29話 本当の幸せ
未だ何もわからないわたしを、神父は『物置部屋その2』と名付けられた部屋に案内してくれた。
どうやら、しばらくはこの部屋を自由に使って良いということらしい。
この世界の地図を広げると、神父は時間をかけて、いろいろなことを教えてくれた。
その夜、ダイニングでやけに青みの多い夕食を終えると、部屋へと戻る。
『コンコン』
ノックに応えると、顔を覗かせたのはおじいさんだった。
まさか変なことはしてこないだろうという安心感の下、入室を許可する。
「……一つ、確認したいことがあるのです」
「確認? もしかして、呪いのことですか?」
「いいえ。もしかすると……あなたも知らないことかもしれません。それに、またもわたしがボケ老人だと思うかもしれませんが」
「もしかして、服に付いていた血と関係していますか?」
おじいさんは、目を瞑ると小さく頷いた。
――あの男に殺されかけてから、わたしは黒い服を好んで着るようになった。
パワースポットツアーでも、やはり真っ黒いワンピースを選んでいたのだ。
見た目では気付かなかったが、わたしのからだを縛っていた縄には、たくさんの血の塊が付着していたようだ。
そこで初めてワンピースには血が、しかも大量に付着していることに気が付いたのだ。
「人魚の呪いで錯乱して、からだ中を掻き毟ったのでしょうか」
神父はそんなことを言っていたが、でも、神父が貸してくれた替えの服に着替えるときに、からだには一切の傷が無いことを確認していた。
もちろん、わたし自身には思い当たることがあった。でも、自分自身でもよく理解ができていないのだ。
だから、おじいさんが聞きたいのはそのことに違いないと思った。
「実は、ミュウさんを見るのはこれが二回目なのです。一度目に見たのは……あなたの亡骸でした」
「……わたしが、死んでいたと? もしかして、首を折られて?」
「えぇ……骨折、などという生ぬるい表現はふさわしくないでしょう。首がちぎれ、あなたの頭部と胴体はほぼ分離していたのです。わたしが見たのは、それはもう大量の血が流れ出た後でした」
あの男にすごい力で首を掴まれて、そして、片手で持ち上げられた。
一瞬で頭に血が溜まり、意識を失う瞬間、わたしは何かを聞いた。
それは、首が折れる音か、それとも自分の断末魔か……鮮明に思い出してしまい、吐き気を覚える。
吐瀉物は青いのだろうな、などと考えると、さらに吐き気が強くなってしまった。
それでも何とか堪えていたのだが――目の前で吐き出された『青いマッさん汁』を見て、わたしも床に青い液体を追加したのだった。
「すみません……あまりに酷い姿だったもので……」
「もしかして、わたしに草をかけてくれたのって……」
「えぇ。本当は土で埋めてあげようと思ったのですが、地面を掘る道具も無かったもので」
二度目に目を覚ましたとき、息苦しさを感じ、わたしはすぐに上半身を起こした。
何かがからだからこぼれ落ちるような感触を覚え、薄暗い闇の中で下半身を見ると、そこには青い草が大量にかけられていたのだ。
わたしを弔うために、おじいさんが全身に草を被せてくれたということか……
「その……実は、あなたを丘の上に引きずり運ぶ途中で、首が取れてしまったのです。そんな、明らかに絶命していたのに……あなたは何事も無かったような姿で、わたしの前に現れた……」
おじいさんは昨日、羊の住人を見てまず驚いた。そして今日は、朝から死んだはずの人間を見て驚いたことだろう……何だか申し訳ない気持ちを抱いたが、それ以上に訳がわからなかった。
あの男に見えた何者かは、常人離れした力を持っていた。そう言えば身長が二メートルを優に超えていたような気がする。
首が握りつぶされて、血が全部出きって間違い無く死んだ。
なのに……なぜ、わたしは生きているのか。
しかも、首には握られた痕でさえ残っていないようなのだ。
あぁ、そうだった……わたしは思い出した。
「わたし、墓前で願いました」
「墓前……あぁ、パワースポットだね? ……そのお願い、聞いても良いかい?」
「えぇ。わたしは『ある男』を殺したいほどに憎んでいます……その男に完膚なきまでの復讐をしたいと願い、誓いもしました」
「そんな……まさか、全ての男性がその人に見えるのも、生きているのも、その願いが叶ったから……?」
わたしは、大きく頷いた。そうとしか考えられないから。
「現実とはかけ離れたこの世界です。願いが叶ったと考えても不思議ではないでしょう? 完膚なき復讐を遂げるまで、わたしはきっと、生かされるのでしょう。しかも、復讐の機会を与えるかのように、全ての男性があいつに見えるオプション付き。
……ふふっ……あはははっ! ねぇ、わたしは、どうすれば良いの? きっと、本物のあいつは、この世界にはいない。だから、せめてあいつに見える男を何人でも気が済むまで殺せってこと?
