20話 赤の国 4
一人の屈強な体格をした男が、斧を振りかぶり走り寄ってきた。
呆然と動かないでいると、斧が僕のからだ目掛けて振り下ろされた。
斧は僕のからだをすり抜け、まるで空を切るようにそのままの勢いで地面にぶつかった。
「ひ、ひぃぃ! だ、ダメだ、殺されちまう!」
僕は、あの空間を覆っていた『闇』へと化したのだろう。
目の前で腰を抜かしている男に、右手で触れてみた。でも、靄は男に触れることは無く、煙のようにそのからだを避けた。
この靄のからだは、人に触れることも、触れられることも出来ないのだろう。
でも、なんとなく気付いていた。
左手の鎌も、人に触れることは出来ないはず。だけど、人の魂を刈り取ることはできるはずだと。
「……俺たちが悪かった……お金が欲しかったんだ」
心は晴れやかで、そこには真っ青な憎しみしか抱いていなかった。
男の心臓に向けて鎌を振ると、何かを刈るような感覚を覚えた。
男はその場に倒れると、眠ったように動かなくなった。
刈ったのは、人の目には見えない何か。でも、人を動かす大事な何か。
きっと、死ぬことは無い。刈られた魂は、行き場も無くどこかを彷徨うのだろう。
「悪いと思うのなら、償うがいい。時間はいくらでもあるのだから」
村人全員の魂を刈ると、急ぎ城に向かった。
どんな原理かわからないが、空中をものすごい速さで移動することが出来た。
あっという間に城に着くと、バーバラの部屋の窓から中に入った。
城から抜け出すとき、彼女はいつもその窓から出入りしていたのだ。
目の前に広がったのは、暗闇で見た最後の光景。
微笑み絶命するバーバラの目には、薄らと涙の残滓が残っていた。
つまり、心臓を貫かれてからそれほど時間が経っていないということ。
魂の所存を確認すると、未だそこに留まっているようだった。
僕はそのとき、一瞬だが迷ってしまった。
魂を刈れば、彼女が死ぬことは無いだろう。
心臓を貫かれたまま、朽ちること無く眠り続ける。
その魂が肉体に戻るのは、僕が死んだとき。いや、一回死んでいるから、それは滅びとか、あるいは成仏などと言うべきかもしれないが。
彼女の魂が肉体に戻ったとき、僕と一緒に死ぬことが出来るのだ。
でも……彼女がそれを望むだろうか。
迷いが生じた次の瞬間、部屋に誰かが入って来た。
バーバラを殺害した婚約者が、痕跡を消しにでもやって来たのかと思った。
でも、それは婚約者ではなく、知らない人物だった。
目が小さく、鼻が低い、そして黒髪の男だった。
「あーあ。やっぱ、人間が変異するって言ったら幽霊系だよな……お前、寿命なんて無いだろ?」
その男は唐突にそう言った。何を言っているのかわからず立ち尽くしていると、
「まぁ良い。大人しく封印されとけ」
男は両手をからだの前に差し出し、力を込めた。
すると、僕のからだは勝手に動き始めた。
「小さい酒瓶を持ってきたけど……ちょうど良い壺があるじゃねぇか。お前も、広い方が良いだろ? な?」
それは、バーバラが城下町で一目惚れして買った壺だった。
焦げ茶色でゴツゴツして、頑丈そうなだけで飾り気の一切無い、大きな壺だった。
その日、護衛をしていた僕は城の入り口まで運ぶのを手伝ったから、よく覚えている。
あのとき、彼女は他の人に気付かれないように、小さな声で僕に言った。
「この壺、あなたに似てるよね、グレン!」
……そうだ……僕たちは、愛し合っていたんだ!
かろうじて動いた左手。靄を最大限に伸ばすと、鎌でバーバラの魂を刈った。
そのまま僕は、壺の中に封じ込められた。
「どこかに運ばれて、しばらくは空が見えていたんだ。でも、いつからか蓋をされて、僕は暗闇の世界で生きてきた。バーバラとの思い出だけを思い返して――」
話が終わったのか、グレンは壺の中で大きく息を吐いたようだった。
一向に何も喋らないわたしに、グレンは、
「済まない。君が思っていたよりも長話になったかもしれないな」
と謝罪した。わたしは一言も発することが出来なかった。
悲しくて、涙を流していたのだ。
我慢していたが、とうとう声を出して泣いてしまった。
「泣いて、くれるのか? ……君は優しいんだな。それに、どこか声もバーバラに似ている気がするよ」
ただ黒髪が一緒というだけで、それこそ都合の良い幻聴だろう。
気持ちを落ち着かせると、わたしはグレンに尋ねた。
「わたしは、あなたのことを信用する。でも、そもそもわたしに解放なんて出来るの?」
「わからない。でも……黒髪の男は、僕を壺に封印した後に、一緒にこの地にやって来た。ここがどこかは誰も教えてくれなかったけど、きっと、チェーリの村なのだろう。
男はこの村にも結界を張ったようだ。そして、それから百年余り、ずっとこの状態が続いている。定期的に見回りが来るが、ここに入るには資格が必要らしい。誰かに命を受けるか、あるいは何かを身に付けるか」
なるほど――結界が張られているはずなのに、なぜかわたしはこの村に入ることができた。
結界を無効にするというか、ただ通り抜けることが出来るといった感じだろうか。
もしも壺の封印と結界が同じものであれば、わたしが壺に触れていれば、グレンは外に出ることが出来るかもしれない。
だが、わたしはそこで一つ、確認すべきことがあった。
今さらグレンを疑うことは何も無い。
でも、
「解放されたら、グレンはどうするの?」
外の世界に出たところで、百年という長い時が経過しているのだ。
陰謀を企んだ人間は生きていないだろうし、今のグレンに出来ることは何も無いはずだ。
「……城に行く。バーバラがそこにいるかはわからないが……一目でも、見たいんだ」
「見たら、何かが変わる?」
「どうだろう。死ぬ方法も、殺される方法もわからないからね……」
わたしは、もしかしたらグレンをこの世から消すことができるかもしれない。
そのとき、ふとそう思った。
グレンにわたしの魂を刈ってもらい、それを跳ね返せば良いのではないか?
