12話 緑の国 1
――腰掛けていてもわかるのは、その猪男が見たことの無いほどの巨体であること。
ギラギラした目に満面の笑みを浮かべた表情、そして体毛が、本物の生き物にしか見えないこと。
物騒な物言い、獣臭、そして死の臭いを間近に感じるあまりの迫力に、膝が砕け、わたしはその場にへたり込んだ。
「がはは! 冗談だよ。人間なんて食っても美味くねぇからな!」
リアルで豊かな表情を持つその大男は、大声で笑った。
猪男、荷車を引く謎の生物、結果予知で見た謎の紫の生物。
……一体、ここはどこで、なぜわたしはこんなところにいるのだろうか。
目を閉じると、頭の中で様々な思いがグルグル回っている。
これは走馬灯……ではない。ただ混乱しているだけだ。
『立ち止まっても良い。でも、前を見ろ。周りを見ろ』
ある人が言っていた言葉。そして、とても大切な言葉を思い出した。
一つ大きく息つくと、目を開けて周りを見回す。
緑の草原に伸びる一本の地肌。そこにわたしは女の子座りで座っている。
目の前には謎の生物が二匹、荷車を引く役を担っている。
そして、荷車の先頭でその生物を操縦している大男。
それは、巨漢が猪のコスプレをしているとは思えない。
その大きさもそうだし、何より顔が、表情が本物そのものにしか見えないのだ。
理由がわからないが、わたしはどこか別の世界にいる。今はそう考えよう。
そして、これからのことだが。
先ほど目を閉じたときに、また結果を見てしまった。
それはまた同じ結果で、どこかの部屋のベッドに眠る自分が見えたのだ。
だが、現状を踏まえて、その光景で気付いたことがあった。
下半身に身に付けているものが、今と異なるのだ。
ブランドもののパンツではなく、謎の布を巻き付けた、ロングスカートのような格好だった。
とにかく、この場で食い殺されることは無いのだろう。
おそらくだが、この荷車で人が住む場所に連れて行ってもらえるのではないか。
両手で膝を軽く叩くと、ゆっくりと脚に力を込めた。
まだ膝が笑っているから、慎重にバランスを取り、立ち上がる。
本当はお尻に付いた砂を手で払い落としたかった。
でも、今はそれをしないほうが良いだろう。
またも一息つくと、平静を装い、大男に向かって口を開いた。
「人間の住むところに行きたいのですが。荷台に乗せていただけませんか?」
少し声が震えていたのかもしれない。
初めは少し目を見開いて驚いていた大男は、すぐにその表情筋を綻ばせ、大笑いした。
「がはは! びびって漏らしといて、第一声がそれか! お前、なかなかやるな!」
薄いグレーのパンツは、わたしの排尿で股間からお尻部分までダークグレイに濡れていたのだ。
「ちょうど、キュリーに行くところだったんだ。良いぞ、荷台に乗れよ。汚れてるけど、お前のケツよりはマシだろ。がはは!」
キュリーとは地名のことだろうか。
股間から足元に垂れる尿がひどく気持ち悪いが、依然として平静を装い、「ありがとう」と御礼を言いながら、荷台に乗った。
荷台で揺られること約一時間。
快晴も手伝い、パンツはすっかり乾いていた。だが、明らかにお漏らしをしたことを知らせる染みが出来てしまい、どうしようか悩んでいると、
「おぉ、ここで待っててやっから、川でその汚ねぇのを洗って来いや。あと、荷台にちょうど良い布があっから、それでも巻いとけ」
猪男がそう言うと荷車が止まり、すぐ近くに川が見えた。
たまの会話をしてみてわかったが、この猪男、物言いはひどく物騒だが優しいのだ。
慣れると、ただの気の良い頼りになるおじさんのように感じた。
予知で見たものと同じ布を見つけると、それを手に荷台を降り、川へと走る。
周囲に人目が無いことを確認すると、下半身だけ下着まで脱ぎ、川に下腹部を浸ける。
ひどく冷たいが、勾配が緩やかで深さもちょうど良い。
尿を洗い流すと、ついでにパンツと下着を水で洗う。
川から出ると布で拭き、そのまま巻き付けた。
濡れた衣類を絞ると、荷車へと戻った。
「お前、体毛が全部黒いんだな。なかなか見ないけど、何処の国から来たんだ?」
どうやら見られていたらしい。
しかし、黒い体毛が珍しいと言うことは……この辺りの人間は金髪が多いのだろうか。
あと、『何処の国』と聞くと言うことは、いくつか国があると言うことだろう。
「……日本です」
とりあえず、正直に答えてみる。
「ニホン? 村の名前か? 俺が知らねぇってことは……さては、すっげぇ田舎者だな! がはは!」
日本は存在しない、と。
せっかく田舎者扱いされたから、それを利用していろいろと聞きだそう。
「わたし、村を出たことが無いの。だから、国って言われてもわからない……」
果たしてそんな閉鎖的な村が存在するのかわからないし、ここの教育方針もわからない。
これは賭けだった。
もしもダメなら記憶を失ったことにしよう。
そう思い、猪男の反応を待った。
――謎の紫の生物。
こいつらは、まるで子供のように無邪気で、そして従順だった。
僕のことを殺そうとしたり、心臓を取ろうとしたりしたが、「やめろ」と言うだけで、「ギャ」と鳴き、大人しく従うのだ。
お人好しで、頼まれたことを断れないタイプ。
そんな人間を数多く見てきた。そのうちのほとんどが、人の頼みごとを断れずに抱え、抱えきれずに潰れてしまっていた。
目の前の生物は、そのせいで人間に何度も何度も殺されている。
たまに返り討ちにするらしいが、おそらくは、
『大人しく捕まってくれ』
『大人しく殺されてくれ』
とお願いをされて、「ギャ!」と鳴き従っているのではないか。
大きく隆起した木の根っこに腰掛けると、小さいその生物は、「ギャ!」と小さく叫び、一人は肩の上、二人は太ももの上に乗ってきた。
これが人間の子供なら可愛いのだが……色と言い見た目と言い、さらには蛇やトカゲのような感触を持っているため、悪いがひどく気持ちが悪い。
それでも、注意すれば危害を加えてこないとわかった。
この生物をうまく使って、人間に会う。そして、人間が住むところに行く。
そのためには、まずはこの生物を捕らえに来るであろう人間を待たなくてはならないのだ。
「なぁ、人間はいつ来るんだ?」
「ギャ?」
「太陽ぎゃもうちょっと動いたら来るギャ」
「あそきょきゅらいギャ」
一人のギャが、斜め四十五度くらいを指さした。
季節がわからないが、午後三時くらいのことだろうか。
たしかバスが復路についたのがお昼前くらいで、目が覚めてから一時間くらい経っているから……一時と二時の間くらいか?
