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ナタリアから借りた懐中時計を見ると、針が午後六時を回っていた。片付けは途中だったが、日も落ちたことだし、今日はここまでにする。そろそろナタリアから魔力について教わる時間だ。とにかく、時間が足りない。
「ナタリア! 居るかー!」
茶室の扉を開けると、疲労困憊でソファーに突っ伏すナタリアの姿があった。テーブルの上には空の皿とティーカップがいくつもある。ソファーに突っ伏したまま、ナタリアは喋った。
「ナオトよ……。妾は、もう、疲れたのじゃ。このまま就寝でも良いじゃろう?」
「休憩時間は十分にやっただろ? 一時間は休憩させたんだから、あともう少しは付き合ってもらうぞ」
「休憩時間ではないじゃろ。夕食が作れんから紅茶と茶菓子で食事をしていたのであって、妾はこれを休息時間とは認めんぞ。……ぐふー、疲れたー」
「つーか、淑女にあるまじき光景だな。見てはいけないモノを見た気分なんだが」
スカートから生足が二本出ていて足を広げた蛙のような姿だった。オレはとりあえず目を逸らしておく。はしたない格好だから、さっさとスカートの中にしまってくれ。さる高貴な御方である魔王様なら、なおさらだ。
「おい、さっさと足をしまえ。目の毒だ」
「こっちの方が涼しいのじゃ」
「お前、オレが男だってこと忘れてんじゃねーだろうな。そっち見れないから早くしまってくれ」
「なんじゃ、お主は意外とウブな反応をするのう」
ムカついたけど、我慢する。「ほれ、しまったぞ」と声が聞こえたので前を見た。煌びやかな刺繍のソファーに居住まいを正して座る、麗しいご令嬢の姿がそこにはあった。お前、さっきまで蛙の死体だったよな? ビフォーとアフターの変化が、なんだか詐欺臭いレベルなんだけど。
「それで、妾になんの用じゃ?」
「ああ、実はな……」
あれ? なんか言いにくかった。考えてみれば、ナタリアに雑用を言いつけるのではなく、なにかを頼むのは、これが初めてかもしれない。
「……オレの世界には魔術というものが無かったから、魔道具の動かし方がわからないんだ。それで、良かったら魔力や魔術について教えてくれないか?」
「ふむ、お主の世界には魔術がないのか。なるほど、確かに魔術が無ければ、生活に困るのう。わかった。妾が師事してやろう」
「ああ、頼む」
「しかし、教えを乞うのであれば、それ相応の態度というものがあるじゃろ。ほれ」
「なんか言ったか? 時間が無いからさっさと教えろ」
「お主、本当に妾に教わる側の人間かっ!?」
……まぁ、確かに教わる側の人間として態度が悪いかもしれない。屈辱的だが、礼を尽くすべきなのだろう。ナタリアに頭を下げるのは、本当に屈辱だが。
「……オレに魔術を教えてください。お願いします」
「そんな敵意に満ちた表情で頭を下げられても困るのじゃ。……なんだか、その無礼な態度も慣れてきてしまったから、もう今さら咎めん。妾の私室に行こう。あそこには昔に使った教材があったはずじゃ」
オレとナタリアは私室に向かった。
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くつろぐためのソファーとテーブル。城下に広がる森を眺めることのできる大きな窓。読書と執筆をするための広い書斎机が置いてある部屋だった。
「ソファーにでも掛けて待っているがよい。妾は教材を取ってくるのじゃ」
そう言ってナタリアは硝子戸の本棚を開け、背表紙の本を物色し始めた。オレは言われた通りにソファーに腰掛ける。相変わらず、この城の椅子は座り心地が素晴らしい。あまりにも高品質なので、お尻でクッションを潰すのが恐ろしくなるくらいだ。
「良い部屋だな。こうしてじっくり見ると、隅々までセンスが行き届いているのを感じるよ」
「そうかの? 妾にとってこの部屋は、勉学を強制させられた嫌な思い出しかないんじゃが」
「お前、勉強なんてしてたのか? その割には頭が悪い気が……」
「ふん。お主は本当に無礼な奴じゃな。……しかし、そう言われるのも仕方ないのかも知れぬな」
「どうしたんだよ? 急に殊勝な態度じゃないか」
