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国境警備の仕事というのは、魔物の撃退と未開拓地域の調査なので肉体的に鍛えなくてはならない。それを知ったのが、実際に職場に案内されてからで、新人の集団に混ぜられたオレ達に、教官らしき怖いおっさんが腕立て伏せをしろと怒鳴った瞬間だった。
考えれば予想できたという気持ち以上に、ナタリアに国境警備をやらせようというニキの考え方が分からなくなった。どう考えても箱入り娘のナタリアに、体育 会系のノリは相性が悪いだろう。腕立て伏せが何回できるというのか? 華奢な細い腕がプルプル震えながら、一回も持ち上がらずに崩れるナタリアの姿が目に 浮かんだ。それはニキも承知のはずで、だからこそ配慮があるだろうと勝手に思い込んでいた。
しかし、それよりも驚いたのが、非常にゆっくりなペースながらもナタリアは基礎訓練をしっかり受けていることだった。想像通り一回も腕立てをすることはできなかったが、それでも諦めずに腕立てをしようとする姿は素直に感心した。昔に観た子馬の出産シーンとダブって見えた。
「これが生命の偉大さに触れる感動というやつか」
「よ……よくわからんが、お主がふざけているのは顔を見るとわかるのう……ふんむ……くっ、上がらん……」
顔を真っ赤にしながら震えるナタリアは女性として致命的な尊厳を犠牲にしている気がする。悪い虫すらつまみ食いを避けて逃げる醜態だった。少なくとも元魔王という王族系の貴族の令嬢がそんなに歯を食いしばってはいけない。
「頑張るのは良いけど、もっとシャキっと腕立て伏せしようぜ。……結構ヒドイ顔をしてるぞ」
「お主……それが頑張る者に対して投げかける言葉か。……どう思われても構わないゆえ……せめて邪魔をしないでたも」
「おい、違うぞ。そこに力を入れるんじゃなくて、腕の裏側に力を入れるんだよ。ここだ、ここ」
「ひいっ」
「あ、崩れた」
お前らじゃれ合ってんじゃないぞ、という視線に囲まれていることに気付く。咳払いを一つすると、オレも他の新人達と同じく整列した。終わった者は先に並んで待っているのだ。
五十人が運動しても狭くないスペースの部屋で、教官の指示に従って訓練を受けている。今やっている基礎訓練は筋トレだが、森林探索、対魔物戦闘、生存自活、重量運搬、などなど大量の訓練が後には控えている。というか、むしろ訓練しかなく、体育会系の部活動のようだった。
「一応、手加減はされているみたいだな……」
精鋭隊と思しき集団が外で比べ物にならない激しい訓練をしていた。アレと同じことをされたら逃げ出す自信がある。
「ナタリアが耐えられない場合も考えておかなきゃな」
ナタリアは良く頑張っていると思うが、どう考えても続かない。彼女は高貴な教養を活かした仕事をする方が伸びる。ニキとナタリアを説得して、別の仕事をやらせることをオレは考えていた。
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「なあ、なんでお前はそんなに頑張れるんだ?」
あれから一週間も経っていた。ナタリアを見て「辞めた方が良い」「無駄な努力だ」と言うやつが居たが、最近では誰も何も言わなくなっていた。相変わらず、 腕立て伏せすら満足にできないのに……。ナタリアには才能が無い。他に向いている道がある。だから、国境警備にこだわる必要は無いし、時間の無駄だった。
にも、関わらず、ナタリアは訓練を続けていた。泣いた日だってあるくせに。
「……おかしなことを言うのう。頑張る理由など一つじゃ。できないことをできるようになりたいからじゃ。皆、そうだと聞いた」
「だけど、お前、向いてねーよ」
「知っておる」
会話はそこで終わった。オレはいつも通りの訓練に戻って、自分にできるルーチンワークをこなしていた。自分は何をやっているのだろうか? ナタリアはあれ だけ頑張っているのに、自分はできることだけをダラダラとやって時間を潰しているだけだ。自分は一体何をやっているのだろうか? そんな疑心に最近は頭を 悩ませられる。
「よし、今日は給金日だ。終わったら事務室に寄って受け取るように。くれぐれも忘れるなよ」
教官の怖いおっさんが新人達に向かって声をかけた。この仕事に就いてからの初めての給料だ。メニューを終えた新人達は、そそくさと上がって行く。ナタリア は律義に時間一杯まで訓練してから上がるため、いつも一番最後まで居残っていた。オレは、それが終わるまでいつも待っている。
「……どうだ? まだやっているのか?」
「あ、領主。こんにちは」
ナタリアを見守りながら部屋の壁によしかかっていると、隣にスライムのおっさんがやって来た。
「兄ちゃん。ニキと呼び捨てで良いって言っただろ?」
