181話 準備(一)
――半周年記念イベントの開始から、四十分が経過した。
「じゃあ、しっかりと準備するように。また、一時間後に会おう」
「じゃっ」
司会者二人のその言葉を合図に、ロキの眼前から光が消えた。
会場の座席一つ一つを四方で囲う壁が出現したのだ。
慣れない体、鱗のような手の皮膚に触れながらしばらく呆けていたロキ。突然のことに驚き立ち上がる。
だが、次の瞬間、そこは自分の部屋だった。
つい四十分前、異世界に転送したその時と全く変わらない、自分の部屋。
移転時は、何故か無意味に全裸になる習慣から、床には着ていた服が無造作に脱ぎ捨てられている。
「……戻って、来たのか……?」
司会者の二人は、やれ地球が滅亡したとか、やれ地球もろとも転送したとか、訳の分からないことを言っていた。
まさか、アオが嘘を吐くとは思えない。だから――そうだ。全てが記念祭の余興だったに違いない。
そうか、新しい異世界とやらは、見た目も感覚も全てが現実と違えない仕様なんだ!
まさに、オレが願った世界そのものじゃないか!
でも……準備?
一時間もかけて何を……?
そうか――便所だな。
そういえば、感覚が宿ってから尿意を感じるようになった。
中には大便に時間を要する移転者もいるのだろう。
どれ。じゃあ、ションベンしに――はぁ?
自室のドアを開けて、トイレへと向かおうとしたロキ。
ドアノブを回そうと差し出したその手を見て、ようやく気が付いた。
「戻ってないじゃん!」
その右手は、人の手ではあり得ないほど紫色で、鱗のような高い強度の何かがびっしりと張り付いていた。
感覚を持った直後から、何となく触れてはひどく気持ちが悪いと思っていた。
改めて自身の体を確認する。
ロキは、敢えてヒトではなく魔物を選んだ。
始めは、能力値のバランスが取れたヒト形の魔族を選択した。
単身でヒト里を襲い続け、レベルが五十に達すると、魔族の上位種である『悪魔』への進化が可能となる。
その中でも、スピードと腕力のバランスが取れた悪魔を選んだ。
その見た目も、ひどく暴力的で格好いいと思っていたのだが――
「この姿で自分の部屋に居るって、すげえ違和感あるな……一体、どういうことだ!?」
「だから、準備しろって言ってんでしょうが!」
突然、背後から聞き覚えのある声が響く。
振り向くと、部屋の真ん中には一人の少女が立っていた。
先ほどまで、司会者として会場の中央に立っていた、アオイだった。
「お前も居るってことは、やっぱ此処、現実じゃないのか?」
「ほんっとに何も聞いてないんだから……先ずは案内人から情報を聞くようにって、本体の私が言ってたでしょ?」
「ふーん……取り敢えず、ションベンしてきていいか?」
「さっさとしてこい! でも――ふふっ。ていうか、仕方分かる訳?」
何故だか不敵の笑みを浮かべるアオイ。だが、ロキも実はそれを気にしていた。
転生とやらで、この気持ちの悪い体が本体となったらしい。
つまり、今後はこの体で生きていくしかないということ。ただ強い、というのがせめてもの救いだが、先ずはこの体の生活習慣すら全くわからないのだ。
「ほら、この体にも付いてるだろ? 仕方は一緒だと思うんだけど……」
「ちょっ、見せないでよ! ほんっとにデリカシー無いんだから……まぁ、私もその体が実体化してみて、いろいろ興味あるのよね。オシッコ、何色だろうね」
「体の色と同じで紫色じゃね?」
「緑色もあり得るかもね。ほら、出してみなさいよ。トイレ出してあげたから、早く!」
――案内人は、初期設定のときに先ず始めに決める。
実在する人でも、歴史上の偉人でも、アニメや小説のキャラクターでも、誰でも好きに選ぶことが出来た。
さらには、見た目や性格、しゃべり方などなど、細部までカスタマイズが可能。
無限の選択肢がある中で、だが、その選択には偏りが見られた。
一千万人を超える移転者のうち、およそ七割の人が、同じ二人の人間を選択したのだ。
それは、先ほどまで司会をしていた二人。
世界保存機関という、大昔から世界のトップに君臨する会社の、二枚看板。
アンドロイドである二人は、大昔からずっと、どんな役者やらアイドルよりも絶大な人気を得ていた。
カリスマイケメンのシンジー。老若難女問わずの人気者で、約四割の人がほとんどカスタマイズせずに彼を選択した。
万能美少女のアオイ。巨乳以外の全ての要素を兼ね備える彼女は、その胸部とツンデレ具合がカスタマイズされ、およそ三割もの人に選択された。
ロキも、アオイを選んだ一人だった。
初めて彼女を見たその瞬間、まるで鈍器で頭を殴り割られたかのような衝撃を覚えた。
腕っぷしでしか強さを測れないロキだが、彼女が放つオーラが人類最強であると、一瞬で理解出来た。
ロキは、そのままのアオイを選んだ。
アオイは、鉄面皮で、物事をハッキリ言う。まるで天上人のような彼女を崇める人は多いが、そこに親しみを感じる人は皆無だった。
だが、意外にも、ロキにとってのアオイはよく笑う、ただの同い年の女の子だった。
その毒舌の攻撃力は凄まじいものだが、鈍感なロキには一切通用しない。
まるで幼馴染みのような、家族のような……などと、勝手に親しみを感じる反面、知らなくても良いことまで知ってしまった。
「……黄色、だな」
「なんだ、つまんない。じゃあ、次は大便だね。あと、出血してみせて!」
アオイは変わり者だった。
それこそ、変態と言えるくらいに。