「お主に押し付けられた仕事をしていて思ったのじゃ。妾は、妾が思っているほど、器用ではなかったのだとな。お主は異界から来た物知らずの癖に、妾よりも 遙かに器用で、なんでもできる。それに比べて妾は不器用じゃ。これでは、《魔王の器が無いのに自分は魔王だって言い張る子供》と言われても、仕方がないこ とじゃと思った。それだけじゃよ」
そう言って落ち込むナタリアには、初めて出会った時に感じた不快な横暴さは無かった。天真爛漫とも言える黄金色のエネルギーも消えている。どこにでもい る、ただの少女になっていた。ナタリアは、度を過ぎた理不尽な物言いをするが、それはなにも知らなかったからだ。彼女の頭脳をどうこう言うのは言い過ぎた かもしれない。
「ごめん、お前に頭が悪いというのは言い過ぎた。お前はなにも知らないだけだ。無知なだけ」
「ふふ。それはそれで傷つくのじゃがな。謝罪しておいて侮辱するとは、お主も天の邪鬼だのう。じゃが、謝罪は要らんのじゃ。お主の言うことは正しい」
「正しくなんかねーよ。……本当は、正しいことをしているかわからないし、不安なんだ」
ナタリアは、オレを見て驚いた顔をしていた。そんなに意外だっただろうか? 人は誰でも不安を抱えているし、それはナタリア自身が知っているはずだ。
「そうなのか? その割にはお主は常に堂々としてるように見えるが」
「堂々としているのは自信があるからじゃねーよ。親はろくでなしで、家はぼろぼろだったから、せめて堂々としている振りをするしかなかっただけだ。たとえば、自信満々に料理をしたけど、オレの作った飯は不味かっただろ? そういうこと」
「じゃが……しかし、自信が無くとも、お主にはパワーがある。妾には無いのじゃ」
「虚勢を張っているだけだよ。強いヤツの真似をしているんだ。お前にだって、英雄の真似はできるだろ?」
「……妾にはできぬのじゃ。妾は、魔王には相応しくないからのう」
「あんまり深く考えるんじゃねーよ。持ってないもので悩んでも手に入らないぞ。そんなことで悩む暇があったら、オレに魔術を教えてくれ。オレが、足りない分の力を、貸してやれるかもしれないから」
オレはナタリアに色々言ってきたが、少し言い過ぎたかもしれない。別に、ナタリアの落ち込んだ顔が見たかったわけじゃない。どこかでナタリアに嫉妬してい たんだ。裕福な家庭で育ったナタリアより、雑草根性で生きてきたオレの方が優れているって証明したかっただけだ。それが証明できなければ――オレの不幸に 意味が無いなら、これほど悔しいことは無いから。
「ナオトは優しいんじゃな」
「オレは優しくなんてないぞ。ナタリアはお人好し過ぎるな」
「ふふ。無理に褒めなくとも良いぞ」
「褒めたんじゃない。心……けなしたんだよ。むしろ」
心配した。という言葉は呑みこんだ。オレは一体どうしてしまったんだろう? さっきから、どうも、自分らしくない。いやいやいや、違う。オレじゃない。オレじゃなければ、ナタリアだ。きっと、ナタリアの調子がいつもと違うから、オレまで影響を受けてしまったに違いない。
ナタリアは七冊ほどの本を抱えて、オレの横に腰を下ろした。距離が近いように感じたので、ナタリアとの隙間を空ける。テーブルの上に広げられた本のうち、 白い魔術書をナタリアは開いた。ぱらぱらめくって、ひとつのページで止まる。そこには丸い空白を囲む形で、円状に文字が綴られている魔法陣が描いてあっ た。
「これは通称《魔力の穴》と呼ばれるページじゃ。この魔法陣に触れると、微弱じゃが魔力を吸い取られる。その時、身体に流れる魔力を感知できるじゃろうから、まずはそれで魔力の存在を確かめてみよ」
「空白の部分に触ればいいのか?」
「呼吸を忘れてはならんぞ。魔力は息を吸う時に、大気中から吸収するものじゃからな」
言われた通り深呼吸をしながら、魔力の穴というページに右手を押しつけた。すると、肺から右手に血液の流れとは別の、熱い気の流れが右手の平に集まって、魔法陣の中に抜けて行く。これが魔力か。魔力とは熱い気のようなものなのか。
「なんだこれ、すごいな。上手く言えないけど、うん、なんかすごい」
「感覚がわかってきたら、次からは魔法陣に触れずに同じことをしてみるのじゃ。そのうち、何も使わずとも、手から魔力を放出できるようになるはずじゃ」
