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85話 ゴロウ(その四)

 月灯りに照らされた男の醜い笑みから漏れ出るのは、これまた醜い息遣い。

 そんな僅かな音ですら、そのときの俺には痛いくらい耳障りに聞こえた。

 その他には――これはどうでも良いのだが、小さくなったことを楽しんでいるのか。やけに小さく豪快な「がはは!」という笑い声が聞こえていた。


「取り敢えず、ここは見逃してくれや。捕まえた女、お前にも分けてやっからよ!」


 顔の傷を指でなぞりながら醜い笑みを続ける男に、いい加減虫唾が走る。

 俺は我慢出来ず、顔に傷を付けた女のことを問う。


「……ちっ。今更そんなこと思い出させんじゃねえよ。――まぁ、だけど、こんなすげえ力を持つきっかけをくれた女だからな。良いぜ、特別に教えてやる。

 ――俺はな、馬鹿な女ばっか狙ってたって言ったろ? 加えて、年増の女が大好物なんだ。あの女は馬鹿の中でも極上だったなぁ……。顔も良いし、からだも、声も最高だった。旦那が刑務所に入ってるから、からだを売るしか生きる手段が無いってよぉ、馬鹿な女だよな!

 ちょっと上手いこと言って誘えば、簡単に俺の家にやって来るだろう。そう思ったんだが……」


 男は、『決めた。お前を養ってやるから俺の家に来い』という口実を垂れたらしい。

 『何故私なんかを?』そう問うた母に、『お前を好いたからだ。からだなんか売らなくても、今よりもずっと良い生活をさせてやる。だから、罪人の旦那なんて捨てて、俺に付いてこい』と答えたらしい。

 だが、頭が悪くてお人好しの母は、男を拒絶した。

 『私は、生涯あの人しか愛せません』と、笑顔で言い切ったのだという。


「あの女、頭がわりい癖しやがって……んで、気付いたら女の首を絞めてたんだが、あいつ、予想以上の力で抗ってきやがった。結果――この傷だ」


 傷に触れながら、まるで運が悪かったとでも言わんばかりの男は、終始ニヤけていた。

 母は殺されたのだ。目の前の、醜い笑みを浮かべるこの男に――



「お前のせいで……お前さえいなければ、母ちゃんは死ななかったんだ!」

「――っ!? まさかお前、あのばかの息子か!?」


 まさかの運命的な出会いに、母の仇を思う俺は頭に血を上らせ、男は血の気を引かせて驚いていた。

 だが直ぐに、俺の殺気に気付いたのか、男は目の前に手をかざした。


「馬鹿が。黙ってりゃあ死ぬことも無かったのにな。ぎゃはは! 願いどおり母ちゃんに会わせてやるよ。あの世でな!」



 俺も同僚と同じように小さくされて、踏み潰されて死ぬのだろうか。

 一瞬そんなことを思うと同時に、地面を強く蹴っていた。

 男に向かって、前も見ずにただがむしゃらに突進した。すると、直ぐに何かにぶち当たる。

『見えない壁が何だって言うんだ……目の前に忌まわしい、母ちゃんの仇が居るんだ!』

 向こう見ずに、ただただ壁を殴りつけた。


 拳が砕け、血だか皮膚だかが飛び散っている気がするが、そんなのはどうでも良かった。

 殴って、殴って――涙を流しながら、母を思いながら、ただひたすらに殴った。



 気が付くと、俺は地べたに座り込み、夜空を見上げていた。

 ふと、両手の甲を顔の前にかざして見る。

 真っ赤でボロボロになった拳からは、白い骨も覗いているようだった。


 ひたすら殴った壁はどうなったのだろうか。

 あの男は、壁を殴り続ける俺をあざ気笑い、去ったことだろう。

 目線を空から目の前に向けると、予想もしない光景が広がっていた。


 そこには、男が横たわっていた。

 その男は先ほどまで醜い顔で笑っていた、母の仇だと思われた。

 顔面がぐちゃぐちゃに潰れて、もはや顔の傷跡などもわからない様相に成り果てていたのだ。


 どう見ても息絶えているその男を見て、俺の意識はそこで途絶えた。




 ――次に目を開けると、眼前には見知った宿舎の天井が広がっていた。

 直前の記憶を直ぐに思い出し、上半身を起こして辺りを見回す。


「起きやがったな!」


 圧倒的な存在感を放つ同僚のオークは、俺が気絶している間のことを説明してくれた。

 同僚はあの後直ぐに、元の大きさに戻ったらしい。

 どうやらそれは『攫われていた女性たち』も同様だったらしく、騎士団員が鋭意捜索中の男の家の中に、突如十人もの女性が現れたのだという。


 男の謎の力は、男が命を落とすことで解除されたのだろう。

 同僚は相変わらず豪快に笑い、そう説明していた。


 攫われた女性たちの身の安全が確保されると直ぐに、人攫いの男は、騎士団により処刑された。

 男の身柄を確保したとして、俺と同僚には、大金が与えられた。

 これが、今回の事の顛末。



 全くの事実誤認を同僚に問い質すも、


「がはは! お前がやっつけたから、俺の分け前は一割でいいぜ?」


 懸賞金の九割近くを押し付けられる結果になってしまった。

 多くの謎と大金を残して、同僚は姿を消した。


 あのとき――男は、俺の前にも見えない壁をつくった筈。

 何故、俺の拳は男に届いたのか。

 何故、骨が見えるほどボロボロだった俺の拳が、今は何も無かったかのように治っているのか。

 そもそも、あの同僚は何者だったのか……。



 俺は、俺の私怨だけであの男を殴り殺した。

 それが、紛う事なき事実なのだ。


 胸にぽっかりと空いていた穴が、すっかり埋まっていることに気が付いた。

 穴を埋めたそれは、母の仇を討ったという爽やかな達成感や安堵などという、綺麗な感情ではない。

 母の仇を討ったという独りよがりで醜い達成感、ただ怒りという感情で人を殺したという罪悪感。

 それは、ひどく穢れた負の産物だった。


 重くて冷たいそれらを胸に、俺は町を出た。

 罪人の息子であった俺も、今やただの罪人だ。

 こんな俺がこの先を生きる理由など果たして、在るのだろうか――

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