113話 わかりやすいし呼びやすい
笑顔が垣間見えるようになったその場で、アカネは依然、何かを考え込む表情をしていた。
「ところで、マツリよ。聞きたいことは山ほどあるし、今後の話もせねばいかぬのじゃが……。一つ、教えて欲しい。ワシの……お主の妹の、本当の名は何というのじゃ?」
「うん? あぁ……気になるよな」
相変わらずの、お胸を強調するポーズでマツリは少し顔をしかめる。
「実は……二代目アカネ以降、ちゃんとした名付けがされなかったんだ。ひっどいよなぁ……お前だけじゃなくて、アタシもだからな?」
余命九年が約束された次女と、十六歳で長の名を継ぐ長女。
どうせ消えゆく名前なら、いっそ初めから付けないことを選んだのだろうか。
それでも、さすがに呼び名はある筈だと、レイも顔をしかめて答えの続きを待つ。
「アタシが『マー』で、お前が『アー』だ。マツリ候補とアカネ候補……ひどいけど、わかりやすいし呼びやすいよな!」
「……くっ……くっくっく。確かに、わかりやすいのぉ。お主らの『マー』はチナマッグ候補のマーに違いないからの!」
「あははっ! じゃあ、うちの確定チナマッグも呼びやすいのにしようか。ビエニカが『ビー』で、ロキは『パー』ね!」
「「誰がチナマッグだ!」」
その場には三つのツッコミと、二つの大笑いが響いた。
一人、シンジだけは少しだけ笑うと、また難しい顔を始めていた。
シンジには未だ、アカネのことで気にかかることがあった。
アカネが何故、自ら進んで壁の外に出たのか。それは、シンジたちが知るところではないだろう。
気になるのは、外に出た手段だった。
『与える』『授かる』という二つの力を持つアカネ。
その力が発動するには、与える側と与えられる側の利害が一致する必要がある。
シンジには、その力で壁を通り抜けるという手段はどうやっても思い浮かばなかったのだ。
「おい、姉ちゃん! 団長のビーはともかく、パーってなんだよ。せめてローだろうが!」
その場に形成されたチナマッグ環境が鎮圧されない中、だが、シンジはその会話をきっかけに一つの考えを導いた。
『……わかり、やすさ……? ――そうか! 今のこの機に便乗すれば、彼女のことをレイと呼べる!?』
無事にチナマッグ環境に仲間入りしたシンジ。
この二日間、二人きりで行動していたにも関わらず、未だに『澪川さん』『真田さん』と呼び合っているのだ。
『じゃあ、澪川さんは、レイだね!』
と、どさくさ紛れに言えば良いだけ。
「じゃあ――」
だが、シンジの決死の一言は、思わぬ侵入者に阻まれる。
『ちょっと、良いか? こっちのジーが、アカネのことを知ってるらしいんだ』
『誰がジーじゃ!』
コタロウの声に向けた視界画面は、老獪なツッコミをするイゾウの姿を映し出していた。
『アカネ様』という名前を耳にしてから、画面の先ではイゾウへの聞き取りが中断されていた。
コタロウは、シンジの視界をイゾウに、ロキの視界を犬神父に貸して、四人でずっと、こちらの動向を見守っていたのだ。
「……私、実は――遠くに居る人と会話が出来るの!」
未だに自分たちの力すら明かしていない中、この場に居ないコタロウの力を説明するのも難しいだろう。
というか面倒臭い、と思ったレイは、取り敢えずその場に通用する言い訳を口にする。
「なんと!」
「すっげえな、ひ」
「でしょ? それでね、こっちの会話を聞いてたイゾウっていう黒髪のじじいが、アカネちゃまのことを知ってるみたいなの」
「ジジイ……? 知らぬ名じゃのう……」
首を捻るアカネは、イゾウという名にも聞き覚えが無さそうだ。
それでも、先にアカネの名前を口にしていたのが、画面先のイゾウなのだ。
壁の外に居た頃の――この世界にやって来た当時のアカネを知っているに違いない。
ただし、おそらく三百年以上前の話だし、画面に映るあのヨボヨボが覚えているのか……ひどく頼りない。
レイは一切の期待を抱かずに視界画面を見つめた。
『ジジイじゃなくてイゾウじゃ! まぁ……大昔に三度しか会うたことの無い関係じゃから、仕方無いじゃろうな。
――では、手短に説明しよう。ワシとアカネは、同時期にこの世界にやって来たのじゃ。一度目に会うたのは、この世界に来て二年後くらいじゃろうか。そのときに、アカネはその生い立ちと、壁の外への憧れを口にしておった。
その後、これはたまたまなのじゃが……ワシらの他に、侵入に特化した力を持つ者が見つかっての。しかも、侵入の罪を共有出来る……触れた相手もその効果を共有出来るという、アカネにとって都合の良い力が現れたのじゃ。
三度目に会うたのは、壁の外に侵入するアカネを見送ったとき。無論、侵入する力を持つそやつだけは、すぐに内側に戻ってきたがの』
イゾウの話をそっくりそのままの内容で、そのままの口調で伝達するレイ。
大昔に、しかもたったの三度しか会ったことの無い黒髪のことを、何故そこまで覚えているのだろうか。
ヨボヨボなイゾウを心から疑っていたレイだが、その力を思い出すと、一人納得する。
自身のからだの時を戻すことで、その薄れた記憶も鮮明なものに戻るのではないか。
それなら――覚えているのなら、気になることはこの場で聞いておくべきだろう。
細かいことはアカネから直接聞いてもらうとして――
「ねぇ、アカネの見た目って、私に似てたの?」
それ、今この場で聞くことか?
ミュウの視界画面に映るタコロスのそんな表情はウザいとして。
レイが先ず気になったのがそれだった。
『髪の色は違うが、その凶悪……いや、鋭い目付き。そこな豊満な嬢ちゃんと並ぶとより際立つその……ゴホン。うむ、瓜二つじゃ!』
上手く誤魔化したつもりだろうけど……このじじい、後でどんな目に遭わせてやろうか。
ヨボヨボ用の新たな刑を考えることを、レイは心に決める。
「ということは……やはり、マツリも初代のワシそっくりということじゃの。お胸以外は……。――ところでジゾウとやら。ワシは、何故に外の世界に憧れておったのじゃ?」
遠くで聞いているイゾウにも良く聞こえるようにと、アカネは幼い声を大きく張らせて問い掛けた。
『ジジイでもジゾウでもない、イゾウじゃ! ……うむ。生い立ちを聞いたとは言え、さすがに踏み込んで聞くまでは無かったからの。知っておるのは、アカネは現世では酷く劣悪な環境に育ったこと。両親からも他人からも、まるで人とは呼べぬ酷い扱いを受けていたということ。
全く……どんな人生を歩めば、どんな目に遭えば、奪うなどという力を心から望むのやら。何ともいたたまれない思いをしたことを覚えておるよ……』
ただの平凡に憧れ、奪ってでも得たいと願ったアカネ。
そんなアカネにとっては、ただの平凡こそが幸せそのものだったのだ――