124話 バグ
わたしが次に考えたこと。
この意識領域が現実と意識世界の狭間だとして――わたしの意識は何時、何処に戻ることになるのか。
まさか、一生このまま闇空間に漂い続けるのだろうか……。
戻る先は現実か、あるいは意識世界しか無いだろう。
もしも現実に戻るのだとすれば、この意識はわたしの本体へと戻るに違いない。
その、本体が何処にあるかというと……おそらく、どこか研究室のようなところで、何らかの装置に入れられ昏睡状態を続けているのではないか。
本人への許可も得ないままの人体実験。
人選は不明だが、あのバスに乗っていた七人が被験者に違いない。
五十年に一度のご開帳で、しかもどんな願いも叶うという眉唾なパワースポットを餌に誘い出された七人。
そういえば……同乗者には、テレビで見たことのある顔が、しかも二つあった気がする。
普段、報道番組とドキュメンタリー番組しか観ないわたしでも知っていた……たしか、イケメン若手実業家と、可愛すぎる棋士だったか……。
そんな有名人を被験者とするあたり、人選は完全なランダムなのか、あるいは何らかの条件があるのか。
いずれにせよ、バスが帰路で交通事故に遭遇したとでも装っているのではないか。
息のかかった医療機関に運び込まれ、意図的に昏睡状態が続けられ、その意識を移動させるという実験をしている……。
――とすると、現実に戻る可能性もゼロではないかもしれない。
これはわたしの勝手な憶測であって、昏睡状態から目覚めたわたしが何を言おうとも、『悪い夢を見ていたのだろう』と言われたらそれまでなのだ。
おそらくだが、被験者の七人はその後も経過が観察され、被験者同士が接触することは避けられる。
七人が皆、同じ世界で過ごす夢を見ていたなど、変な詮索をされてはならないのだ。
「ちっ……」
わたしは、ついつい舌打ちをしてしまう。
あの頭の悪そうな少年と、もっと関わり合いを持つべきだったかもしれない。
まさかこんな憶測を持つとは思わなかったから仕方が無いのだが……。
せめて名前とか、現実での居住地を伝え合うべきだったかもしれない。
もちろん、現実での接触は叶わないだろう。
それでも、お互いが夢の中で出会ったという証言は出来るのだから。
結局のところ、あの意識世界に戻る可能性が高いだろう。
もう一度、あの世界に健全な疑似体がつくられて、わたしの意識が移される。
実験の目的は、意識の繋がりや疑似体の活動に支障が生じないかを確認するものと考えられる。
それこそ関係者が被験者になれば良いのだが――もしかすると、意識世界への顕界に個体差が生じるとか……?
例えば……そうだ、持ち得る力に個体差があるとか。
何も知らない第三者を対象とすることで、今はそれを確認する段階なのかもしれない。
それらを鑑みると、わたしが見えない壁を通り抜けたのは想定外の事象だった可能性がある。
現時点で意識世界には限りがあるか、あるいは実験用のエリアが設けられていた。
それなのに、わたしは持ち得た力を使って、半ば無理矢理にその壁を通り抜けてしまった……。
そう、バグが起こったんだ。壁を通り抜けること自体がバグで、わたしの疑似体は想定外のエリアに立ち入ることで、溶けるように消滅したのではないか。
そうだとすると……意識領域に漂うこの間に、バグの修正がされているのかもしれない。
次に顕界したときには、二度と壁を通ることは叶わない……。
――その後もずっと、意識世界のことだけを考えていた。
体感では優に一か月以上が経過していた。
バグの修正に時間がかかるのは仕方が無いとしても、この時間がひどく無駄だと感じていた。
完全な解消とはいかなくとも『壁切り取り、ダメ絶対!』などという看板でも設置すれば、取り敢えずは済む問題ではないか。
もちろん、そこが意識世界などと勘ぐられてはいけないのだろうが……。
ある程度考えがまとまったわたしは、とあることを決めていた。
次に意識世界に顕界することがあれば、意識をして立派な被験者を演じてやろう。
わたし自身、あの意識世界に戻ることを待ち侘びていたのだ――
相変わらず考え事だけをしていると、深い深い闇――深淵の暗闇に、小さな光が見えた気がした。
目を凝らすように意識を集中させてみると、それはたしかに光だった。
そして、その光は段々と大きくなっているように見えた。
いや……大きさはそのままに、こちらに近付いているのかもしれない。
ゴマ粒くらいの大きさだった光は、やがて半径一メートルほどの大きさの円形となり、さらに大きさを増していく。
「……早く……早く、わたしを光の中に――あの世界に戻して!」
光は遂に目の前を覆うほどに大きく近付いた。
そして――わたしは、光に飲み込まれた。
すぐに、その光が眩しいと感じるようになった。
「……う……ん……」
胸の底からは微かな声が、反射的に漏れる。
こちらも反射的に、右手が目の前に動くと、目元に影をつくり出していた。
どうやら視神経が正常に機能し、声も出るようだ。
意識は、闇に漂っていた時から変わらず覚醒したまま。
眩しいという、久しぶりの感覚を噛みしめながら、ゆっくりと開眼を図る。
同時に、左手に意識を集中させると、芝生のような物質に触れている感覚があった。
草の色は定かではないが、意識世界に戻ってきたことを確信する。
薄目で自分の右掌の存在を確認すると、左手を支えに上半身を起こしてみる。
意識はずっとあったのに、感覚が取り戻されたばかりのためか、思ったようにからだを動かすことが出来ない。
それでも、ゆっくりと時間を掛けて半身を起こすと、正面に広がったのは、頭の中で繰り返し思い返していた真っ赤な草原。
「あぁ……戻った……の? 深淵の――暗黒の意識領域から……」
あらゆる感覚がある以上、疑似体でも喉が渇くのだろう。
カラカラに乾いた喉を傷つけるように、微かな声が漏れ出た。
目の前にかざしていた右手、地面を支えていた左手を眼前に持ってくると、確認を始める。
それは、現実世界で見慣れていた自分の手のように思える。
とは言え、『本物の、自分の両手はどれでしょう?』などと突然、似たような手を複数見せられたら、自分のそれを当てる自信など無いのだが。
自身のからだを確認すべく、今度は胸元に目をやると――
「は、裸!?」
真っ白く不健康で、女性特有のふくよかさを大きく欠いた上半身は、何も身に付けていなかった。
地面に付いたままの下半身を見ると、そこには見慣れない薄い布が掛けられている。
両手で布を掴み、中を捲り見ると――下半身も、何も身に付けていなかった。
「……そっか……バグでからだが溶けたときに、服も消えちゃったのかな……? でも、からだを再生するなら服も一緒に……って、え?」
微かな風に、ひんやりとする胸元を押さえながら、思ったことを口にする。
そして、初めて辺りを見回したわたしの視界には、予想もしない光景が入り込んだのだった。
わたしの右側、真横すぐ一メートル先くらいに、それは存在していた。
何故か合掌をしたまま息を飲む様子の女性が、しかも二人、膝立ちをしていたのだ。
まるで、溶けて消滅したわたしを弔っていたかのような……あるいは、まるで復活を祈っていたかのようなその二つの姿に――わたしの意識は、再び困惑を始めていた。