じゃあ、あと二時間もすれば人間が来るかもしれない。
その間、この生物から話を聞くか……そう思ったのだが、ギャたちは急に思い出したように、
「食べるギャ」
「最後の晩餐ギャ」
「時間ぎゃ無いきゃら生ギャ」
先ほどやっつけた生き物を食べるようだ。
「人間も食べるギャ?」
よくわからない生物を、しかも生食などできるわけがない。
「ありがとう。でも、お腹が空いていないから良い」
本当はお腹が空いているが、嘘を付くと、ギャたちが謎の生き物に食らいつく光景を眺めた。
体感で一時間半ほどが経過した。
謎の生き物をあっという間に食べ終えた三匹は、そのお腹を大きく膨らませて、僕の太ももの上で「ギュー」と寝息を立てて寝ている。
こいつらがアニメのキャラクターだったら、愛嬌があって可愛く描かれるかもしれない。
でも、リアルなこいつらは本当に気持ち悪い。
どう頑張っても可愛いと思うことはできなかった。
おそらく、こいつらは正確な体内時計のようなものを持っているのではないか。
こいつらの腹が減って、何かを食べた後に、人間が来る。
そう、食休みを狙ってくるのだろう。そう推測した。
――カサカサと、草の上をすり足で近付いてくる音が聞こえた。
そしてその音が聞こえる方向に、物影を発見する。
まず見えたのは、銀色のヘルメットのようなもの。
屈んで草陰から頭を覗かせ、こちらの様子を窺っている。
ギャたちが寝ているのは良いが、得体の知れない人間がいることに戸惑っているのだろう。
その格好は、返り討ちに遭うことを防ぐための武装ではないか。
とすると、ここで下手に動くと、僕が危害を受ける可能性もある。
両手を挙げると、
「僕は人間です。人のいるところに行きたいのですが」
ヘルメットに向かってそう言った。
ギャたちに通じるのだから、まさか日本語で話しかけて問題無いだろう。
すると、
「お前は誰だ?」
ヘルメットがそう言った。
ここは何と答えるのが正解なのだろうか……そもそもここがどこなのか全然わからない。
少なくとも日本では無いだろうが、日本語が通じる。
どこか変な世界にでも迷い込んだと考えるのが正しいだろうか。
とすると……『日本から来た真田慎治』などと名乗っても無意味そうだ。
ここは、記憶を失ったフリをするか、あるいは田舎から出て来たと言うか……
「目覚めたら、この森にいました。なんか大きい生き物に襲われて、でも、こいつらに助けられました」
とりあえず嘘は嫌だったから、何もわからないことをアピールする。
「よくわからないが……とにかく、危ないからそいつらから離れろ」
「危ない? ……こいつらのことですか?」
僕のこの状況を見て言っているのだ。ギャたちを指しているのだろうが、念のため確認する。
「そうだ。寝ているうちに、こっちに来なさい」
たしかに不意を突かれると即死だが、頼めば素直に聞いてくれるやつらなのだが……
「話がわかる従順なやつらで助かりましたよ」
「話が、わかる? 従順?」
何やら、想定外の反応だった。
それはそうか。返り討ちに遭って犠牲になった人間もいるのだろう。
言い方を間違えたかもしれない。
そう後悔したのだが、
「お前、何を言ってるんだ? そもそも、こいつらとは話せないだろうが」
「……ん?」
「まさか、こいつらの言葉がわかるとでも言うのか?」
もしかしたら、本当に答えを間違えたのかもしれない。
そのヘルメットは背後に何やら合図をすると、背後からヘルメットが二人、追加で出現した。
「こいつも連れて行こう。使えるかもしれない」
ヘルメットで表情のわからない三人は、剣、弓矢、斧を手に、こちらに歩み寄ってきた――