実体が無いというグレンを動かしているのは、ただの憎しみ。
魂と同じ、目に見えないものだ。グレンの鎌は、その憎しみを断ち切ることが出来るのではないか?
……とは言え、わたしはまだ、あの目つきの悪い少年の衝撃波を跳ね返しただけ。この力に確証を持つことは出来ない。
『ドクン、ドクン』と脈打つ心臓。
だが、わたしは心を決めていた。
「グレン……聞いてほしいの」
わたしは、確証の持てないその力のことを話した。
そしてそれが、わたしが何を願って得た力であるか、も。
でも――話していて、そこでわたしは気が付いた。
グレンの鎌だけは、跳ね返すことが出来ないかもしれない。
なぜなら、わたしはグレンを信用している。反発していないのだ。
……でも、跳ね返せないなら、それはそれで良いかもしれない。
信用した人に殺されたら本望だ。死にはしないけれど。
きっとこの先、信用できる人に出会うことも無く、幸せを感じることも無く、人生を終えるのだろうから。
言葉を発しなくなったグレン。解放よりも、自身の生を終えることに何かを思っているのだろう。
わたしは、壺に手を触れた。
村に入ったときのように、何の感覚も得られなかった。
だが、壺が揺れ、乗っていた大きな石共々横に倒れた。
壺から出て来たのは、黒い靄のようなものだった。
無数の黒くて小さい虫の集合体のようにも見える。グレンが言ったとおりだったが、それは人の形を成してはいなかった。
左手と思われる部分には、黒光りした大きな鎌が浮いている。
「おぉ……まさか、再び日の光を浴びようとは……ふふ……はははっ!」
よほど嬉しいのか、グレンは靄を撒き散らして笑い始めた。
どこに視覚機能が付いているのかわからない。
だが、目が合った気がしたその瞬間、グレンの笑いは止んだ。
「……黒髪! この、悪魔の遣いが!」
いや、悪魔はあんたでしょ? 急に悪ぶり始めたグレンにつっこもうとするも、どこか様子がおかしかった。
「忌々しい黒髪! お前たちが現れなければ、世界中の人間の魂を刈り取ることができた!」
「いや、バーバラさんも黒髪だったんでしょ?」
「バーバラ? ……あぁ、俺がつくった話のヒロインか。くく……くははっ! まんまと信じるとは。百年かけてつくった甲斐があったというものだ!」
「そんな……全部、つくり話だったってこと?」
グレンの声は、壺から聞こえたそれとは全く違うものだった。
それは例えるなら木漏れのような、心地の良い温かさを感じる声だったのに……
明るみに出た今、まるで冷たい暗闇に包み込まれるような、見た目どおりの声――そう、今感じるのは、壺を初めて見たときの悪寒と同じものだ。
「さぁ、少女よ。次は俺を、この村から出せ!」
「……嫌だ……そんなことしたら、あなた、みんなの魂を刈るんでしょ?」
「心配するな。お前の魂だけは見逃してやろう。まぁ、どうせその跳ね返す力のせいで刈れないだろうがな」
しまった……もしかすると、全てグレンの思惑どおりだったのかもしれない。
そもそもこの村に入れる時点で、それは特殊な存在なのだろう。
そしてそこには、グレンを殺す術を持つ者もいるかもしれない。
あの話を信じるのは自分だけかもしれないが、でも、自分のように『消すことができるかも』という言葉と、その力の如何を引き出す目論見があったに違いない。
百年かけて考えた策なのだろう。
……そうだ、悪いやつだから、どうしようも無いやつだからこんな壺なんかに封印されていたのだ。
そう言えば――街で長話を聞いた挙げ句、高い壺を買わされそうになったこともあった。
そんなどうでもいいことを思い出し、わたしはその場に膝を付いた。
「だが……ふむ。お前のその力、使えるな。魂を刈るだけではいずれ飽きるだろう。その血を、息絶えるときの苦痛に喘ぐ表情を見たいのだからな!」
まさか、次は『世界の半分をやろう』とか言い出しそうだ。
わたしがこのまま一歩も動かずに餓死すれば、グレンはこの村から出ることは出来ない。
こんなやつを外に出してはいけない。
どうでも良い連中が滅んでくれる分には構わないが、この男に加担するのだけは死んでも嫌だった。
「そんなの、死んでも嫌だ。わたしは……わたしは、あなたを拒絶する!」
瞬きをするその一瞬、目の前の光景がスローモーションに変わった。
グレンはその鎌をわたしに向けて振り下ろした。
わたしのからだをすり抜けたその鎌は、心臓部分にさしかかると一瞬止まり、そして、グレンの心臓目掛けて跳ね返った。
靄の中で、何かが刈り取られた気がした。
靄は爆散し、そこには僅かな闇も残らなかった。
だが――最後に、
「ありがとう」
グレンの優しい声が聞こえた気がした。




