105話 持っていないもの
正妻……?
その意味をしっかり理解するレイだったが、ついついその現実から逃避してしまう。
それって――私が大好きな、人に与える制裁?
それとも、彼の前ではいつも欠いちゃう精細?
「喜べ! 俺様の、たった一人の正妻だぜ!」
その意味を理解出来ないロキとビエニカは、「それ、俺らが勝ってもなれたのか? 勿体無ぇことしたな!」と、何やら悔しがっている。
そんな中、ハチベエだけは何故か憤りを見せていた。
「おい、マグサ! お前、長にぞっこんだった筈だべ! 長に相手されねぇがらって、何を鞍替えしてんだ!」
「うるせぇ! 出来ることなら、俺だってマツリを……」
両手の人差し指をくっつけて、何やら俯くマグサ。
ハチベエは、今度はその姿に同情を始める。
「……んだな。確かに、長を射止めんのはお前さんにも、誰にも無理だべ……。そこのオークとゴロツキにはちっとばかし見どころさ感じたけんど、頭がアレすぎだべ……」
頭がアレと言われて、急に髪型を気にし始める二人。
そんなことはさておき、突然の予告プロポーズにも、目の前の男を見ながら冷静に思考を働かせるレイ。
正妻……か。私、男性との交際経験すら無いのに、いきなり妻だなんて……。
て言うか、正妻ってことは……チナマッグは一夫多妻制なの?
――うん。どうでも良いし、こいつの正妻なんて絶対に嫌だし。
あーあ、もしも彼とこんな状況に陥ったのなら……。
『きゃっ、捕まっちゃった!』
って、わざと捕まって。
『た、たった一人の妻なんて言われても嬉しくなんてないんだからね! でも……。た……大切にしてくれないと、許さないんだから!』
って……ツンデレか! いや、私は馬鹿か!
妄想は後でゆっくり楽しむとして……そうだ、今はこいつを問い質さなければ。
鞍替えって、なんやねん――
「じゃあ、なに? あんたは、ここの長――マツリって女の人のことが好き。本当はその人を正妻にしたいけど、あんたの頭がアレすぎて相手にしてもらえない」
今度は、マグサが髪型を気にし始める。
違うし、もしもそうだとしても、気にするのが遅すぎる。
しかも短髪のところを気にして触ってるけど、そこじゃないからね?
「――そこに現れたのが、か弱そうなこの私。そういうこと?」
「……か弱そう? いやいや、何をどう見たら弱そうに見えるんだ? ……まぁ、たしかに武力の面だけで言えば弱そうだけどな。
でも――マツリにそっくりなその凶悪な目付き。恐ろしい変異種をも凌駕するその威圧感。――俺好みだぜ! けっはっは!」
ひどい言われようだけど……そうか、村人の私を見る目。あの怯えの正体がわかった。
でも私、村人には威圧的な態度を取った覚えは無いんだけど?
ますます腑に落ちないレイは、だが取り敢えず話を進めることにする。
「ま、あんたが勝つことは無いから、どうでも良いや。じゃあ……ハチベエ。あんたに始まりの合図と、五十まで数えるのをお願いして良い?」
彼にお願いするのも悪いため、この場で唯一、五十までを数えることが出来そうなハチベエにその役を託す。
「わ、わかっただよ。じゃあ……始め!」
地面を蹴り一気に距離を詰めるマグサと、すぐにその姿を消すレイ。
だが――
「って言ったら始めるだよ」
前のめりに転げるマグサと、少し照れた様子でその姿を現すレイ。
「じゃあ、始め! いーつ、ぬーう、さーん、すーう……」
酷い訛りカウントが始まると、またも姿を消すレイ。
「ちっ――やっぱ、見えやしねぇ!」
マグサは舌打ちを最後に、耳を澄ませて周囲を探ることを始める。
その場を一歩も動いていないのだが、マグサはレイが目にも止まらぬ高速移動をしていると勘違いしているようだ。
「ずーろぐ、ずーすつ、ずーはつ、ずーく……」
時折「そこだ!」と勢いよく手を伸ばすも、全くの見当違いなマグサ。
気が付くとマグサは、レイからかなりの距離を取って、勝手に苦闘を繰り広げている。
やはりこの勝負、完全な透明など不要。
そう判断していたレイは、姿だけを消していた。
制限時間には変わりが無いが、触れることも許さない完全な透明になると、疲労感が増すのだ。
「よんずすー、よんずごー……」
残り五秒。気を抜かずに姿を消したままのレイは、大人しく時間切れを――
「やっぱり。ここに居るじゃーん!」
突如、背後から聞こえてきた声。
そしてすぐに、レイは自分が後ろから羽交い締めにされていることに気が付く。
「ごずぅっ! 終了だべ!」
終了の掛け声よりも先に、レイはその力を解除していた。
姿を現したレイに気付くも、マグサはその背後の存在を見て、口を開け停止している。
ハチベエも、掛け声の後にすぐ、その存在に気付くことになる。
「お、長!? いづの間に!」
ハチベエのその言葉で、レイも背後の人物の正体を知る。
いつの間に背後を取られたのかわからないが、おそらくマグサ並みの身体能力を有しているのだろう。
それよりも……姿を消していたのに、どうしてここまで正確に背後を取ることが……。
激しく困惑するレイの耳元で、長が囁く。
「せっかく姿消せるんだから、足跡見せちゃダメだろ?」
確かに、マグサの動きに合わせて後ずさりをしたかもしれない。
草地を踏みしめることで、足の跡が付いていたかもしれないけど……でも、まさかそれだけで気付くものだろうか。
「なぁ、これって、アタシの勝ちだよな?」
「……」
レイも、マグサのように『油断した』とか『一対一の勝負だったのに』とか弁明しようとも思った。
だがそれよりも、疲れるからと、完全な透明を選ばなかった自分を責める気持ちが勝っていたのだ。
「アタシの言うことを一つ、聞いてくれるんだろ? 何でも、な?」
後ろから抱き締められて、しかも耳の後ろで囁かれると、レイは悪寒とは違う震えを覚える。
むしろ、からだが熱く疼き――レイは脱力して、背後の人物にその身を委ねる格好となった。
「うむ、潔し! じゃあ、どうしよっかなぁ――」
私と同様、威圧感が変異種並みだという長。
マグサの美的センスは疑わしいものの、私並みに美人なのだと思われる。
おそらく知力は私が勝るとして、武力は当然、彼女が勝るだろう。
あと、私が持っていないものとすれば、権力くらい……ん?
……この、背中に当たる柔らかい感触は、まさか……この大きな肉の塊は、これも私が持っていない――
「これ。マツリ、よさぬか。御客人をからかうものじゃない――」
またも急に、今度は正面から聞こえてきた声。
その声の主は、長の家から出てくると、無邪気な歩調でシンジの隣に駆け寄る。
それは、黒髪の幼女だった。