145話 揺らぎ
僕の名前は……いや、それはどうでも良い情報だろう。
物心ついた頃から、他人との接触には一切の興味を持つことが無い。ただ自分の世界に浸り、独り愉しく生きることを望む。
そんな、ただの高校二年生の男子、それが僕だ。
見聞きした情報全てに物語を見い出すことが出来た。
僕にかかれば教科書や参考書だってその対象となるし、何なら他人の歩む人生という壮大な物語を、独り愉しく想像することだって出来た。
そう、他人と接触する暇なんて一切無かった。この世界に溢れ返る物語に浸るしか、僕には余裕がなかったのだ。
この先も独りで生きるためには、相応の力を要する。特に重要となるのが経済力と、それを生み出すための知力だろうか。
今時点では、親の援助を受けて生活しているから、完全に独りとは言えない。
義務教育を終えれば独立出来るかとも思ったのだが……中学校卒業までに得ることが出来たのは、最低限生きるための教養のみ。
独り生きるには、少なくとも高等学校を卒業する必要があった。
中学の三年間、校内模試の成績は常に一位だった。ただし、三年生のときに受けた全国模試は五位で、上には上がいることを痛感した。
高校は、全国でも有数の進学校を選んだ。親の自宅から徒歩と電車で通えるというのが決定的な理由だった。
高校は文武両道を謳っている。ただし、勉学の成績を特に重んじているのは明らかだった。
入学時のクラスは、入学試験の成績により五クラスに分けられる。その後も、学期ごとに行われる校内模試の成績によって、二学期、三学期、そして次年度の一学期のクラスが決められるのだ。
上位二十名がA組、以下は約三十名ずつBからE組に分けられる。
入学試験での順位は公表されなかったが、僕の高校生活はA組から始まった。
校内模試の結果は校内に掲示され、公表された。
クラス分けは中間と期末試験の平均で判断される。そのため一概には言えないが、二十位を下回るとA組に残留出来るか怪しくなってしまう。
僕の成績は、一年間ずっと、十五位前後。幸いにもA組に残り続け、二学年も同じクラスで始めることが出来た。
本当は、もっと上位になることも可能だった。
ただ、進学校にいるにも関わらず進学を考えていない僕は、悪目立ちを避けたのだ。
点数を調整した結果が十五位前後。それでも、自己採点での順位はいつも四位だった。三位以内は、いつも同じ面子が占めていた。
一方で、全国統一模試の結果は校内でも公表がされない。点数を調整せずに挑むそれは、だがいつも五位という結果に終わっていたのだった。
――二学年に進学した初日のこと。
朝のホームルームで、他校からの編入生が一名紹介された。
噂では、全国模試で一位の成績を修めたというその編入生。容姿は、他人の物語にしか興味の無い僕でも、息を飲むほどに美しかった。
それは、比較的に勉学にしか興味のないクラスメートたちがざわつくほどだった。
神宮優芽。僕のつくりあげる世界に、物語に、メインヒロインと呼ぶに相応しい人物が加わった瞬間だった。
人当たりも良く、全てにおいて完璧な彼女。
比べてはいけないとはわかりつつも、独り生きる自信を欠いてしまうほどだった。
せめて彼女に並ぶくらいの成績を修めたい。そう決意し、これまで以上に勉学に浸ることに専念した。
結果、一学期の校内模試の自己採点、そして全国模試ともに、まさかの一位をとることが出来たのだった。
――A組での二学年二学期を迎えた初日のこと。
体育の授業を終えると、更衣室で着替え、ロッカーから財布を取り出し自席へと戻る。
昼食を取ろうと、机の脇に下げていたリュックに手を入れる。
そこで、気が付いた。弁当を食べながら読もうと持参した筈の、小説が入っていないことに。
朝、電車の中で数ページだけ読んだそれは、間違いなくリュックに入っている筈だったのに……。
ふと、周囲に気取られないように教室の様子を窺う。他人の物語を想像して楽しむ僕は、密かに観察する能力に長けていた。
A組は、入学時からそのメンバーがほとんど入れ替わっていない。
いつもと何ら変わらないが、転校生が早速、女子グループと打ち解けている様子が見てとれた。
そして――とある三つの視線がこちらに向いていることに気が付く。
その視線には少なからず悪意が込められていると感じた。そして、間違いなく『小説を盗った犯人』であるという確信を持った。
でも、何故あの三人が……?
同学年で最も有名な三人組。二人は一年のときから生徒会役員を務め、一人は学級委員長。校内模試は三人がトップスリーを独占していた。
三人とも家柄が良く、容姿端麗。性格も、さらには運動神経すら良く、先生、生徒からの人望も厚い。
勉学しか取り柄のない、独りの世界で生きる僕とは、そもそも住む世界が異なる三人だった。
――この高校の体育は、文字どおり体を育むことを目的としたもの。学年全員、男女共通で同じ時間に行われる。
今日の課題は、授業時間の五十分以内に、各自五キロメートルを走破するというもの。
課題を終えた生徒から順に教室に戻り、自由時間のまま昼休みを迎えることが出来た。
足に自信のある生徒なら二十分ほどで。急げばなんとか時間内に歩ける距離だった。
体力に自信の無い僕は、走って歩いてを繰り返し、四十分で走破したのだが――そういえば、例の三人は、誰よりも早く余裕の表情で、揃って教室に戻っていた。
誰もいない教室で、僕のリュックから小説を盗ることは容易い。ただし、何故あの三人がそんなことをする必要があるのか……。
三人の視線を感じたのは一瞬のことだった。
何もわからないが、そのとき、僕は寒気を覚えていた。
あの三人ならば、僕に視線を気取られることだってなかった筈。一切の証拠も疑惑だって残さずやってのけた筈なのに……。
じゃあ、何故?
僕が動揺する様子を見て、楽しむ?
それが三人の思惑なのか。
その日から、僕の世界に揺らぎが生じたのだった。