106話 黒髪の幼女
どう見ても、十歳にも満たない黒髪の幼女。
身の丈は、横に並ぶシンジの腰よりも少し高いくらいか。
その格好は、簡素な布を着物のように着飾っている。布から覗く手足は、真っ白くてか細い。
綺麗な黒髪は後ろで一つ束ねられ、膝裏に届くくらいに長く垂れ下がっている。
狐のように切れ長の目、黒目は大きめだ。
まるで、歴史の教科書に描かれる偉人のような佇まいの幼女だった。
「なんか、面白そうなことやってるからさ、ついつい……って、アカネ様――まだマグソ居るんだから、出て来ちゃダメだろ!」
やはり、あの幼女がアカネ様か……。
柔らかい肉の塊にもたれながら、レイはそのやりとりを見ていた。
――ていうか、聞き間違いかな?
この長、今、マグソって言わなかった?
「おいコラ、マツリ! 俺はマグサだって、何回言えばわかるんだ!」
あ、やっぱり。
低俗なこの男に、なんて相応しい呼称なのだろう。私もそう呼ぼう。
でも、それよりも先ず――
「あの……離してもらえますか?」
特に肉の塊の圧迫感で苦しく、レイは抱き締めからの解放を求める。
「あぁ、悪いな。しかしアンタ、男のくせに女々しいからだしてんなぁ……」
……ん?
「黒髪、染めてるんだろ? あんまりその力だけに頼りすぎると、早死にするぞ? アカネ様は女だから仕方無いけどな!」
……んん?
「お、長……そん人、女だべ……」
「はぁ? だってこいつ、胸無いじゃん?」
レイは、背後から伸びる両手に、胸元をまさぐられる。
自称、小ぶりで形の良いお胸が、遠慮無く上から下から撫でられる。
「ほらな?」
挙げ句のその反応に、レイは瞬間湯沸かし器の如く、ブースト状態へと陥った。
目を閉じると瞬時に、背後の巨乳に出来る最善の仕打ちを予知する。
目を開けると、先ずは完全な透明人間へと化した。
今のレイのからだは、踏みしめる草ですら透過する。
このままだと地面さえも透過してしまいそうだが、この力が透過するのは、どうやら生物だけ。加えると、生物が身に付けているモノも透過する。
レイは疲れなど一切気にせずに、前方に向かい全力で駆けた。
今度は、誰の目にも私の位置を知ることは出来ない。
ただしそれは、力の所在を知ることが出来る彼だけは除いて、だが。
空気を読むことも出来る彼は、他の人たちと同じように「き、消えた!?」と、驚く演技をしてくれている。
およそ二十秒の後に、私は力を解除して、姿を現した。
その位置は、村の守り神、黒髪の幼女のすぐ背後。
その小さな肩に左手を置くと、幼女は「ひゃうっ」と小さく可愛い声を漏らし、からだを大きく振動させた。
だが、反応はたったのそれだけ。
これまた小さな頭を優しく撫でる私にされるがまま、振り返ることもしなかった。
五十メートルほど前方で身構え辺りを見回していた長も、すぐにレイの姿に気が付く。
その表情は焦り、敵意をむき出しにしていた。
「き、貴様っ! アカネ様から離れろ!」
レイは、ようやく正面で長の姿を拝むことが出来た。
格好は幼女とほぼ同じだが、からだの凹凸がまるで違う。
遠目でも明らかな高身長で、俗に言う『ボン、キュ、ボン』なナイスバディ。
気持ちよく日に焼けた褐色のからだは引き締まり、だが女性本来の丸みを帯びている。
その柔らかさは先ほどレイも実感済みだ。
光り輝くような銀髪は頭頂で一つに束ねられ、馬の尻尾のように、うなじの辺りまで垂らされている。
そして、その顔は――
「やだ……可愛い!」
レイが思わず口に出してしまうほどの、しかも、見慣れた可愛さだったのだ。
眉毛もまつ毛も銀色で、瞳の色も輝くような藍色をしている。
だが、その顔のつくりはレイと酷似していたのだ。
ただ……悔しいことに、豊満な胸以外にも、レイが持たざるものを持っていた。
こちらの長も、チナマッグの頭領と同様に、かなり若いのである。
女子高生くらいの年齢だろうか……レイがその容姿で猛威を振るっていた、全盛期を彷彿させる可愛さだった。
そんな相手にレイが出来る最善の仕打ち――それは、余裕たっぷりのその態度に、ただ焦りを持たせてやることだった。
長は、予知どおりに切羽詰まった表情をしてくれた。
先ほどまで友好的だった筈のハチベエ、そしてカサブも、その目は敵を見るそれに変わっている。
そっちの二人は彼に言い聞かせてもらうとして……。
さてと――私、このままだと長に殺されない?
そんな私の考えを全て見透かしたのか。
あるいは、自身の予言の力で『良いことも悪いことも起きない』ことを知っているからか。
幼女は頭を撫でられながら、子供の声で笑った。
そして、子供の声で、だが年季の入ったしゃべりを続ける。
「ほっほっ……これ、くすぐったいわ。……マツリよ。この者たちは悪き者ではない。兎にも角にも、そこなノグソだけは追い払うのじゃ」
「で、でも……」
「――マツリ?」
「……はい」
全盛期の小悪魔な私に似て、いかにも気が強そうな長。
だが、幼女の言うことに大人しく従う。
――ていうか、聞き間違いかな?
この幼女、今、ノグソって言わなかった?
「おい、お前ら! 俺はマグソでもノグソでもないって、何回言えばわかんだ! しかも――アカネ、居るじゃねえか! くそっ、嘘吐くなんて最低な連中だぜ!」
「「お前が言うな!」」
お決まりとなったツッコミには、新たに二人の声が加わっていた。
しかし……マグソか、ノグソか……。
その場を覆っていた敵意をすっかり紛らせてくれたマグサ。
そんな彼に敬意を表し、レイはその呼称に一人悩むのだった――
「マグソ――痛い目見たくなかったら、大人しく帰りな」
「ちっ。世界が拡がったなんて嘘吐くヤツもいるし……。あぁ、今日のところは大人しく帰ってやらぁ。また来るからな、覚えてろよ!
アカネ、今度は嘘なんて吐かないで、ちゃんと出て来やがれ! 次こそチナマッグに連れ帰るからな! あとお前、痩せすぎだから、ちゃんと食えよ! あと、モヤシみたいに白いから、もっと日の光に当たれ! あと――」
「うるさい!」
大人しく帰ると言いながら最後までやかましいマグサに、長が怒鳴りつける。
「ちっ」
心なしか嬉しそうに見えるマグサは、舌打ちをして踵を返す。
だが――
「ちょっ、待てよ!」
ロキがまたも引き留めにかかる。
今度こそは拡がりの事実を伝える筈――もはやそんなことは微塵も信じないし思うことすらしないレイは、直ぐにロキを制止する。
「あんたが待て。――マグソ、それと、アカネ様とマツリにも聞いてもらいたいんだけど。実は、世界が」
「拡がったんだろ?」
事実を口にしようとするレイの台詞を、マツリが先に口にする。
「……もしかして、知ってたの?」
「マツリ、どういうことじゃ?」
一人、『俺はマグソじゃない!』と言おうとしたマグサも、大人しくマツリの続く言葉を待つようだ。
「アタシも、知ったのはついさっきのことだった――」
マツリは、世界の拡がりを知った経緯を話し始めた。