウマは嘆息すると、水面にプカプカ浮かんでいる少年の襟首を掴んで川岸へと泳いでいった。もともと泳ぎは得意でさほど苦労もなく川岸に到着する。
堤防に設けられた通路。そこに少年を引き上げてオウマもまた川から出る。ここで少年が意識を取り戻してケホケホと水を吐き出しながら咳をした。
「あれ……ボクってどうしたんだっけ?」
きょとんと目を瞬かせている少年に、オウマは嘆息混じりに言う。
「橋から川に落下したんじゃろうが。わしが助けてやらなんだ死んでおったぞ」
「そうか……君が助けてくれたんだ。ありがとう」
ニパッと表情を輝かせる少年。オウマは舌を鳴らしつつ仏頂面で尋ねる。
「なぜ川に落下した。貴様の背丈では柵を無理やり乗り越えねば落下できんじゃろ」
「えっとね……君が落ちちゃったから助けなきゃって思ったの」
「はあ? 意味が分からんな。なぜ貴様がわしを助けねばならんのだ?」
「うーん……何でって言われても……なんだかそうしなくちゃいけないって思ったの」
まるで答えになっていない少年の返答に、オウマは大きく嘆息する。
「それで自分が溺れていれば世話ないわ。そもそもわしは人間ごときの助けなどいらん」
「そうなんだ……ごめんね」
少年の笑顔がやや曇る。オウマはまた鋭く舌を鳴らすと拗ねるように唇を尖らせた。
「もういいわ。貴様はさっさと帰れ。興が削がれたゆえ今日のところは見逃してやる」
「君の話はもういいの? それじゃあボクと一緒に遊ぼうよ」
曇らせた表情をまた明るくする少年。彼の言葉にオウマは「は?」と顔をしかめた。
「なぜわしが貴様なんぞと遊ばねばならん。わしの気が変わらぬうちにさっさと消えろ」
「学校が始まったばかりでボクまだ友達が少ないんだ。だから一緒に遊ぼう」
「くどいぞ。いい加減にせねば――」
だがここでふと思案する。少年が勇者の転生体であること。それは少年の特徴的な魔力からも間違いない。だがどういうわけか少年は前世の記憶を失っているようだ。いつ記憶が戻るか分からない以上、すぐそばで見張っておくのが良いのかも知れない。
「……はあ……貴様、名は?」
不承不承尋ねる。オウマの返答を承諾と受けてか少年が頬を鮮やかに染めた。
「光月ユウだよ。君は?」
「……闇内オウマ」
「オウマだね。これからよろしく」
ずぶ濡れの少年が差し出した手を――
オウマは「ふん」と適当に払い除けた。




