88話 ゴロウ(その七)
ゴンゾウとミドリにとっての幸せな時間。
それは、俺にとっての幸せな時間でもあった。
だけど、それは、長く続くことは無かった。
それからと言うもの、俺は悔やんでばかりいる。
『あのとき、あれをしときゃ良かったんだ』
『あのとき、あれをしなきゃ良かったんだ』
俺はずっと、立ち止まっては振り返っていた。
ただそれだけで、前を見ていなかったんだ。
現実から目を背けて、何もしなかった。
だから、また時間が経つ度に、『あのとき……』と、後悔だけが増えていくことになる。
そうだ――俺は、前を向かなければいけない。
しっかり生きろと、そう言われたじゃないか!
顔を上げた俺は、ゴンゾウの顔を見た。
もはやこの世界に未練は無いと言っていたゴンゾウは、実に晴れやかな顔をしていることに気が付いた。
現実を受け入れよう。もう、後悔はしない。
後悔しないように、ここで、最善の行動を取るんだ。
それに……全てを諦めたわけでは無いのだから。
そんな俺の決意をわかってくれたのか。
ゴンゾウは微笑み、そして自らの死の段取りを始めた。
「インプを……我が子を最初に殺めた方法は『毒殺』だった。あのときに抱いた情は、もしかすると……いや、今更、これは言い訳だな。
――さて。これから、わたしはこの子たちと、毒薬入りのキュリー汁を飲むことにする。シンジくんがこの子たちに自ら飲むように、そして自ら死ぬように言ってくれれば、残滓とやらも完全に消滅することだろう」
残滓が消滅して、ゴンゾウと共に寄生した変異種も消滅する。
まさに、この世界にとって望ましいことが二つ同時に起こることになる。
あとはそれを、当事者たちが受け入れれば良いだけ。
淡々と段取る本人は言うまでもなく、俺にもすっかり覚悟は出来ていた。
「だが一つだけ……気掛かりがある。わたしが完全に死ぬことで、わたしと同じ時期にこの世界に来た人間の生き残りがゴロウとなる。
ユキ……わたしは、お前を信じるよ。ゴロウにとって幸せな道に、導いてやってくれ……」
依然として赤く目を腫らせたミドリは、口元を両手で押さえたまま頷いた。
そこには少しの間があったように思えた。
ゴンゾウの思いは、ミドリに間違い無く届いたことだろう。
でも、ミドリの本心、意思とは別に働く何かが、一瞬の戸惑いを生んだに違いない。
ゴンゾウはその答えにまた微笑んで見せた。
毒薬を持ってくる、と言うゴンゾウの後ろに、俺も続いた。
その場には、そんな行動に疑問を持つ者はいなかった。
――またあのときと同じように、今度はこちらから抱擁をしたかった。
でも、変異種のせいでそれは叶わない。
ゴンゾウが薬を探すその間に、最後にかける言葉を考えた。
俺は最後に三つだけ、
「ありがとう」
「幸せだった」
「さっさとくたばれよ、じじい!」
と、満面の笑みを浮かべて言ってやった。
嗚咽と共に泣きじゃくるゴンゾウは、出会った頃よりもだいぶ小さく見えた。
そうだ、こんなにも、時は流れていたんだな――
部屋に戻ると、ゴンゾウからシンジに改めてのお願いがされた。
俺を見て確認するシンジに、黙って頷く。
「……お前たち、自分の名前はわかるか?」
「ギャ?」
「ギャだギャ」
「ギャ」
シンジの力は、会話が可能な変異種となら、意思の疎通も可能とするようだった。
そんな粋な計らいにも、やはり俺が一度だけ呼んだ本当の名前など覚えていなかったようだ。
「お前たちの本当の名前は、コユキだ」
「……こ」
「ゆ」
「き?」
何かを思い出したのか。
何かを思ったのか。それはわからない。
でも――三体のインプの、その大きすぎる一つ目に憂いが宿る。
そして次の瞬間、その目には涙が浮かんだ。
「そ、そうだ……お前たちに、教えたよな?」
無駄なことだとわかっていたから、それが一縷の望みであることなどわかっていたから。俺自身も忘れていたことだった。
「良い匂いがする人に会ったら、何て言うんだ?」
言葉はわかっても、会話が成立しない。
こいつらは、目で見て人を認識して、匂いを嗅いで人を見分けている。
今この場でも、それが叶わぬ望みだろうとは思っていた。
でも、最後の最後に、奇跡を信じたかった。
そして、それは――叶った。
「……いい、匂い?」
「……する、ギャ」
「あの姉ちゃん、良い匂いするギャ!」
三体は一斉に、ミドリを見た。
そして直ぐに、口を揃えて言った。
「母ちゃん、長生きしろよ!」
シンジの力を同期していたから、俺の言葉が、思いがコユキに届いたのだろう。
自身のお腹に宿していた我が子を見つめるミドリ。そんな母親の匂いに気が付いたのだろう。
既に死んでいるゴンゾウの匂いはわからなかったようだが、これから死ぬ人間に言う言葉では無いから、結果オーライというやつだろうか。
「ありがとう……ありが、とう……」
それだけの、感謝の言葉を振り絞ると、ミドリはその場に泣き崩れた。
一層の決意が固まったゴンゾウの意思を汲み、シンジはコユキにお願いをする。
「コユキ。これからお前たちには、毒入りのキュリー汁を飲んでもらう。これを飲んだら、美味しいけど死んでしまうんだ。それでも飲むか?」
「ギャ?」
「血を吐きゅやつだギャ」
「それでも美味しいを選ぶギャ!」
「わかった。じゃあ、お前たちの口からこう言ってくれ……」
シンジの言葉そのままを、コユキが続けて、満面の笑みで口にする。
「毒を飲んで自死するギャ!」
その言葉を聞いて、ゴンゾウは毒入りキュリー汁の入ったコップを一つ、コユキに渡した。
未だに網の中に入っている三体は、いつもの並び順に、言葉を発する順に、それを三分の一ずつ飲み干す。
そして、順々にゲップをした。
「ギャ!」
「やっぱりキュリー汁は美味いギャ!」
「うっ!!」
よほどの即効性があるのか。
最後に毒を口にしたコユキが呻き声をあげると、三体が同時に吐血する。
そして一瞬のうちに、その姿は消失した。
「どれ……」
次はわたしだな。そう言うと、ゴンゾウは毒々しい緑色の液体を一気に飲み干した。
粘度の高い甘ったるい汁が喉にからんだのか、「ごほっ、ぐほっ」と、激しくむせ返る。
最後の言葉を待つ面々。
だが、むせるその咳には、すぐに血が混じった。
そして、言葉も出せないまま――ゴンゾウも、消失した。




