123話 意識領域
――暗闇に飲まれたわたしは、ずっと、ずっと、ずーっと、考えることだけをしていた。
完全な闇の中では、目を開けているかどうかもわからない。
瞼の開け閉めを含む全ての感覚が失われていたため、そもそも自身のからだが存在しているかさえもわからなかった。
ただし、意識は覚醒し、思考を働かせることだけは出来た。
だから、考えることだけしか出来なかったのだ。
わたしは先ず、直近の鮮明な記憶を辿ることにした。
――可愛い子猫を見つけると、その場に屈み、手を差し伸べ指で招く仕草を取った。
もう少しで手の届きそうな距離に近付くと、子猫は「にー」と、これまた可愛い声で鳴いた。
その直後、差し伸べた手の異変に気が付く。
ほとんど日に焼けていない不健康な白い肌が、真紫色へと変わっていたのだ。
すぐにその紫色の肌はドロドロと溶けるように、骨から剥がれ落ちていく。
一切の痛覚すら感じることもなく、次の瞬間には空を見ていた。
きっと、肉体が溶ける現象が右手から全身に転移して、足腰も立たなくなったのだろう。
左目の視覚が失われると、すぐに右目に映る光も消えていく。そしてわたしは、闇に飲み込まれた。
人は死ぬとどうなるのか――死して初めて知るそれは、生前に知ることは永遠に叶わない。
でも……この暗闇が、死後の世界とでもいうのだろうか。
天国とか地獄とか、そんな話を信じたことはないが――こんな、考えることしか出来ない世界なんて……何て、酷な世界なのだろう。
生前に罪を犯した者には、永遠にも感じる時間をかけて、反省をさせるということか。
現世に名残や悔いを持つ者にとっては、永遠に惜しみ後悔をする時間となる……。
じゃあ、わたしはどうなのだろうか……。
今日という日にいろいろとありすぎて、先ずはそれを振り返る必要があった。
――パワースポットからの帰りのバスが出発し、目を閉じるまでは、間違いなく現実の世界に居た。
そして、次に目を開けたときには、現実とは違うどこか別の世界に居た。
真っ赤な草原が広がるその世界では、わたしは『反発する相手が発するあらゆるモノを跳ね返す』という謎の力を身に付けていた。
その世界で初めに出会ったのは、同じバスに同乗していた頭の悪そうな少年。
わたしのような厄介者を排除する謎の組織の一員、などと考えたこともあった。
だが、おそらくわたしと同じ被害者の一人なのではないか。
邪険な態度を取り別れてしまったが……いや、あの少年と行動を共にしたところで、何一つ良い方向には動かなかった筈だ。
わたしの対応に間違いは無かったと考えよう。
次に出会ったのは、グレンと名乗るこの世界の住人……いや、死後の強い怨念から生まれた、黒いナニかだった。
グレンは、人の魂という目に見えない概念的なモノを刈り取る力を持っていた。
わたしは、不意に襲ってきたグレンのその力を跳ね返し、この世界から消滅させた。
すると、グレンの力は何故かわたしのからだに移り宿っていた。
その、見えないモノを刈り取る力で、突如直面した見えない壁を切り取ることが出来たのだ。
そして、壁を通り抜けたすぐ先で……子猫に殺され、今に居る。
さっきまで居たのは、おそらく現実ではない世界。
その世界には謎の力が存在し、その身に宿すことが出来ていた。
外側か、あるいは内側か不明だが、人の侵入を拒む、これまた謎の見えない壁があった。
その壁の先で、わたしは謎の死を迎えた。
――それらのことを何度も何度も、ずっと、ずっと、ずーっと繰り返し振り返り、そして考えた。
その結果――一つの願望にも似た憶測を持った。
――最近、わたしはとある論文を目にしていた。
人口増加、資源の枯渇、地球の温暖化といった問題への対応策が論じられたもの。
策というには稚拙で、ただの夢物語で絵空事だった。
それを鼻で笑いながら、でも興味を持って何度も目を通した。
同世代の人間が、漫画やらアニメを面白おかしく楽しむように、わたしはその論文を見て愉しんだのだ。
その論文には、人類を地球ではない場所に移住させる計画が書かれていた。
火星や月といった宇宙空間よりも、さらに非現実的なその移住先は――意識世界と、そう呼称されていた。
人間の意識をデータ化し、意識を仮想の世界に存在させるというのだ。
その人の本体は、身体機能を凍結させて半永久的に安置するという、これまた現実化が困難な保存方法がとられる。
これらが可能となれば、人類は半永久的に意識の世界で生き続けることが出来る。
人を移住させるために、大がかりな移動手段は必要とならない。
ただ、人を保存するための装置と、一畳分くらいのスペースを全人類分準備すれば良いだけ。
それだけで、全人類を意識の世界に移住させることが出来るというのだ。
わたしが興味を持ったのは、これらの非現実的な移住手段ではない。
もしも意識世界とやらで生きることが出来たのなら、くだらないことで悩む必要がなくなると考えたのだ。
人がくだらない、醜い言動を取るのは、自身と他者とを比較するからに他ならないと考えている。
自身が優れていると思えば優越感を抱き、他者を蔑む。
自身が劣っていると思えば劣等感を抱き、他者を妬む。
そんな言動を一切持たない無我の境地に至る人間も存在するかもしれないが、ほんの一握りに違いない。
そもそも他者と比較するのは、『限られた生』が原因であると考えた。
限られた生を謳歌するためには、そんなくだらないことを楽しいと思うことも必要となるのだ。
生に限りが無くなった瞬間、誰しもがそれらの言動を『本当にくだらないもの』と考え、無用の長物として忘却されるのではないか。
論文に目を通しながら、わたしは自分が思う理想の意識世界を考えては、一人愉しんでいたのだった。
――憶測に戻るが。
わたしが居た世界は、まさに意識世界そのものだったのではないか。
あの論文の移住計画が、実は秘密裏に大きく進んでいたとする。
移住先の意識世界の一つが、真っ赤な草原が織り成すあの世界だというのならば――謎の力や見えない壁、そして、あり得ない死についても説明が付くのだ。
あそこが異世界やら死後の世界やらと考えるのと同様に、あり得ないし馬鹿げた考えなのはわかっている。
でも、考えることしか出来ないこの暗闇で、あらゆる考えを持っては捨て、最後に残ったのがこの憶測だったのだ。
それならば――今の私が居る、この暗闇の世界は一体何なのか。
おそらくだが、現実と意識世界の狭間なのではないか。
意識世界で命を落とすのは、まさに意識が途絶えるようなもの。
本来なら意識は一旦、本体へと戻ると思われるのだが……これが本人に無許可な人体実験ならば、それだけは避けるに違いない。
だから、意識世界と現実との狭間に敢えて留めているのではないか。
ここはただ、意識だけが漂う空間……いや、領域とよぶことにしよう。
そう――意識領域、なのではないか。