146話 歪んだ世界
何事もなく一か月が経過した、ある日のこと。
その日も、昼休み直前の授業は体育だった。
課題は『腕立て伏せ・腹筋・背筋・スクワット』を合計で二百五十回行うというもの。
なんとか時間内に終えて着替えを済ませると、ロッカーからリュックを取り出し、自席へと戻った。
着席と同時に授業終了のチャイムが鳴る。
程なくすると、教室には神妙な面持ちの、担任の姿が現れた。
担任の傍らには例の三人組も立っており、僕は嫌な予感を覚えながら、担任が口を開くのを待った。
『体育の授業中に、所持金を盗まれた生徒がいる。今のところ被害生徒は一人なんだが……財布に入れていた一万円札が一枚、盗まれたらしい。
ちゃんと、ロッカーには鍵をかけていたらしいんだが……他にも被害がないか、みんな、持ち物を確認してほしい』
被害生徒の名前は敢えて伏せたようだ。ただ、三人組が横に控えている時点で、それが三人のうちの誰かなのは明白だった。
僕も、言われたとおりに、鍵付きのロッカーに入れていた所持品を確認する。
既に机上に広げている弁当箱の中身は、今朝自分で拵えたそのまま。まさか、弁当のおかずを盗むなんてヤツはいないだろうが。
その他には折り畳み傘、小説、財布が、全てそっくりそのまま入っているのを確認する。
ただし、問題は財布の中身だろう。
今朝確認した際には、千円札が三枚と、三百三十三円が入っていた。何の調整もしていないのにゾロ目だったから、よく覚えている。
確認の結果、所持していた金額には変わりがなかったのだが――所持していなかった一万円札が一枚、そこには何故か存在していたのだ。
激しい動揺を覚えつつも、平静を装うと、周囲の様子を窺う。
他の生徒は誰も、何も変わった様子は無いようだった。
だがやはり――あの三人からはまた、悪意を感じる視線を、一瞬だが向けられた気がした。
間違いない。あの三人が、僕の財布に一万円を入れたのだ。
どうやってロッカーの鍵を開けたのかはわからないが……そんなことよりも、やはり、何故こんなことをした……?
あのとき直ぐに、『見知らぬ一万円札が入っていました!』と声をあげていれば……。
その後、激しい後悔を覚えることなど、その時の僕には知る由も無い。
動揺と恐れを覚えた僕は、何も言えずに、ただ俯くことしか出来なかったのだから。
――さらに一か月が経過した。
彼らの目論見どおりなのだろう、僕の心中は穏やかではなかった。
中間テストの成績は学年十七位と、少し順位を落としたのだが、それは調整の結果だから仕方ない。
問題は自己採点の結果で、過去最低の、学年六位にまで下がってしまっていたのだ。
そう――彼らは一学期の全国模試で、僕が一位になったことを知っているのだろう。
超が付くほど好青年で優秀な彼らは、勉強を除けば何の取り柄も無い、こんな僕に上に立たれたことが我慢出来なかったに違いない。
だから、精神的に揺さぶりをかけることで、落としにかかった……。
『やめて!』
その一言で、何か変わっただろうか。
いや……無駄だったに違いない。優秀な三人が揃えば、こんな僕の行動など、全てに最善の対応が出来ただろうから。
何より、あの時あの場で何も言わなかった僕に、
『実は……君が、僕のロッカーを開けるのを見てしまったんだ』
彼らにそんなことでも言われた瞬間に、僕の平穏な高校生活は終わりを迎える。
誰一人、彼らを疑う者などいないのだから……。
僕はただ独り、自分の世界に生きたいだけ。
まだ完全な独立とは言えないけれど、独り生きる力があると思っていた。
でも……僕は、独り生きるというには、力が足りなかったのだ。
例え、個では勝っていたとしても、数の前では無力で無能だったのだ。
……良いんだ。このまま大人しく、A組残留が出来ればそれで十分なんだ。
独り愉しく生きるには、それだけで、十分な
んだ……。
――一度歪んだ僕の世界は、元に戻ることは敵わないようだった。
独りでは抗えない、強大な外力は、それを許さなかったのだ。
盗難騒ぎから二週間後の、とある日曜日の午後のこと。
三人が、何の前触れもなく、僕の部屋へとやって来た。
ただし、それは全く予想しなかった事象ではない。
少しでも元の、独りの世界を取り戻す努力はしていたつもりだった。
彼らが次に何を仕掛けてくるか。彼らが僕に直に接触することも、考えられることだった。
接触するならば当然、校内以外の、人目に付かないところ。
どう見ても好青年な彼らならば、僕の両親も部屋へと招くことに、一切の躊躇も持たないだろう。
僕の部屋には、これまでに貯めてきたお年玉を切り崩して購入した、小型で高性能の監視カメラが設置されている。
ただし、彼らも僕のそんな行動は読んでいるに違いない。とはいえ、何もしないよりは格段に、相手の行動も絞られる筈なのだ。
――やはり、僕の行動などお見通しなのか。
部屋の中を見回すことなく、薄らと笑みを浮かべたまま、一人が一方的に語り始めた。
生徒会副会長でもある彼の言葉は、真っ直ぐで力強く、僕には口を挟むことすら許されなかった。
『突然、ごめん。どうしても君に知らせたいことがあったんだ。
ほら……前に、言っていただろう? 同じクラスの神宮優芽さんに想いを寄せているって。
……君が、最近ちょっと元気がないのが気になってさ。他の人は気付かなくても、友達の僕らにはわかるんだ。この前の試験で順位を落としていたようだしね。
……君のために何か出来ないか、三人で考えた。考えて、考えて……これが、最善の行動だと思ったんだ。
明日の放課後、学校の屋上の使用許可を取った。そして、神宮優芽さんがそこに来ることになっている。
そう、明日……彼女に、思い切って告白するんだ! そんなに、思い詰める君を見るのは堪えられない。
……あぁ、わかってるさ。こんな僕が彼女に見合うわけがないと、君はそうも言っていたね。だから、その強い想いを秘めたままで居続ける、とも。
でもね、何も、僕たちは告白の場を整えただけじゃない。
彼女が言うには、これまでに何度も、異性からの告白を受けてきたらしい。それこそ、数え切れないほど、だろう。
でも、彼女は一度もそれらを受け入れたことはないし、異性との交際経験は無いそうだ。
さらには、彼女には心に決めた、特定の人はいない。異性に興味が無いわけでもない。
つまり……好みのタイプがはっきりしていて、これまでにそんな人から告白されたことがなかったんだろう。
これは、僕たちの憶測だけど。彼女はこれまで、全国模試では不動の一位だった。
……前回、君に抜かれるまでは、ね。
もしかしたら、自分よりも優れた人に興味があるんじゃないかな?
……彼女には、君の成績を伝えている。高嶺の花には違いないけれど、君にはそれを摘む資格があると、僕たちは思っているんだ。
……勝手なことをしてごめん。でも、わかってほしい。
君の幸せを思ってのことなんだ――』
友達が去ったあと、友達の本当の企みが何なのか、考えた。
結果、これまでとは比べ物にならないほどの恐怖が、僕を襲った。
でも、僕には……彼らに従うしか、なかったんだ――