それで、完膚なき復讐だと思えって……そういうこと、なの? ねぇ、そんな……そんなの、望んでないよ……」
遂に、堪えきれずに涙が溢れてきた。
おじいさんはわたしの頭に手を置くと、優しく撫でてくれた。
そんな大きな優しさに触れて、目からはさらに大量の涙が流れ落ちた。
思えば、涙など流すのは生まれて初めてだったかもしれない。
あいつに殺されるまで、わたしが抱いていた喜怒哀楽は偽物だったのだろう。
心の奥底から感じるものではなく、表面的な、薄っぺらい感情だったに違いない。
成績や功績でしかわたしを見ることの無かった両親。そして周りの人間から受けていた優しさも、全て偽りだったのだ。
しばらくして落ち着くと、わたしはおじいさんに御礼を言い、ベッドに腰掛けた。
「……君の言うとおり、願いが叶ったのだとしたら……わたしは、どうなのだろう。墓前で『人の幸せ』を願った。わたしではない誰かが幸せになって欲しいと、そう、願ったんだ」
「ふふっ。人の幸せを願えるなんて、おじいさんらしい……もしかすると、他人のお願いを叶えることができるとか? それとも、他人の幸せを願えば、その人が本当に幸せになるかもしれないね」
「試しに、君の幸せを願ってみても良いかな?」
「わたしの、幸せ?」
「ふっふ。もしもそんな力があるのなら、人を幸せにできるのなら、わたしは何て幸せ者なんだろう」
おじいさんの笑顔を見ながら、わたしは自分の幸せを考えてみた。
幸せ……幸せ……? あの男に復讐を果たせたら、わたしはそのとき、幸せなのだろうか?
それとも、あの男が改心して、また一緒に以前のように一緒に過ごせるのが幸せ?
一流企業に勤めて、両親に喜んでもらう?
それとも、そんな全てを投げ捨てて、忘れて、自分なりの幸せを……
そうか、わからないんだ。
考えたことも無かったのだから、探しても見つかるものではないのだ。
必死に悩むわたしの姿を察し、おじいさんは、まずは神父の幸せを願うことにしたようだ。
「たしか、少し前に老眼鏡を紛失したらしい。家中探しても見つからないから、外出先で無くしたのかもしれないって。だから、『神父さんの老眼鏡が見つかりますように』って、これを一番初めの願いにしてみるよ」
「……なんだか、すごく小さい幸せだね」
「ふっふ。本当の幸せっていうのはね、ふとしたときに感じるちょっとしたものだと思うんだ。わたしはね、普通の人生を過ごしてきた。定年を迎えて、これまでの普通を振り返って、『あぁ、普通が何よりの幸せなんだな』って、感じたかったんだが……」
「いつか振り返ったときに幸せを感じるだろう。そう思って過ごしてきた普通は、本当の普通じゃなかったのかもしれないね。でも――ふふっ。きっと、もう少しすればその普通が幸せだったって思うかもね。だって――」
「あはは! そりゃそうだ。こんな世界に来てしまったんだ。でもそれは普通というか、この世界と現実世界とを比べて感じる幸せだね。くくくっ……」
おじいさんと笑い合っていると、部屋の外の廊下をドタドタと走る音が聞こえてきた。
そして、
「ありました!」
開け放たれていた扉から、神父が元気の良い声と一緒に入って来たのだ。
「何があったのです?」
「老眼鏡ですよ! 今し方、訪問者がありましてな。お嬢さんにピッタリの黒い服があると、持ってきてくれたのです。その人が『神父さん、頭に何か生えていますよ?』と言うではありませんか。
触れてみると、なんと頭に老眼鏡がかかっていたのです。いやぁ、良かった良かった。すっきりしましたよ。お嬢さんのおかげですな!」
願いが叶った、のかな? ていうか、頭にかかっていたなんてまたベタな……
おじいさんも同じことを思っているのか、そんな表情と目が合い、またも二人で吹き出してしまった。
そんな二人の様子を見て、あいつの顔を全開にして、神父は大きい口を開けて歯ぎしりを始めたのだった。