こうして、魔法陣に手を当てたり離したりを繰り返しながら、オレは魔力を操作する練習をした。
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魔力を扱う感覚を言葉で説明するのは難しい。強いて言うなら、自転車の乗り方を練習する時に補助輪を付けて練習していたら、いつの間にか乗れるようになっ ていたのと同じ、という感じか。魔法陣で魔力を放出しているうちに、いつの間にか自由に魔力が扱えるようになっていた。熱い気のようなモノが身体中を動き 回る。これを自分の意思で制御できていた。
「だいぶ魔力を操れるようになってきたと思う。どうだ?」
「うむ、基本は上出来じゃな。お主は筋が良い」
「そうなのか? よっしゃ、なんか嬉しい」
ハイタッチでもしようと思って片手を上げたが、ナタリアはそれを見てキョトンとしていた。
「なんじゃそれは? 魔術の構えか? 魔力の放出ができるようになったからといって、魔術の行使はできんぞ? 次はナオトの潜在属性を探らなくてはならん」
「あー、いや、これは、オレの居た世界の儀式みたいなもんだ」
「ナオトの居た世界にも儀式魔術があったのか? 異界の魔術は珍しいゆえ、興味があるのじゃが」
「儀式と言ったのは忘れてくれ。挨拶みたいなもんだ」
首をかしげるナタリアだったが、特に追及するでもなく次の授業に取り掛かった。次は《潜在属性》を探る授業とのこと。潜在属性とは、文字通りその人間が潜 在的に持っている属性魔術の才能らしい。普段、魔術を行使する場合は、魔法陣や魔道具による魔力の変換が必要なのだが、潜在属性の魔術だけは自力で魔力を 変換することができ、魔術を行使できるようだ。
「要するに、オレの得意な魔術はなにかっていうのを調べるのか?」
「厳密には違うが、その認識で問題ないじゃろう。たとえば、妾は火と闇が潜在属性ゆえ、このように黒炎の魔術が使えるのじゃ」
ナタリアが人差指の上に小さい黒炎を灯してみる。周囲を明るく照らすが、燃焼現象の部分が真っ黒な不思議な火だった。
「みんなナタリアみたいに黒炎が使えるのか?」
「二属性持ちは珍しいゆえ、その中で火と闇の属性となると、魔界でも妾だけじゃろう。じゃが、潜在属性で使えなくとも、魔道具や魔法陣によるプロセスさえ踏めば、だれでも黒炎は使える。要は、自力で使える魔術は何かという話じゃ」
「なるほど」
ナタリアはテーブルに広げた白い魔導書の先をめくる。そこには六芒星と色の違う文字が七つ書いてあった。その真ん中の文字に魔力を流すよう指示される。言われたとおり、人差指で文字に触れ、魔力を流すと黄色い文字が輝きだした。
「ほほぉ、お主の潜在属性は《光》か。闇のマナが満ちる魔界では珍しい属性じゃの」
「そうなのか?」
「まぁ、魔道具を使えば誰でも行使できるんじゃがな」
「なんだよ。希少かと思ってちょっと喜んだのに」
「その気持ちはわかるのじゃ。妾も黒炎の使い手と知って喜んでいた時期があったのでな」
ナタリアと目が合って、なんとなく笑い合う。
「しかし、ナオトは教えがいのある生徒じゃの」
「そうか? 先生が優秀なんじゃないか?」
「ふふふ。……普通は、魔力の放出を習得するのに数日かかるものじゃ。妾も三日かけて習得したというのに、お主は数時間もかかっておらん」
「いやいや、自転車みたいなもんだろ? 小さい子供がやるならともかく、大人がやればこれくらいは楽勝だって」
「よいよい、謙遜するな。お主は優秀な魔術使いになる。妾も教えられるところまで教えるゆえ、今日は最後まで付き合うが良い」
こうしてオレは魔術を学んでいき、光属性の《拒絶》の魔術を習得したところで、ナタリアとの勉強はお開きになった。ナタリアはなにも言わなかったが、おそらくオレの上達速度は常人を超えていたのだろう。ナタリアが次第に自信を失っていくのが見ていてわかった。
ひょっとしたら、ナタリアの領域まで追い付いてしまったのかも知れない。さすがに、それは無いと思いたいが、ナタリアが最後に呟いた「妾が教えられることは、全て教えたのじゃ」という言葉が妙に重い響きを含んでいた気がする。
とにかく、今日は、夜が更けて遅いので、寝ることにした。