147話 壁谷裕幸
一体何が……誰が、悪いのか。
無論、悪いのはあいつらだ。それでも……自分の無力さ、無能さに要因があるのも事実に違いない。
どうすれば良いか、何が出来るか、考えた。
考えて、考えて――結局は、あいつらの言いなりになることを選んだ。結局は、考えることから逃げたんだ。
あいつらに目を付けられた時点で、僕の世界は歪んでしまった。あまりにも強い外力は、世界が元に戻ることを許さない。
いくら考えても、僕の世界はもう、バッドエンドにしか行き着かないのだから……。
――でも、今は違う!
彼女を目の前に、突然、僕の中の何かが溢れた。
そうだ、僕は他人から否定されることを恐れていたんだ。責任を持ちたくなかった。
楽をしたいから、独りを選んだんだ。
出来るなら、独りの世界に籠りたかった。でも、それでは他人に迷惑をかけてしまう。他人に気を使ってしまう。
独り生きるために、頭を使って、最も楽になれる方法を考えてきた。
でも……これまでの考えは間違っていた。
そう、何も気にしないのが一番楽なんだ。他人に否定されても良いじゃないか。
僕自身が楽に、愉しく生きることが出来るのが一番じゃないか。
そうだ……最も楽な方法が、あるじゃないか!
――僕は、地面を蹴っていた。
彼女に背を向けて駆け出すと、あっという間にフェンスに辿り着く。
振り返って、最後に見たかった。
勿論それは、あいつらの顔などではない。何故なら、あいつらにとっても、これが最も手っ取り早い、合理的な方法なのだから。
きっと、屋上の入り口で覗く顔は、笑いを堪えるので精一杯に違いない。
……彼女は、どんな顔をしているだろうか。
少しでも心配そうな表情を浮かべてくれていたら、嬉しい、な……。
何かがからだの中で溢れた時から、自分が高揚していることは知っていた。
最後に彼女の顔を見たかったのは、ついさっき二度も見た筈の彼女の顔を覚えていなかったから。
振り返ることなく、フェンスに両手をかけた――次の瞬間だった。
誰かの声が僕の背中に追い付き、激突した。
「壁谷裕幸!」
それはまさしく、僕の名前だった。
しかも、これは僕の気のせいだろうか。この状況、制止する掛け声ならわかるのだが……何故だか、後押しをしてくれるような――まるで応援でもするかのような掛け声に聞こえたのだ。
そしてそれは、気のせいではなかった。
フェンスをよじ登ろうとする僕の背中を、その声は間違いなく押し上げてくれたのだ。
「そう、それしか無かったよね。それが最善で、唯一の方法だよね! ――頑張れ、壁谷裕幸!」
まさかの応援に、耳を疑った。
そして、それが一体誰の声なのか、確認せずにはいられなかった。
フェンスを掴んだままの体勢で、振り返る。
そこでようやく、思い出した。
そこに立っていたのは、僕が最後に見た彼女の姿そのまま。
そして、ようやく気付いた。そこに立っていたのは、そこに居る筈の神宮優芽ではない誰かだということに。
その誰かは、明らかに神宮優芽ではなかった。
性別と制服が同じだけで、髪型もスタイルも、雰囲気も全然違う。何よりも、顔が全く違っていた。
千年に一人の美少女と謳われる神宮優芽。でも、そんな彼女に負けず劣らず、その誰かも美しかった。
太陽のように温かく輝く神宮優芽。一方でその誰かからは、まるで氷のように冷たく、鋭利に輝く印象を受けた。
一体、どういうことだ……?
――あいつらに言われるがままに、放課後、僕は屋上の真ん中に立っていた。
曇り空を見上げていると、神宮優芽がやって来た。僕に語りかけてくれたのは、彼女で間違いなかった。
でも、最後に見た彼女は――そう、彼女ではない誰かに入れ替わっていたんだ。
俯き、物思いに耽っている少しの隙に、どうやって……?
「君は、一体……?」
思わず、だが当然の台詞を口にする。
「今は、私のことなんてどうでもいいの。君の決断を誉めないとね!」
「僕の……決断? ……誉める?」
一体、何を言っているのだろう。
僕の決断は――これからしようとしている行為は、決して他人に誉められるものではない。
むしろ、他人に迷惑しかかけない、自分勝手で最悪な行為なのだ。
そもそも、見知らぬ彼女は、僕の何を知っているというのだ。
気が付くと、高揚した気分は冷静を通り越し、苛立ちに変わっていた。
「ふふっ。私、全部知ってるよ? 知ってるから、君を誉めたいんだよ!」
「……全部、知ってるだって?」
「うん。あの三人の企みは、君と私を共倒れさせること。でしょ?」
「なっ……なんで……?」
それはまさしく、僕の考えと一致していた。
僕は誰にも言っていないし、あいつらが他人に言うとも思えない。
それを、見ず知らずの他人が、何故知っているというのか……。
「私にフラれた君を、あの三人はさらに追い込むことでしょう。君は独り生きるほど強いけど、いつかは心が折れる時がやってくる。
そして……それは全て、彼らによって、私の責任に転嫁される。だよね?」
彼女の言うとおりだ。
あいつらに何をされるかは、恐くて考えたくもない。
でも、おそらく、学校に通うことすら出来なくなった僕のことを、あいつらはこう噂をするだろう。
『大切な友達が、神宮優芽さんにフラれたショックで壊れてしまった』
神宮優芽は何も悪くない。
でも、あの三人の言葉には力がある。信憑性がある。
全てが完璧な神宮優芽を覆う、完璧なオーラに歪みが生じる。
それは、彼女を見る側が感じる歪み。でもそれは、いつしか彼女自身が感じる歪みへと変わるに違いない。
優しい彼女なら、きっと僕なんかのことも気にしてくれるだろう。他人の心無い、根拠の無い言葉を気にしてしまうだろう。
共倒れ――
彼女の成績も落とすことで、自分たちが上位を独占する。
たったそれだけのために……いや、それがあいつらにとっての生き甲斐なのだろう。あいつらが、愉しく生きる唯一の方法なのだろう。
あぁ、本当に下らない。
やっぱり、こんな世界、生きる価値など無いんだ。
――ここでまた、からだの中で何かが……別の何かが、溢れた気がした。
いや……違う……?
そうだ、生きる価値が無いのは、あいつらじゃないか。
何故、僕が独り犠牲になる必要がある?
ポケットに手を入れ、目的の物を握った僕の顔はまた――にやけていたに、違いない。