「そうでしたね。ニキはどうしてこんなところに?」
「ナタリアちゃんを見に来たんだよ。それ以外にねえだろ?」
「あの、ニキはこうなることがわかっていたんですか?」
「こうなることってなんだよ?」
「ナタリアがここまで頑張ることです」
ナタリアは基礎体力が他の新人より大きく劣るので、特別メニューとして筋力トレーニングだけの訓練を行っていた。それを一日中やるのはもちろん辛く、ナタリアは何度も倒れている。それでも彼女は投げ出すことをしない。
「わかるわけないだろ。俺様はむしろ驚かされてるよ。……鍛えてやろうとは思っていたがな」
「そうですよね」
「兄ちゃんは逆に何か知らねえのか? 俺様は兄ちゃんに聞きたかったんだが」
「オレが知ってたらニキに質問しませんよ」
スライムのおっさんは唸って、唸って、そのまま黙った。静かになった部屋の中にはナタリアの荒い息と身体を動かす音だけが残る。そして、たまにナタリアが体勢を崩して倒れる音がするだけだ。倒れてもすぐに立ち上がることを知っているため、オレもニキも駆け寄らない。
「もう時間だ。兄ちゃんはナタリアちゃんを連れてってやってくれ。給金を受け取るの忘れるなよ。少し色付けといてやったから、なにか美味いもんでもナタリアちゃんにご馳走してやってくれ」
「わかりました。帰りに飯でも食べて帰ります」
「おう!」
それだけ言うとニキはいなくなった。オレはナタリアに近づく。
「ナタリア。今日は終りだ。給料もらって帰るぞ」
「はぁ……はぁ……終わった、のかのう……」
息絶え絶えのナタリアに肩を貸して更衣室まで連れて行った。
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夜闇に包まれ、外灯の白い光が木造と煉瓦造の街を照らす。ヨーロッパ風のシルエットが煉瓦の地面に映り、悪魔の笑うポスター(魔界では国民)が壁を賑やか にし、闇のマナが多い魔界の空気はおどろおどろしい雰囲気を演出するので、アシュタシルは毎夜ハロウィンの世界を作り出しているようだった。吸血鬼が闊歩 していても驚かない。むしろ当然とも思える。そんな世界をナタリアと二人で歩いていた。
「妾は自分の給料で、紅茶と茶菓子が買いたいのじゃ」
帰りに外食の提案をしたのだが、この一言で却下された。アシュタシルの街は夜の九時までしか外灯に明かりが点かないので、あまり夜遅くまで出歩くと危険だ。本当の暗闇は一寸先まで見えないから、歩くことすらままならなくなる。
「なあ、紅茶と茶菓子はわかるんだが、その蝋燭とマッチは何なんだ?」
「九時を超えたら明かりが無くなるじゃろ? その時に使うのじゃ」
「暗闇でお茶を飲むのか?」
「昔、お父様が真夜中の茶会を開いたことがあってな。蝋燭の光と夜空の星々が連なるようで、ロマンチックじゃった。その趣向を真似ようと思ってな。……きっとナオトにも気に入ってもらえると思うのじゃ」
「そうか。それは楽しみだな」
ニキに貰った食事代は空振りになってしまったが、茶会は茶会で楽しそうだ。オレとナタリアは表の市場通りから裏路地に入っていった。
「ここに来るのもこれで二度目だな」
「そうじゃな。あの時の妙に大げさなポーズを決める男もおるじゃろうか……」
「それは私のことか?」
最後の声はオレ達のものじゃなかった。振り返ると、そこには破れて片腕と片足が剥き出しになったボロ服を纏う男が立っている。先日、浮浪者達のリーダーをしていた男だ。汚れた帽子を被ってニヤニヤと笑っている。その様子が道化師を連想させた。
「そうじゃ。お主じゃ。お主に頼みたいことがあったのじゃ」
「私に頼む、ということは浮浪者達に用が?」
「うむ、妾はお主らを招待して茶会を開きたいのじゃ」
「茶会……?」
オレも、さっき聞かされて驚いた。国境警備の仕事に就いてからずっとそれが目標だったらしい。ニキに浮浪者に茶菓子を配れないと言われて、それではナタリア自身が茶会を主催すれば良いと考えたようだ。失敗から自分なりに考えたナタリアの回答だった。
「呼びかければ集まるだろう。だが、なぜそんなことをする?」
「お主たちに幸せな顔をしてもらいたいからじゃ」
「そんなおとぎ話みたいな善意があるとは思えない」
「妾は妾が思っていたより遙かに英雄という存在に憧れておったようでな。その英雄になれないと知って、せめてもの善行を、と言えば良いのかのう。お主達に紅茶を振る舞って、みんなが幸せになるのを見て、それで妾は満たされたいのじゃ」
「それはそれで思ってたよりも身勝手なものだ。だが、裏表の無い善意よりは好みさ。断る理由は無いし、仲間に声をかけてくるとしよう。どこに集まれば良い?」
表通りにある公園とナタリアは答えた。裏路地の人間が表通りに出てくることを良く思わない住民もいるだろうが、夜ならば風当たりも弱いだろう。それに消灯後は誰も家の外に出ない。
「それでは、妾たちは先に公園で待っておるぞ」
オレとナタリアは茶会の準備をするため公園に向かった。
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最初はぽつりぽつりと一人二人ずつやってくるだけだったが、次第に五人ずつ、十人ずつと大人数の団体が公園にやってきた。どうやら口コミで情報が広がったらしく、草木の根を掘り返したように人が集まってくる。
「予想よりも多く集まってしまったのう」
「そうだな。前に見た三十人くらい、多くて五十人くらいだと思ってたんだが」
最終的に集まった浮浪者を数えて驚いた。ざっと百人はいる。どこにこれだけの人数が隠れていたのか謎だ。全員がボロを纏った浮浪者というのもある意味で壮観だった。
「ふふふ。賑やかなのは良いことじゃ。ナオトよ、手伝ってたも」
「わかった。しかし、まあ、全員に行き渡るよな? この人数」
あらかじめ紅茶と茶菓子の運び込みは終え、大量のストックはあるのだが不安だ。とにかく、茶菓子を配るために手と足を動かしていこう。ナタリアは、右側か ら列に並んでもらって順番に配るようなので、オレは左側から配って行く。感謝の言葉をかけてくれる浮浪者もいれば、無愛想に受け取るだけの浮浪者もいる。 礼儀に欠けた態度の悪いやつもいたが、とにかく数が多くて、そのどれにも反応を返せずにひたすら茶菓子を配っていった。
茶菓子を配ったら紅茶を渡していくことになる。しかし、野外用のコンロとポットで沸かすことになるので時間がかかった。次第に浮浪者達から手際の悪さに対する不満の声があがってくる。
「おーい! ちんたらやってんじゃねーぞ!」
「まだかよー。こんな調子じゃ終わらんぞ!」
「……いつになるかわからねえな。茶会とかどうでもいいし、物だけ貰ってとっとと帰るかね」
最後の呟きは、どこかすぐ近くから聞こえた。マズイと思った時には浮浪者の一人が積み上げた紅茶と茶菓子のストックに走って行った。
「悪いね、お嬢ちゃん! 俺ぁ、お茶とお菓子だけ貰って帰るよ!」
「何してんだ! 俺の分を持っていくな!」
「おい! ずりぃぞ! 俺にも寄こせ!」
先駆けた浮浪者に続いて、俺にも寄こせと数人の浮浪者が茶菓子のストックに群がった。それが暴動の引き金となった。勝手に奪っていく浮浪者が現れたこと で、自分の分が無くなる恐怖に駆られた浮浪者達が、我先にと紅茶と茶菓子のストックに飛びつき始めた。騒ぎはすぐに波及していき、瞬間的に膨らむ。こう なってしまっては、もう収まる様子は見られなかった。餓鬼が獲物に群がる地獄絵図が繰り広げられた。怒鳴り声と痛みに苦しむ声が交互に混ざって聞こえる。
悲しかった。ナタリアがあれだけ頑張って叶えようとした、小さな夢すらままならない。
「お、お主ら! 落ち着くのじゃ! 全員に行き渡る分は用意しておる! 勝手に持っていくのはやめい!」
「ナタリア! ……もう、無理だ。ここまで騒ぎが大きくなったら止められない」
「そ、そんな」
「なんつーかなぁ。……茶会ぐらい、やらせてくれても良いじゃねーかよ!」
誰に対しての愚痴かわからないけど、そう叫んだ。浮浪者相手に茶会をやるなんて穴だらけで準備不足な妄想だったかもしれないけど、叶っても良い願いだったハズだ。
「うるせーぞ! 公園で一体何をやっているんだ!?」
第三者の大声だ。騒ぎが大きくなりすぎて、ついに街の住民が騒動に気付いたようだ。
「衛兵を呼べ! 衛兵! よくわからんが浮浪者達が暴れている!」
「何をやっているのかしら!? 浮浪者がまた犯罪まがいのことをしたの!?」
「おい! お前ら! そこを動くな! これから全員を連行する!」
街の治安を取り締まる衛兵の集団が走ってきた。あれはマズイ。捕まったらニキにも迷惑をかけてしまうし、今回のケースだとオレ達が騒ぎの主犯者になりかねない。
「ナタリア! 逃げるぞ!」
「ナオトよ、なぜこんなことになったのじゃ?」
「オレにもわからない」
「妾は余計なことをしたのじゃろうか? 衛兵まで出てくる大事にする気など無かったのに。ただ楽しく茶会を開きたかっただけなのに」
「ナタリアは間違っていない。ただ、運悪く失敗してしまっただけだ」
ナタリアが間違っているというなら、それこそ世界の方が間違っていると思う。もしくは、ナタリアの願いを叶えてあげられなかったオレの力不足が原因だ。い や、本当はナタリアの手際の悪さが原因だとわかっている。でも、彼女に罪はあるだろうか? 彼女のせいにだけはしたくなかった。
「ナタリア、こっちに逃げよう!」
オレはナタリアを連れて、裏路地の方に逃げ出した。